冷えた空気の匂い。眠い目を擦ってふと目を向けた窓の外は一面の白。
久々に目にした、あまりに慣れ親しんだ光景。
外に雪が降っている。それを理解した瞬間、さあっと頭から冷たくなっていく感覚が襲った。ここは何処だ。
「……」
うまく動かない脳のまま数秒布団の中で固まっていると、隣で何者かが動く。
生き物のあたたかさを持つそれは、隣に横になる僕の背中にぴたりと貼り付いて、なにやらもごもごと喋っていた。
「さ、さむい……」
後ろを振り向くと、眉間に皺を寄せてこちらを見上げる彼女と目が合う。
僕に温もりを求めて縋る様子は普段と変わらず、凍りついていた身体が元に戻るように肩の力が抜けた。
「……帰ってきたかと思った」
落ち着いてよくよく見れば、この部屋は僕の家とは違ってかわいらしい色のカーテンをかけているし、ベランダに繋がる窓はシンプルな枠に嵌っている。
それらを見ればうちに戻ってきたわけがないとすぐに分かるはずなのに、寝起きのぼんやりとした頭で勘違いをしてしまっていたようだった。
まだ心臓が忙しなく音を立てている。
なまえは僕の状態などつゆ知らず、のんびりと頸の毛に顔を擦り付けていた。
毛の少ない人間からすると、僕の身体はもふもふとしていて触り心地が良いらしい。
「んん……? なんか言った……?」
首の後ろで彼女のくぐもった声がする。僕の呟きは彼女の耳に届かなかったようだった。当たる息が少し擽ったい。
この行動(なまえが言うに「モフる」と呼ぶらしい)は時々、特に時間に余裕のある休日の朝に見ることが多かった。
その度に「マーキングみたいだな」と思ってなんとも言えない気持ちになる。
調べたところ人間はそういった習性を持っていないようだから、なまえに他意はないはずだった。
そう分かっていてもむず痒く込み上がる何かはなかなか消えてくれない。嬉しいような、恥ずかしいような。
「あーっと……なんでもない。そんなことより、外、雪が積もってるよ」
「……え、嘘! 積もったんだ」
気まずくなるのを恐れて彼女の質問を誤魔化し、話題を変えるように外の様子を伝えると、意外そうに驚きの声が上がった。
声と共に、彼女がぱっと顔が上げて外を見る。
昨夜の天気予報で雪が降るとの予報があったのは知っていた。
しかしなまえによれば僕たちが住む地域はそこまで雪が積もることは無いようで、今回もそうじゃないかと話していたのだ。
ウェザーウォールが無いと天候が予測しずらくて不便だな、と最近よく思う。人間という一種類の動物のみが中心となっているからこそ発達しない技術なのだろうけれど。
離れた距離に少し名残惜しく感じながら、なまえに倣って外に視線を移す。
白、白、白。たまに見える建物の灰色。まだ朝なのと、雪が降っているからか人通りは少なく、より雪景色がしんとして見えた。
「すごい。きれいだね」
「……そう? 僕のところではこれが普通だったから、なんにも思わないな」
「パウバートくんのお家って雪国だったんだ! わたしはあんまり積もってるの見ることないから、ついテンション上がっちゃうんだよね」
言葉通り、なまえの瞳はきらきらと輝いていた。
先程まで眠気にとろんとしていた様子は感じられず、子供みたいに窓の外をじっと見つめている。
彼女の黒い瞳に反射して映る雪景色は、僕の見ているものとは全く違うような気がする。
ぱちぱちと繰り返される瞬きの合間の瞳の中をぼうっと眺めていれば、視線に気がついたなまえがこちらに顔を向けた。
「どうしたの?」
「……いーや? 別に」
「えー? なにその言い方」
上体を起こした彼女とは対照的に僕は寝っ転がったままだったから、必然的に上から見下ろされる形になる。彼女の手が僕の頭を撫でた。
恐らくは僕の方が年上なのだけれど、なまえは分かっているのかいないのか遠慮なくこちらに触れる。
毛の隙間から皮膚に触れた指先が思いの外ひんやりとしていた。
さっきまで布団の中にいたというのに、どうして人間というのはこんなにすぐに冷えてしまうのだろう。
もしツンドラタウンに来ても、寒くて長くは過ごしていられなそうだ。
いいや、なまえがうちに来ることなんてないのだから、そんなことを考えても意味はないのだけれど。
「手、冷たいね。大丈夫?」
「え、そうかな。ごめん、嫌だった?」
「あっ、いや違うんだ。心配になっただけ。嫌じゃない」
指摘するとすぐに手が離れてしまう。慌てて布団の中から手を伸ばして小さな彼女の手を掴んだ。
爪で傷つけてしまわないようにしっかり仕舞って、包み込むように握るとなまえはへらりと笑う。
「パウバートくんは寒いところ育ちだからそんなにもふもふなんだ?」
「ああ、そうかもね。今も全然寒くないし」
「えー、ほんとに? こんなに部屋の中冷えてるのに」
「本当だよ。だって、きみより僕の方があったかい、だろっ?」
怪訝そうにこちらを見下ろす彼女の手を、そのままぐい、と引っ張った。気の抜けた悲鳴が聞こえる。
バランスを崩して倒れ込むなまえを捕まえて布団の中に戻せば、二度寝しちゃうよ、と困ったような声が腕の中で聞こえた。休みなんだから、二度寝くらい気にしなくても良いのに。
なんだか今日は、なまえにくっついていたい気分だった。
手だけでなく身体にも触れると布団から出ていた部分だけやはり冷たくなっている。
下から僕を見上げる顔は文句を言いたげに眉を下げているけれど、口元はやんわり緩んでいた。
この子は、今彼女の顔に当たっている僕の首下の毛が一等好きらしい。嬉しそうなのが全然隠せていない。
分かりやすくてかわいい、なんて笑ってしまいそうになる。
先程の寝起きのなまえの真似をするように擦り寄ると、くすぐったそうに声が上がる。
人間にはこの行為の意味が分からないのだろう。それが良いのか悪いのかは、まだ僕には決め切れなかった。
「朝ごはん、食べないと」
「はは、寒くて出られないんじゃない?」
「出れる、よ! パウバートくんもあったかいもの食べたいでしょ?」
休日の朝食は、普段よりも幾分か豪華である。
なまえが普段よりも少しだけ時間をかけて作ってくれるものを食べたい気持ちもあるけれど、この冷たくて小さい身体を手放すのもそれはそれで惜しいような気がした。
「んー……」
「今日はサンドイッチを作ろうと思ってて、パンも買ってきてあるんだよ。寒いからホットサンドにしよ?」
「……それは、美味しそうだな……あっ」
美味しそう、と思った途端にぐう、とお腹が鳴る。
気が付かないでくれ、と願ったのも束の間、この距離で音が聞こえないわけもなく、にんまりとなまえの目が細まるのが見えた。観念して、回していた腕を解く。
「ふふ、すぐ作るからね」
「……ゆっくりでいいよ。あー、にやにやしながらこっち見るのやめてくれる……?」
▽
「夜ご飯はなにがいいかなあ」
食パンが不思議な形のフライパンに挟み込まれている。
小麦のいい香りとはみ出たチーズがじゅわりと焦げる音がして、じっとその光景に釘付けになっていた。僕を見たなまえが笑う。
「雪を見る時より目がきらきらしてる」と面白がられて、少しイラっとして目を逸らした。
朝食もまだなのにディナーの話をしている子に言われたくはない。
「寒いからスープとかかな。あ、でもシチューも良いかも。ルーがないから買いに行かないとだけど」
「……スープにしたら? 外に出たら身体を冷やすし、なまえの足じゃ雪の上は歩きにくいだろ?」
「確かに」
折角一日中家にいられる日なのに外に出て欲しくない。本音を言えば、そう思って提案した。
普段なら休みの日に彼女が買い物に出掛けてもなんとも思わないのに。
雪のせいで家を思い出してセンチメンタルになっているのだろうか。何故だか、誰かに傍にいて欲しかった。
「じゃあ、家にあるものでスープ作って……サラダとー、ご飯? パンの方がいいかな」
あ、でも朝パンにしちゃった。スープにマカロニとか入れたらバランス良いかな?
彼女が呟く。家にいた頃は、献立を考えるひとの話など聞いたこともなかった。
食べるもののことを考えてくるくると表情を変えるなまえは、料理が上手いだけあるのか次々に食事の組み合わせを考えている。
がこ、と、コンロに金属が当たる音。話しながら作業を進めるなまえの手元に目を向けると、フライパンの蓋が開いて見えた中身からはたくさんの湯気が立っていた。
手早くお皿に移される。出来立てのホットサンドはとんでもなく熱そうだった。
「先に食べてて良いよ」
「……いや、僕にはまだ熱すぎるから。なまえのが出来るのを待つよ」
「そう? 分かった」
ホットサンドを作るためのフライパンは、一回に一つ分しか作れないらしい。
ちょっと待っててね、ともう一つを乗せて挟む手捌きを眺める。いつだって料理をするなまえの動きは滑らかで、綺麗だった。
火をかけると、青白い炎が鉄板の隙間から垣間見える。青く反射した彼女の瞳が一瞬外に向けられて、少しだけ口角が上がった。
そんなに雪が降っていることというのは嬉しいことなのか。僕には理解できない。
「雪の日はさ、あったかいものがより美味しく感じられるからいいよね」
僕の疑問に答えるかのように、なまえが口を開く。そういうもの、だろうか。
僕にとって雪は当たり前のものだったし、寒さだってあまり感じないからその感覚もよく分からなかった。分からないけれど。
「……そう、だね」
早朝に感じた悪寒。「戻ってきたのかもしれない」と思ったときに咄嗟に思い出したなまえの存在。すぐに隣で触れた体温への、安堵。
彼女が言っている内容は、それと同じようなものだろうか。
確かに、あの時に感じたあたたかさは普段よりも柔らかく感じた。
「パウバートくんをもふもふする口実にもなるしね」
「……んー? なまえは雪が降ってなくても容赦なく触ってくるじゃないか」
「う、それはそうだけど!」
その触れ合いを最早鬱陶しいと思えないのが困ったもので。
嫌とは言ってないよ、と呟くと、今朝とは違って今度はしっかり聞こえたらしい。
小さな花が一輪芽吹くように、頬が染まって彼女がはにかんだ。