チョコレート・トレード

今日の伊能くんは、やたらと甘い匂いを漂わせていた。

放課後の教室。ホームルームから何分か経ち人が捌けて、ついに一人きりになったときに彼はやってきた。
『今日の放課後、先輩の教室に行きますね』と、わたしの予定も確認せずに朝送られてきたメッセージは嘘じゃなかったようである。

彼は遠慮なく教室の中に足を踏み入れて、わたしの席の前の机にどさりと荷物を置いた。いつもの通学鞄に、野球部で使うものを入れた大きなバック。
そこまでは普段通りなのだけれど、今一際目を引くのは彼に似つかわしくないかわいらしい紙袋である。

「なに、チョコいっぱいじゃん」
「苗字先輩はくれないんですか?」
「伊能くん、こういうの好きじゃないかと思って用意しなかった」
「そうですね。よくご存知で」

今日は二月十四日。校舎内はお菓子の香りを纏わせる女子と、それを見てソワソワと落ち着きなく様子を伺う男子で溢れている。
かく言うわたしも友チョコのお返しが無いと困ると思って少しばかりは準備をしてきたのだけれど、ありがたいことに思いの外貰う量が多くて全て配り尽くしてしまった。

仮にも伊能くんとは付き合っている身であるから、万が一にも期待していたら申し訳ないと思っていたところである。恐る恐る無いことを伝えて、想像通り飄々と受け流す彼を見て少し安心した。
伊能くんは学生らしいときめきやイベント事とは無縁の人だ。彼がチョコを欲しがるなんて天地がひっくり返っても無いだろうな、とは思っていたけれど。

「貰っても困るんですよね。別に特別チョコが好きって訳でもないし」
「じゃあ受け取らなきゃいいじゃん」
「勝手に入ってるんですよ。机とかロッカーとかに」

モテ男は大変だなあ。素直に感想を述べると、伊能くんは迷惑だと言う割には得意げな顔でふふんと笑った。
ぐちぐちと文句を垂れていても、モテるという事実はそこそこ嬉しいようである。よく分からない子だ。

勝手に入ってる、と彼は言っていたけれど、確かに伊能くんに直接渡すのはハードルが高いと思う。
彼には何を考えているのか分からない近寄り難さがあるし、勝手に入っていなきゃ堂々と受け取りを断るだろうと思わせる容赦のなさもある。というか、きっと実際にそうなのだろうし。
それでいて大人っぽくて顔も良いから、どことなくかっこよく見えてしまうというのが彼の厄介なところだった。

ちらりと置かれた紙袋の中身を見る。手作りのものから、市販のちょっと高そうな箱に入っているものまで、数個の贈り物が小さな紙袋にぎちぎちに詰められていた。
恐らくこの中のどれかに付いていた紙袋に、貰ったものを全て詰め込んだのだろう。この人は贈った人の気持ちとか考えたことあるのだろうか。

「美味しそうだよ。食べないの?」
「こんな何が入ってるか分からないもの、俺が食べると思ってるんですか?」
「したら捨てちゃうの? 勿体ない」
「じゃあ先輩にあげますよ」

否、贈った人の気持ちなんて少しも考えたことがないに違いない。

なんの躊躇いもなく包装を解くのを見て、先の疑問に対する答えをすぐに確信する。その贈り物が自分の為に用意されたものであるという自覚が全くない。

伊能くんが手に取ったのは、わざとなのか手作りのものだった。綺麗に型取りされたチョコレートが、彼のしなやかな指に摘まれて目の前に差し出される。

「ほら、あーん」
「人の心とか無いの」
「食べ物を無駄にしないっていう道徳に従ったまでです」

むぐ、と喋るために開けた口にチョコレートが突っ込まれる。
真冬の寒さを軽減させるために付けられている暖房のせいか少し柔らかなそれは、とんでもなく甘くて口内の上の方がひりひりとする感覚があるような気がした。

「『何が入ってるか分からない』ものを食べさせないでよ」
「毒味ですよ。美味しいですか?」
「おいしい。んぐ」

チョコを嚥下したのを確認すると、彼はもう一つをわたしの口に押し付ける。
伊能くんの指先が一瞬唇に当たって心臓が跳ねたけれど、ばれないように無表情を貫いてそのままチョコを口に含んだ。

「……」

彼のために作られたものを、自分が消費してしまっているという罪悪感がふつふつと襲う。
わたしが微妙な顔をしているの見て、伊能くんは馬鹿にするように鼻で笑った。とんだお人好しですね、とでも言いたげな表情だった。間も無く彼がラッピングの封を再度閉じ始める。

「毒味終わったのに食べないの?」
「先輩の前で食べたら可哀想でしょう。ああそれとも、もっと欲しかった?」
「かわいそ……いや、いらないけど。わたしも結構貰ったもん」

可哀想、というのは想いがこもったチョコレートを食べるところを見せるのが、ということだろう。わたしが嫉妬すると思っているのかもしれない。
そこまで心が狭い女では無いつもりなのだけれど、確かに「自分も作っておけばよかったな」くらいは思ったりするのだろうか。

「先輩にチョコをあげる人なんていたんですね」

意外そうに目が見開かれる。伊能くんにしては珍しく表情豊かだった。彼はわたしの友好関係をなんだと思っているのだろう。

少し腹が立って、ほら、と鞄の中を見せる。友達から貰った手作りチョコレートの数々。伊能くんよりもずっと量は多いのだ、舐めないでほしい。
バレンタインデーというのは、いつだって男子よりも女子の方がたくさんの甘味をゲットするものである。

「へえ、モテ女じゃないですか。てっきり本しか友達がいないのかと思ってました」
「失礼な。ちゃんとお返しもしたんだからね。目測見誤って全部無くなっちゃったけど」

ふーん、なんて、興味のなさそうな返事が聞こえる。伊能くんは無遠慮にわたしの鞄の中に手を突っ込んで、中を物色していた。別に見られて困るものもないからいいけど、本当にデリカシーの無い子である。

がさごそと漁る様子をぼうっと見ていると、ぴたりと彼の動きが止まった。どうしたの、と声をかけると伊能くんはゆったりと一つ箱を取り出す。

「これは?」
「あ、それ委員長に貰ったんだよね。いつもお世話になってるからって」
「……図書委員の委員長って男子でしたよね?」
「そうだよ。逆チョコってやつ? 今日シフト被ってたから貰った」

伊能くんが取り出したのは、鞄の中で一つだけ高級感を放つ、デパートで売っているような箱に入ったチョコレートだった。手作りのものだらけの中で唯一異彩を放っているものである。

「多分美味しいやつだよ」
「でしょうね。食べないんですか? どんな味なのか気になります」
「えー? じゃあちょっと食べてみようかなあ」

さっきまで「チョコはそこまで好きじゃない」と言っていた割に、結構な食いつきようだった。伊能くんとてお高いものには弱いのか、と意外に思いながら、包んである薄いビニールを取る。
かたりと中のチョコレートが動く音がした。箱から出して一つ摘むと、美味しそうな上品な香りがする。

「いただきまーす」

ぱくり。一口食べればカカオの独特の匂い、先程伊能くんに食べさせられたものよりは、甘さが控えめで。

おいしい、と感想を述べようと小さく口を開けた瞬間に、彼がすぐ目の間にいることに気がついた。顎を掴まれて、唇が食べられるみたいに重なる。

「ん、ぐ!?」
「ン……うわ、あっま」
「っは、なに!?」
「味見」

ぐっと侵入した舌は、器用にわたしの口の中のチョコを攫ってすぐに離れて行った。少々雑に唇を合わせたせいで、伊能くんの口の端に茶色い汚れがついている。

口周りに違和感があったのか、彼はすぐに指でそれを拭っていた。どきどきと鳴り続けている心臓が、その動作を目にしてまたびくりと跳ねる。

「包装の割に中身は大したことないですね」
「び、びっくりしたんだけど。ここ教室だし」
「誰もいないんだから関係ないでしょ。やっぱり俺、あんまチョコ好きじゃないみたいです」

口直しさせてください。そう続いて、また再度軽くキスされた。首から上が熱い。

伊能くんは、すっかり大人しくなってしまったわたしを見て満足げににんまりと笑った。顔に触れていた手が、輪郭をなぞる様に下される。

「はは、顔真っ赤」
「……同じものを食べた口じゃ、口直しになんかならないんじゃないの」

なにか言わなくては、と。あからさまに照れてしまっているのが悔しくて苦し紛れに言葉を捻り出すと、それすらもあちらは分かっているようで更に愉快そうに笑みが深まった。
彼のチョコレートよりもずっとずっと黒い瞳に、情けなく眉を垂らした自分の顔が映る。

「そんなことないですよ。だいぶ気分は良くなりました」
「……どういうこと?」
「いいえ? なんでも。じゃ、俺これから部活なんで」

椅子を引く音が響く。いまいち彼のペースについていけないまま、向こうは逃げていく気らしい。
待ってよ、と言いたいところだけれど、彼がどれほど部活に精を出しているのかをよく知っているから、その一言は口から出ていかなかった。

鞄を持って、伊能くんが立ち上がる。後ろで括った髪の毛がさらりと揺れた。教室を出るために向こうを向いた身体と指先には、バレンタインの紙袋がない。

「ねえ、チョコ忘れてるよ」

わたしも腰を浮かせ、机から身を乗り出した。渡さなきゃ、と差し出したそれに、ドアに手をかけた彼はゆったりとわたしを振り返る。

にやりと何度見たか分からない意地悪な微笑みが目に入った。

「ハッピーバレンタインってことで」
「え」
「俺からの逆チョコです」

がらりと音がして、すぐに教室が静寂に包まれる。伊能くんに振り回されるばかりのわたしは、暫くそこから動けずに不安定な体勢のままぽかんと口を開けていた。

「貰い物を人に回すとか……」

ため息を出しても文句を言っても、彼にはもう届かない。一人きりの教室でたくさんのチョコを抱えて、次会った時になんて叱ってやろうかと考えを巡らせた。

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