「今日の予定は?」
穏やかな朝だった。大きな窓から差す光は、積もる雪のせいか少しばかり凛とした色をしていて、静かで落ち着いた早朝を演出している。
今日のお兄さまは珍しく早起きだった。
朝のあいさつの直後に問いかけられた質問に、ぼんやりと寝起きの回っていない頭で「えーっと」と返事をする。
自分の目は半分も開いていない気がした。間延びした声が面白かったのか、小さく笑い声が聞こえる。
「今日はなにもないから……出掛けようかな。ツンドラタウンの都市部とか」
特に予定は無かったのだけれど、聞かれてしまうと何もしないのも勿体無いように思えてそう答えた。
切れてしまったコスメやケア用品もあったし、買い出しには丁度いいだろう。
とっくにベッドから出ていた彼は、わたしの回答を聞いてぱちりとこちらを見る。
「それは……一人で?」
「うん。いつもそうだし……」
わたしは仕事以外だと、誰かと出掛けることは滅多にない。
家族とは勿論、外に友達と呼べる人もいないわたしは大体の行動を一人で行っていた。
もう何年も続けていることである。
最初は居心地が悪く感じられるときもあったものの、今となってはすっかり慣れて何処へでも行けるようになっていた。たまに、帰りの道を間違えることはあるが。
お兄さまは、どこか曇った表情をしていた。
なんでそんな顔をするのか、と不思議に思ったけれど、徐々に覚醒してきた脳がはたと気がつく。
この前帰りが遅くなって怒られたからかもしれない。
「……今日はすぐ帰るよ、大丈夫」
「え。あー、いや、そういうことじゃ……」
安心させたくてそう伝えると、お兄さまはきょとんと数秒固まった後に言葉の背景に気がついて目を逸らした。
やんわりと否定を入れて次の言うことを選ぶ彼は、そのうちおずおずと話し出す。
「今日、僕も暇なんだよね」
「そうなんだ。お兄さまは何するの?」
「……まだ、決めてなくて」
静かな部屋に、かち、と爪同士が当てられる音が響いた。お兄さまが自分の指先を動かして鳴った音である。
「だからさ。その……バイク、出してあげてもいいよ」
「え」
「ほ、ほら、意外とここから街までは距離があるし……雪もすごいから。僕がいれば帰りも楽だろ?」
荷物持ちくらいなら出来るよ。彼はそう言いながらわたしに顔は向けずに俯く。
彼の背中側に座るこちらからだと頬の毛に隠れてしまって表情が見えなかった。
それは、どういう意図で提案してくれているのだろう。
お兄さまから誘われるなんて、何年振りかも分からない。
驚きと、困惑と、あとほんの一握りの期待が胸に広がる。
「一緒に、出掛けてくれるの?」
「だから、さっきからそう言ってるだろ。僕がいたら困る?」
「そ、そんなわけない」
つい確認の問いかけを挟むと、返ってきたのは焦ったような声だった。
短いしっぽがゆらりと揺れたのが見える。
嬉しい、と上擦った声が口をついて出た。聞こえたのか聞こえなかったのか、ぴくりと彼の耳の先が動く。
それに対する返事は特になかったが、代わりに座っていたベッドがぎしりと揺れてお兄さまが立ち上がった。
「なら、決まりだね。車と違って寒いからちゃんと暖かい格好で来ること」
彼の手が散らかった机を漁って、ひとつなにかを取り出す。
指にかけてくるりと回されるそれは、よく見るとオートバイの鍵のようだった。
爪に引っ掛けたキーホルダーと、壁に寄りかかるお兄さま。
にやりと笑ってこちらを見下ろす様子はまるでどこかの映画のワンシーンのようだけれど、格好がパジャマのままなせいで台無しだった。
▽
お洒落な音楽が店内に流れている。
焼き菓子のようなあたたかい香り、明るく雪の反射の光を取り入れた内装はのんびりと落ち着く雰囲気に溢れていて、たくさんのお客さんがそれぞれの時間を楽しんでいた。
ここはツンドラタウンでも人気のカフェ。確かな味と写真映えする店内が話題となって瞬く間に名前が広まり、それからリピート客が絶えないらしい。
買い物がひと段落して休憩しようと立ち寄っただけだったが、入ってみるとたしかに入り浸りたくなる気持ちが分かる。
気持ちが良くて程よく賑やかな店内は、おしゃべりにも作業をするにも丁度良さそうだった。
「なまえは何にする?」
「えっと……ミルクティーにしようかな」
「分かった。じゃあ、ミルクティーを二つ。ホットで……片方は甘めにしてくれる?」
注文をしてくれるお兄さまを横目で見る。彼は大きめのマフラーと眼鏡で顔を見えにくくしていた。
ここツンドラタウンでは、オオヤマネコの特徴のある頬の毛と模様は良くも悪くも目立ってしまうからだ。
相手の店員は彼がリンクスリーのご子息であるとは気が付かず、ごく普通に接客をしている。
二人のやりとりを眺めていると、店員がドリンクの準備のために後ろに回ったタイミングでお兄さまがこちらに顔を向けた。
「甘いのはきみのね」
こそこそ話をするように、声を潜めて彼がわたしに囁く。
別にわたしは甘くないのも好きなのだけれど、どういう気の回しでそう注文してくれたのだろう。
不思議に思うが、わざわざしてくれたことに疑問を呈するのも野暮かと思って素直にお礼を述べる。お兄さまは満足げに笑った。
「席、取ってくるね」
「ああ、ありがとう。飲み物は僕が持ってくからそのまま待ってて」
「分かった」
店内は混んでいるとは言っても、平日のお昼過ぎなだけあってぱらぱらと空きがあった。
買い物の袋をお兄さまから受け取って歩き、柔らかく光が差す席を選ぶ。
ツンドラタウンは寒いから、わたしのような動物には日向の方が心地がいい。
暫くぼうっと待っていると、そのうちにお兄さまがトレーを持って席についた。白いティーカップから、結構な湯気が立っている。
ついでに水も持ってきてくれたようで、机の上にはグラスとティーカップが二つずつ置かれた。
水に入った氷が、机に置いた衝撃でからりと音を立てる。
「ありがとう」
「なんかさ、思ったよりアツアツにされちゃったみたいなんだ」
「暫く飲めないね」
「ね。困ったなあ」
困ったと言う割に、彼は緩んだ顔をしていた。お兄さまは上着を脱いで椅子にかけ、柔らかなソファーに座る。
眼鏡があるからか、対面で見ると普段の彼とは違うように見えて少しそわそわした。
「必要なものは買えた?」
「うん。付き合ってくれてありがとう」
「一人じゃここで買い物することなんてないから新鮮だったよ。オオヤマネコ一人で来るとちょっとやりにくいから」
お兄さまは、そう言って頬杖をつく。ミルクティーの湯気は未だ健在で、まだ口をつけれそうにない。
お兄さまとのお出掛けは、随分とスムーズに楽しく過ぎていっていた。
久しぶりに外で二人きり、そんな状況ではもっと気まずくなるものかと思っていたけれど、なぜか家でいるときよりもずっと自然に会話ができていた気がする。
「平日にしては混んでるね」
「そうだね。人気っていうのは嘘じゃないみたいだ」
店内をちらりと見回すと、大小さまざまな動物が寛いでいるのが一目で分かる。
楽しそうに会話をする狼のカップルや、一人で眠たそうに本を広げるユキヒョウ。
鼠の女性たちが複数人でお茶をしている隣で、ノートパソコンを開いて作業をしている白熊。
皆それぞれ思い思いの時を過ごして、とても穏やかだった。
目線を下に落とすと、足元にはショッピング袋を入れた荷物置きの籠が置かれている。
のんびりとこちらを眺めるお兄さまの瞳には、フレーム越しにわたしが映っていた。
「なあに。どうしたんだい?」
お兄さまはきょろきょろと辺りを見回すわたしに柔らかく笑う。ううん、と誤魔化して、ティーカップに手を添えた。
このカフェで寛ぐお客さんたちから見て、わたしたちはどんな風に見えるのだろう。
周りを見ていると、ふと疑問に思う。
買い物帰りに、カフェに寄るネコ科の二人。
見た目が違うからまさか兄妹だとは思われないだろうけど、仲のいい知り合いや友人だと思われることはあるかもしれない。
少なくとも、ぎくしゃくした、いびつな二人だとは思われないだろう。
そう気がつくと、「本当にお兄さまと出掛けているのだ」という実感が湧いてくる。
本物の兄妹みたいに二人きりで外に出て、なんてことのない会話をして。
まさかこんな日がまた訪れるだなんて、夢にも思っていなかった。
「もう寄りたいところはないの?」
「うん……特には」
「そっか。じゃあここを出たら帰る感じかな?」
こうして一緒に来てくれたのは、もしかしたらわたしが家を出ないように機嫌を取るためかもしれない。
あるいは、律儀に約束を守ろうとしているだけかもしれない。
しかしそれでも、この時間がどうしようもなく愛おしく思えてしまう。
触れる陶器の表面はまだまだ熱かった。このミルクティーが永遠に冷めなければいいのに、なんて頭の端で考える。
そうしたら、ずっとこのまま「仲の良い二人」でいられるのに。
「帰りたく、ないな」
ぽつりと、声が出た。お兄さまの目が大きく開く。
彼の表情を見た瞬間に、「言ってしまった」と頭がすっと冷えていく感覚が襲った。
反射的に俯くと、揺れる自分の瞳が紅茶の水面に映る。
小さな声だったからカフェの雑音に紛れて消えてくれたら良かったのだけれど、なかなかそううまくはいかなかった。
「え、えっと、ごめんなさい。その……」
どうにかして失言を誤魔化さなければならないのに、焦った頭では良い言い訳がうまく思いつかない。
お兄さまは黙ったままである。恐ろしくて彼の顔が見れなかった。
「……ねえ」
柔らかな声がカフェの喧騒の中でやけに響いて聞こえる。先に動いたのは彼の方だった。
伸びる手はわたしのそれに重ねられて、びくりと動いた指先を抑えるように大きな肉球が触れる。
お兄さまは怯えて身体を縮こませるわたしを見て一瞬動きを止めたものの、すぐに気を取り直した。
悪戯っぽくこちらに笑いかける表情は、どこか優しさを感じる。
「帰りたくないって言うんだったら、ちょっとだけ寄り道しようか」
「え」
軽い力で指先が絡められた。思いもよらない言葉にぽかんと口を開けてしまうのは、今日一日のうち既に二回目のことである。
固まるわたしを面白がるように彼がさらににんまりと口角を上げるのが見えた。
「お兄さまが特別に案内してあげよう。なまえも気に入るんじゃないかな?」
「えっと……それはどこに行くの?」
「それは秘密さ。見てからのお楽しみ」
「え、えー……」
「っふ、すごい嬉しそうだね?」
どきどきと胸が高鳴るのは、どうやらばれているみたいだった。
「帰りたくない」を鬱陶しがられていなかった安心と、特別に、という一言がわたしを浮き足立たせる。
「ミルクティー、早く冷めると良いね」
先程まで「冷めないでほしい」なんて思っていたのが嘘みたいに、素直にその言葉に頷く。
少しの風が店内に入り込むと、白い湯気が形を変えて揺れた。
▽
お兄さまがオートバイの免許を取ったという話は、使用人たちが話している会話がたまたま耳に入ったときに知った。
そのときはまた彼と会話ができるだなんて思ってもいなかった頃で、彼の運転するバイクがどんな乗り心地なのか想像できずに首を捻った記憶がある。
もし、まだ仲が良かったら乗せてもらえたのかな、なんて。
一人ぼっちの部屋で隣からの物音を聞きながらずっと考えていた。今、わたしはそれを実現できてしまっている。
揺れる身体と、吹き荒ぶ風が勢いを増す。砂が頬に当たってぴりぴりとむず痒い痛みが走った。
「ねえ!どこに向かってるの!」
「そんなに大きな声を出さなくても聞こえてるよ。もうすぐ着くから、良い子にしてて」
エンジンの音が全てを掻き消してしまう気がして声を張ると、お兄さまがぽんとわたしの頭を撫でた。思わず口を閉じる。
前を向くその横顔はずっと笑みをたたえていた。家にいる時よりも、その笑顔は無邪気で幼く見える。
砂漠には何度か来たことがあるけれど、こうして生身で風や空気を味わうのは初めてのことだった。
普段の移動は車で行われるから、窓越しにその景色を眺めるだけである。
どこか遠くの世界のように感じていた黄土色の砂の海に、今では触れられるほど近付いていた。
エンジン音の隙間。一瞬だけ、お兄さまの鼻歌が聞こえたような気がした。
少し進んだ先にぽつりと見えたのはオアシスだった。何個か立てられたテントのうちの一つに、彼のオートバイが止まる。
「じゃーん。どうぞ、中へ」
「わ……!」
「良い所だろ? 僕の隠れ家なんだ」
お兄さまが開けてくれる入り口を促されるままに潜ると、そこには広い空間が広がっていた。
入った途端にふわりと彼の香りが広がって、一瞬ツンドラタウンのあの屋敷に帰ってきたのかと勘違いをしそうになる。
柔らかく光る灯り、広いテントの中には所狭しと物が並んでいた。
「……一人で出掛けるときって、ここに来てたの?」
「あー、まあね。家にいたくない気分のときとか」
お兄さまは時折、一人でバイクに乗って出掛けていくことがあった。
共に夜を過ごすようになってからもその習慣は継続されていて、ヘルメットを持って出ていく姿をごくたまに見かける。
そのときは何処に行くのかと聞いても回答を濁されていたのだけれど、ようやく答えが分かってすっきりした。ここに来ていたのか。
お兄さまは周りを見回すわたしを置いて奥に歩を進めた。慌ててそれに着いていく。
ここにどうぞ、と案内されたところには、座り心地の良さそうなクッションが置かれていた。
「お茶でも淹れる? あ、でもさっき飲んだから要らないか……」
「……寒いし、手間じゃなければ飲みたいな」
「っそう? 分かった、ちょっと待ってて」
折角気を利かせてくれたのだし、とお願いしてみると、お兄さまはぱっと顔を輝かせてお茶を淹れる準備を始める。
思えば、彼に淹れてもらうのは初めてのことかもしれない。昔はずっと家にいて、使用人が用意したものを飲んでいたから。
がちゃがちゃと物音がするのを聞きながら、用意されたクッションに座る。
少し薄暗くて、思い出の匂いが漂うここはまさに「隠れ家」と称するにふさわしい場所である。
「……広い、な」
お兄さまは、家にいたくない時はここに来るのだと言っていた。
彼にとってオアシスは文字通りの役割を果たしていて、必要な逃げ場なのだろう。わたしがズートピアの外に求めたもののように。
彼の後ろ姿を遠くから眺める。左右にゆっくりと動く大きな耳。
今日のお兄さまはなぜだかずっと機嫌が良くて、眼鏡を外した今では昔の面影を色濃く残していた。
「おまたせ。熱いから、まだ飲んじゃだめだよ」
「ありがとう、お兄さま」
木のトレーが床に置かれる。マグカップと一緒に置かれたお皿には角砂糖が何個か添えてあった。使っても良いということだろう。
先程のことといい、お兄さまはわたしがストレートの紅茶を飲めないと思っているのかもしれない。
「ここには僕の大切なものが沢山あるんだ」
彼は周りを見渡して、穏やかな声でそう言った。お兄さまがここを大切にしているというのは、一目見ればすぐに分かる。
程よく乱雑で種類を選ばない物のラインナップ。好みのものを厳選したのであろう家具たち。
どれも彼が気に入っているものを詰め込んで、この空間は出来上がっていた。
「……」
隠れ家にいるお兄さまの表情を見ると、どことなく吹雪の止んだ日の朝が思い出された。
凪いだ雪景色、あたりを包む太陽の光と、それを反射して発光したように見える金色の足元。
雪が降りすぎてウェザーウォールが止まった時にしか見られない、珍しい景色である。
家にいるときに、お兄さまがこんなに穏やかな顔をしているところは見たことが無い。
「どうして、わたしをここに連れてきてくれたの?」
ずっと考えていた疑問を、気が付くと口にしていた。
これまではぐらかして出掛けていくほどひた隠しにしていた場所なのに、何故今になってわたしを連れてきたのか。
少し前までは会話をすることすら怯えていたのに、驚くほど自然に問いかけることができて驚く。
すっきりとした砂漠の空気がそうさせるのか、それともお兄さまが昔と変わらないように見えるから油断してしまっているのか。真相は誰にもわからない。
「出掛けて気分が良くなっていたから」「わたしの我儘を叶えるのに連れてくる場所がここしか思いつかなかったから」「お兄さまが、わたしを『大切』の中に含んでくれているから」。
予想した理由はどれも間違っているように思えた。わたしなんかが思いつく答えでは、彼を推し量ることなど出来やしない。
「……なんでだろう」
お兄さまは質問への明確な答えを持っていないようだった。初めて気がついた、とでも言うようにぱちぱちと瞬きをしている。
数秒、静かな時間が流れた。家と違ってここでは吹雪の音はしないし、外は大して風も吹いていないようで本当に物音一つしない静寂である。
広い砂漠では、誰しもが孤独になるのかもしれない。清閑な空間に身を置いていると、そんなことがふっと頭に浮かんだ。
お兄さまはテントで一人で過ごす時、一体なにを考えていたのだろう。
「……きみが」
ゆっくりと、落ち着いた声が落ちる。
お兄さまはそれから口を開かなかった。茶色の瞳が揺れている。顔は前を向いているけれど、実際彼は何処も見ていないように感じられた。
「わたしが、なに?」
痺れを切らしてこちらから問いかける。その言葉の続きを待つには、わたしでは安心が足りなかった。
お兄さまは催促の声を聞いて、はっとしたように肩を揺らす。朝のようにかちかちと爪を鳴らす音がした。少し間があってから彼が喋り出す。
「……いや、その……きみなら父さんに告げ口なんかしないだろうと思って! ずっと誰かに自慢したかったんだ」
わざとらしく明るく発される声、巻き気味のひげが少しだけ動くのが見えた。彼の回答は、最初に言いかけた答えとは違うような気がする。
「そっ、か。すごく素敵な場所だもんね」
しかし、彼が言わないと選択したのならさらに追求することなんて出来るわけがない。
気がついていないふりをして、当たり障りのない返事を口に出す。素敵な場所だと思ったのは紛れもない本心だった。
「うん。ずっとここに居たいくらい」
お兄さまが低い声で笑う。そういえば昔はもう少し高い声だったな、と気がついて、あの頃から随分と時間が経ったことを今更思い出した。
今日のお兄さまはまるで昔に戻ったかのようで、すっかり頭から抜け落ちていたのだ。
▽
砂漠の夜はよく冷える。このオアシスの唯一の欠点はそこだった。寒さには強い身体と言っても、心まではそうもいかない。
昼間の太陽が嘘のように芯から冷える乾いた寒さは、独りぼっちの孤独をより劇的に演出する。
家にいるよりはマシ、と前までは思えていたのに、夜自室に一人でいられなくなってからは夕方のうちにオアシスを出ることが多くなっていた。
「……わたしもここが好きだな。あたたかくてのんびりしてて、すごく落ち着く」
刻一刻と気温は下がってきているのに、なまえはふわりと微笑んでここを「あたたかい」と評した。
そりゃあ、いつだって吹雪のツンドラタウンに比べたら、寒さに弱い彼女はこちらの方が過ごしやすいに決まっている。
だと言うのに、リラックスした表情でクッションにもたれる妹の姿を見るとどうしても心臓がとくとくと音を立てた。
僕の作った場所を、なまえも気に入ってくれている。その事実がこんなにも心を満たしてくれるだなんて思ってもみなかった。
『きみが、喜んでくれると思ったから』
自然と出ていきそうになった思いつきを、咄嗟に飲み込んだ自分を褒めてやりたい。
自分すら気が付かなかった「彼女を連れてきた理由」。
口に出してしまえば、これまでの建前や立場が一瞬で崩れてしまうのは明らかだった。
なんとか言い訳をつけて誤魔化したけれど、なまえは違和感に気がついていたはずだ。
それでも深いところまで探らずに放っておいてくれるのは、僕の妹の弱くて優しいところだった。
なまえはどこまで僕のことを分かっているのだろう。
はぐらかすことが多すぎて、自分でも分からないところまで察されているのではないかと不安になる。
「……」
なまえは眠たそうだった。数分前の背筋が冷えるやりとりなどすっかり忘れてしまったかのように欠伸を堪えている。
トレーの上の淹れたお茶はもう湯気が立たなくなっていた。
カップの側面を触ると、とっくのとうにぬるくなっているようである。
眠気覚ましにもいいかと思って薦めると、なまえはすぐに口をつけた。僕のものより小さな耳がぱたぱたとはしゃぐように揺れる。
「おいしい」
「本当? 薄くないかな」
「大丈夫。お店のより美味しい」
店のものよりも、というのはさすがにリップサービスが過ぎる。不覚にも笑いが漏れると、彼女はそんな僕を見て嬉しそうにしていた。
人に紅茶を振る舞うのは初めてのことで緊張したけれど、目を細めて味を褒めてくれるなまえを見て少し安心する。
彼女は何回かカップに口をつけた後、ふう、と息を漏らした。茶色く透けた水面が揺れる。
同時に、ぽつりと小さく声がした。
「わたし、ね」
「……」
「お兄さまの大切な場所に入れてもらえて、すごく、すごく嬉しいよ」
なまえは、どこまで僕のことを分かっているのだろう。先程と同じ疑問が、脳裏を掠める。
僕は、少し前から自分自身を信じられなくなっていた。
出来損ないで嫌われ者の妹が、僕と一緒に布団に入ってくれることがどうしようもなく嬉しい。
危ないことはしてほしくないし、僕のしたことで喜ぶ顔が見たい。
その鈴の鳴るような声で発される「ありがとう」がもっと欲しい。一度でいいから「愛している」と囁かれてみたい。
日に日に強く感じる思いは、どれも僕の信じたかった自分とはかけ離れていて。
今日だって心配せずともなまえは明るいうちに帰ってきただろうに、わざわざ面倒な荷物持ちまでやってあげてしまった。
リンクスリーであることを気にしながら街を歩くのはとても疲れる上、バイクだって免許を取ったばかりの僕では運転にそこそこ気を張る。
それでも、なまえから「嬉しい」と言われるだけで。
たったそれだけでここまで連れてきて良かったと思ってしまう。
「そう。なら良かった」
顔が熱かった。期待通りに事が進んで浮き足立っているのをどうしても気付かれたくなくて、なまえの肩に頭を乗せる。
瞬時にわあ、と大きな悲鳴が耳元で聞こえた。
彼女は寄りかかるようにして顔を隠した僕よりも、手元の紅茶を溢さないことに意識が向いている。
あわあわと焦りながらなんとかトレーの上にカップを戻して。
それからようやく「どうしたの」と困惑した声で問いかけられた。
「砂漠の夜は冷えるからね」
「お兄さまは寒くないでしょ?」
「もちろん、なまえのためだよ」
そのまま傾れ込むように抱きしめてそう囁けば、彼女は簡単にぱたりと黙り込む。
「やりすぎたかも」と思うことは無かった。前と違って、選んだ言葉の甘さは本物である。
オアシスは僕のすべてを曝け出せる場所である。
思い出のおもちゃも、大して弾けやしないギターも、ストックしたおやつの数々も、全てあの家には置いておけないものばかりだった。
リンクスリーの名がついて来ないこの広い砂漠では、誰にも暴かれることなく大切にしたいものに触れることができる。
ここだけは守られていて、ここだけは僕が僕でいることが許される。
テントを出れば、また僕らは利害の一致で関わり合う兄妹に戻るのだろう。そうでなければ僕は家族に認められない。
しかし、このオアシスの中だけでなら。きっと砂嵐が全て隠して誤魔化してくれる。
「今日はさ、帰らないでここで過ごそうか」
なまえは、そうした方が喜んでくれるだろうと思った。抱きしめたままで顔は見えないけれど、小声の肯定の返事を耳が拾う。
泣きたくなるくらい、愛おしい声だった。