バレンタイン特集、と大々的に表示された画面。なまえが出掛けている日中の暇な時間、ぼうっとテレビを見ているとポップな音楽と共に流れ始めたそれは、やたらと「チョコレート」を主張する形で進行していた。
「……なんでチョコレート?」
バレンタインといえば、恋人に贈り物をする日である。花束やジュエリーなどの特集をするのなら分かるけれど、なぜチョコレートなのか。
僕の知る限り、バレンタインにチョコレートを贈っている者は今まで見たことがない。
テーブルの脇に置かれたタブレットをこちらに引き寄せる。もしかしたら、この世界とズートピアではバレンタインに何かしらの違いがあるのかもしれない。
なんとなく頭に引っ掛かり気になったのと、毎日変わらない家の中の生活で暇を持て余していたのもあって、折角だからとネットで調べてみることにした。
検索窓にバレンタイン、と打ち込むとサジェストにチョコレート、手作り、などとお菓子に関するワードが並ぶ。
やっぱり違うのは僕だけなのかもしれない、と思いながらそのまま検索を掛けると、ずらりとサイトが並んだ。AI生成の解答やお菓子のレシピのページをすっ飛ばして、ウィキペディアへと飛ぶ。
僕の世界にも似た様なサイトがあったことを思い出した。誰でも編集できる為に真偽は問われるが、大まかな情報を得るならこれで十分である。
「なになに……」
斜め読みでざっくりと文字を目で追う。起源、概要と続いて、バレンタインデーに付随する文化についての項目が出てくる。
爪でぱちりと矢印を叩くと、小見出しの帯に折りたたまれていた情報が出てきた。
「日本では、他国とは異なり女性が男性にチョコレートを贈る、という風習になっている……」
なるほど、と合点がいく。テレビからの断片的な情報で薄々察してはいたけれど、やっぱり贈り物に差があるようだ。贈り物をする相手が男女逆なのは初めて知った。なかなか面白い。
どうやら、バレンタインにチョコレートを贈るのは日本だけの文化らしい。他の国の項目では僕らと何ら変わらない恋人の日が行われていることも分かった。さらに読み進める。
『日本のこの文化は、毎年二月に売上が落ちる菓子店の対策として広められた文化である。瞬く間に流行り、定着したこの文化はまさに商戦の成功と言えるだろう』。
「……マジで?」
一企業の策略にまんまと乗せられて、こんなに騒ぎ立てるほど定着してしまったのか。この国、なんて平和なのだろう。思わず絶句してしまう。
一通り目を通したところによると、どうやら今日では女の子が愛の告白と共にチョコを贈るのが主流らしい。確かにそのシステムはキャッチーだし話題性もあるから流行るのも分かるけれど、それにしたって踊らされて悔しいとか思わないのだろうか。
僕はチョコレートを食べられない。猫科の動物にとってチョコは毒だからだ。
しかし仮に貰ったとしても「チョコを作ってきた」というそれだけで冷めてしまいそうだな、なんて思ってしまった。まあ、この国の人間たちにとっては最早これが当たり前だから、なんとも思わないのだろうけれど。
タブレットのホームボタンを押してページを閉じる。びっくりはしたが、事の真相がはっきりしたことで気分は晴れやかだった。
テレビはいつのまにか次のコーナーに切り替わっていて、今度は今流行りの安い定食屋の話題になっていた。食べ物の話しかしないな、この番組。
「……まだかな」
食べ物ばかり映されるせいでお腹が空いてきてしまった。ちらりと時計を見る。あと数時間程度でなまえが帰ってくる時間だ。
▽
バレンタインデーについて調べたその次の日。朝起きるとなにやら甘い匂いが家の中に漂っている。
まさか、と思いながら匂いの濃い方へと足を進めると、珍しく朝からエプロンをして張り切って作業をするなまえの姿があった。
いつもはパジャマのまま眠たそうにパンやらお米やらを準備しているのに、今日はぱっちりと開いた目で忙しなく狭いキッチンを動き回っている。手元に見えるのは板チョコの包装紙のゴミ。ボウルの中に入れられた液体はてらてらと茶色に輝いていた。
「……きみもか……」
「……え? ごめん、なに?」
「い、いや! なんでもない。おはよう」
誤魔化す様に挨拶をすれば、おはよう、と穏やかな声が返ってくる。くるくるとボウルの中をかき混ぜるなまえは、僕の漏れ出てしまった一言など全く気にせずに手を進めていた。
チョコレートを贈る文化を知った矢先に実例を目にすることになるとは。やはり彼女でさえ乗っかるくらいに浸透した行事なのだなと再確認する。
「これ、バレンタインの?」
「そう! 生チョコ作るんだ」
「ふうん……見ていても良い?」
「いいよ」
毛が入るといけないかと思って、少し遠くからなまえの様子を眺めることにした。少し前に気がついたことだけれど、僕は彼女が何かを作るところを見るのが好きみたいである。
料理は特に、今まで作る工程など見る機会が無かったから観察していると新鮮で楽しかった。最近では少しずつ手伝わせてもらったりしているのだけれど、僕の手を動かすスピードとなまえのそれとを比べると手際の良さがまるで異なっていて驚くことも多い。
それに、見ていると向こうから話しかけてくれるのも嬉しかった。案の定なまえは僕が遠巻きに眺めているのをちらりと確認して、柔らかな声を投げかける。
「パウバートくんのところはバレンタインってあるの?」
「あるよ。こことは違って男が女の子に贈り物をするんだけどね」
「そうなんだ! じゃあそっちは海外式なんだね。誰かにあげたことある?」
予想もしなかった問いかけに口籠もる。僕は家のこともあって恋人と言えるような相手はなかなか出来なかったし、試しに適当な相手と付き合ってみてもそう長く続いたことはない。
大抵はバレンタインデーを迎える前に別れる形になって、誰かにプレゼントを贈ったことなどなかった。
「……えっ、と……」
しかしそのまま「ない」と正直に言うのも恥ずかしくて、何で答えようかと数秒黙り込む。なまえは僕の年齢はまだ知らないけれど、この年になって経験が少ないと知られて幻滅されてしまったらどうしよう。
別に彼女にどんなふうに思われていたって生活さえできれば良いはずなのに、他人からどう思われるかがどうしても気になってしまう己の性が疎ましい。
悶々と思い悩んでいると、気遣い上手ななまえはその少しの沈黙だけで大体が掴めてしまった様である。申し訳なさそうな声で「ごめん、変なこと聞いちゃった」と緩く笑った。ああ僕、今すごくみっともないかも。
「ううん、いいんだ。恥ずかしいんだけど、今まで長く続いた恋人はいなくて」
「そうなの? 美人さんだからモテるかと思ってた」
「び……いや、ほら、僕あんまりスマートにエスコートできないし……あはは、全然だめなんだ」
こちらの世界に来たことがないのだから僕らの美醜なんて分からないだろうに、なまえはさらりと浮いた台詞を口にする。人間から見て僕の容姿は一体どう見えているのだろう。
十中八九お世辞であろうことは分かっていても少し照れくさい。それと居心地が悪いのとが混ぜこぜになって、言い訳をするように言葉を続けると「ふうん?」と彼女は首を傾げた。
チョコレートはもうすっかり溶けているみたいで、とろとろのそれを弄ぶように調理器具が掻き回される。
「スマートじゃなくても、一生懸命なら素敵だと思うけどなあ」
「えっ」
「見る目ないね? そっちの世界の人……あ、あんまり悪く言うのも良くないか。ごめん」
それ、どういう意味。どきりと心臓が跳ねてそう聞きたくなったけれど、ただの雑談でしかないつもりだったらと思うと深くは追求できなかった。なまえは僕からしたら信じられないほど「良い人」だったから、その程度のことなら深い意味などなくただ純粋な気持ちで口にしそうである。
キッチンの中の甘い匂いは時間が経つごとにどんどんと強く濃くなっている。むせ返りそうなチョコレートの香りが部屋に充満していた。
また上手い返答が浮かばなくて黙っていると、チョコレートを混ぜていた彼女が小さなパックのようなものの封を開ける。牛乳パックの小さい版、みたいなそれをボウルの中に流し込んだ。
茶色に白が混じって、なにかのアート作品みたいになっている。入れ終わるとなまえはシンクに空いたパックを置いて、再度かき混ぜ始めた。
「ねえ、それはなに? 牛乳?」
「生クリームだよ」
「え? でもどろどろじゃない?」
生クリーム、といえばショートケーキに塗られているあれのイメージなのだけれど。彼女が今手にしていたのは完全に液状のものだった。
不思議に思って身を乗り出すと、彼女がパックを拾い上げて僕に見せてくれる。よく見ると、使い方が側面に記されていた。
「これを泡立てるとケーキとかのふわふわのホイップクリームになるの。今回は生チョコにするからこのまま入れちゃうんだけどね」
「へー……そうなんだ」
「びっくりするよね。わたしも初めて知った時驚いたもん」
目を丸くする僕に、なまえがゆったりと口角を上げる。僕にものごとを教えるその視線は優しく穏やかで、その上今部屋を圧迫しているチョコレートの香りよりも甘く感じられた。自然と尻尾が立って揺れてしまう。
慌てて隠す様に手を後ろに回したが、キッチンに立つ彼女は全く気がついていない。
「……」
いつの日からか、なまえの笑顔を見ると僕はいつもそうだった。優しげにこちらを見る瞳に緩む顔、どれも僕を大切に思ってくれているように感じられて、実家では満たされないところが暖かくなっていく心地がする。
僕にとって、なまえの笑顔はとても可愛らしく見えた。ふとそう思う瞬間が今まで何度もあったのだから、気のせいなんかではないだろう。
単純にこの子が人間の中でも可愛らしい部類に入るのか、それとも僕に向けてくれる愛情、と呼んでも良いほどの慈しみがそうさせるのかは分からない。僕も人間の美醜については詳しくなかった。
ただ、なまえが魅力的であるということは確かだと思う。気立ても良くて、僕みたいな得体の知れない動物の面倒を見るほどに分け隔てなく心優しい。
こんな子に告白なんてされた日には誰だって頷いてしまうのではないだろうか。人間のオスならば尚更、断る理由なんてそうそう無いだろう。
まさにバレンタインなんてそんな状況にぴったりである。そこまで考えて、はたと気がついた疑問が口から溢れ出た。
「……それ、誰にあげるチョコレートなの?」
すっかり忘れていたけれど、バレンタインデーとは恋人の祭典だ。愛する人に贈り物をする日。
殊更日本では、女の子が男に告白をするイベントである。聞く限りなまえに恋人は居なかった。それなのにこんな朝早くから作り始めるということは。
先程までの浮かんでしまうような気分とは打って変わって、ずんと頭が冷える感覚が襲う。
ただの居候、なまえの言葉に甘えるなら「家族」である僕には、この子に好きな人間がいようが恋人ができようが関係なんて無いのに。
思っていたよりもずっと低い声が出てしまった様な気がした。
鼻につく甘い匂いが途端に鬱陶しく感じる。僕はチョコレート、食べられないし。その時点で自分が対象から外れているというのもなんだか落ち着かない。
もし食べられたとしても僕になまえが告白なんてするわけがなく、さらに昨日「俗っぽい」と冷めてしまいそう、だなんて思っていたところなのに。一体何を考えているんだろう。
彼女はパックをまたシンクに戻して、チョコ作りに戻っていた。白が段々と溶けていって、茶色がまろやかな色になっている。明るい声が僕に向けて発された。
「友達にあげるよ。毎年交換してる子たちがいるんだ」
「……と、友達……そういうのもあるんだ」
なまえは僕の様子など気にもせずあっけからんに答える。肩に入れていた力が抜けた。同時に息が小さく漏れて、今まで呼吸を止めていたことに気がつく。
「そうそう、友チョコってやつ。あとはね、義理チョコと本命チョコっていう違いもあって……」
彼女はそのまま、渡すチョコレートの違いについても解説を入れてくれた。成程、色々種類があるらしい。
いつものペースで喋る声を聞いていると、少しずつどくどくとした鼓動が落ち着いていくのが分かった。安心、しているようだった。
なまえの一挙手一投足で落ち込んだり安心したりしている自分が情けなくて、ひっそりと乾いた笑いが出る。
「パウバートくんはチョコ食べられないだろうから、他のお菓子買ってくるね」
「え? ああ……そんな、気を遣わなくてもいいよ」
僕の気持ちを見透かしたようになまえは気を利かせてそう言った。反射的に遠慮するが、彼女は引く気などないようである。
「一年に一回だし、折角ならやりたいじゃん。なにがいい? 高級クッキー缶とか買ってこよっか」
「ええと……」
軽くそう言いながら、かちゃんと調理器具を置く音がする。混ぜ終わったのか、彼女は平たいタッパーにチョコの液を流し込み始めた。
とろり、と落ちていくツヤツヤとした液体は重たく見えて、食べたことなどないけれど美味しそうに見える。彼女が丁寧に手をかけるさまを見たせいだろうか。
このチョコレートは、彼女の友人の手に渡って美味しく食べられるのだろう。
ここに来てから初めて、人間が羨ましいと感じた。なまえが愛を込めたものを、自分は食べられないだなんて。
僕はここ最近、随分と欲張りになってしまったように思う。
やわらかな肯定とあたたかいなまえの言葉や視線、今まで得られなかったものをたくさん貰っているのに、貰えば貰うほどまだ足りないと感じてしまっていた。
「……なまえの作ったものがいいな」
「え? わたしなんかの手作りでいいの?」
「う、うん。その、むしろそっちの方が嬉しいっていうか」
「……そうなの? じゃあ、美味しくできるように頑張るね」
なにがいいかな。難しいものは作れないけど……ゼリーとか、それこそクッキーとか。マフィンも美味しいかも。
なまえは楽しそうに、作業を再開しながら次々にお菓子の名前を挙げる。
もしかしたらわざわざ作るのは面倒かもしれないと思ったけれど、話す彼女の様子は楽しげで迷惑だとは思っていなさそうだった。少しほっとする。
僕としては、正直なまえが作るものならなんでもよかった。挙げられるお菓子たちにいいね、美味しそう、とよく考えずに返事をしていたら「ちゃんと考えてないでしょ」と笑って突っ込まれる。
だってお菓子が欲しいんじゃなくて、きみの気持ちが欲しいんだもの。そう思ったけれど言葉にするには少し踏み込みすぎているような気もして、濁して謝るだけに留めた。
「普段からご飯作ってるから、手作りお菓子に意外性はないかもだけどね」
「……確かに。僕、贅沢かな。なまえに作ってもらってばっかりで」
言われてみれば、普段の食事も彼女が丹精込めて作ってくれているものばかりで。普段から「手作り」ばかり貰っているのに、バレンタインデーも市販では嫌だなんてやっぱり求めすぎかもしれない。でもなまえはお人好しで優しくて、いつもそれに応えてくれるからつい甘えてしまう。
昨日はこの国の「チョコレートをあげる」という文化に呆れていたものだけれど。誰がどんな策略で編み出した習慣でも、親しい人が手をかけたり沢山考えてなにかを贈ってくれるというのは無条件に嬉しいと感じられることが分かった。
こんなに楽しみに思うのならば、流されてしまうのも悪くない。ズートピアではバレンタインで男がこんなにわくわくすることなど無いのだし。
「僕からもなにかなまえにプレゼントできたら良かったんだけど」
ふと思い立って、そう呟く。この世界でも日本以外では贈るのはこちらの方だ。
貰ってばかりなのも悪いけど、居候の身で金銭も持たない僕では彼女にプレゼントを贈ることは難しい。なまえに伝えたい感謝や気持ちはたくさんあるはずなのに、うまく形に表せなくてもどかしく思う。
「気にしなくて良いよ。どれもお返しが欲しくてやってるわけじゃないし」
「ううん、僕の気持ちとしてバレンタインになにか贈りたかったんだ。手紙とかなら書けるかな……? ああ、でもそんなのいらないよね、はは……」
ズートピアでは花束やアクセサリーなどの他に、メッセージカードを贈ることもよくある。
それをふと思い出して口に出してみたけれど、手紙なんて貰っても所詮ただの紙切れだし、ゴミになってしまうだけかもしれない。ミスったかも。
失言をしたかと思って内心焦っていると、なまえは僕の言葉を聞いてばっとこちらを振り返った。
意外にもその表情は嬉しそうで、頬は若干赤く染まっている。普段の微笑みとはまた違った、驚きも含んだ華やかな笑顔だった。
とくりと、小さくあたたかい音が胸の内に響く。そんな顔をしてくれるとは思っていなかったから。
「そんなに素敵なものをくれるの? もし書いてくれるなら欲しいな!」
なまえは普段より高いトーンで少し大きめに声を発した。いつのまにか手元のボウルはすっからかんになっていて、洗うためにシンクに水が流される音が響いている。
水の音に掻き消されないように声を張ったのか、気持ちが全面に出て大きな声が出たのかは分からなかった。大きく開かれた瞳が輝いて見えるのは、水道から流れる水が反射しているせいだろうか。
「え、でもただの手紙だよ? こんなの嬉しい?」
「うん、なんなら一番嬉しいよ。絶対、一生大切にすると思う」
そんな、大袈裟な。流石にオーバーリアクションすぎるよ、と笑い飛ばそうかと思ったけれど、意外にもなまえの顔は大真面目だった。
出かけた揶揄いの台詞を呑み込んで、口元がにやけないように表情筋に力を入れる。変な顔になっていないといいけど。
「そ、そう? したら、準備しておくよ……あ、でも便箋が無いや、家にあったりする?」
「あー、ないかも。今度買ってくるね」
「ご、ごめん」
やっぱり格好つかないな。苦笑いで呟く。水が跳ねる音に混じってしまって、僕の声はなまえには届かなかったようだった。るんるん、という効果音が付きそうな感じで洗い物をしている。
今にも鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気である。少しむず痒い気持ちになった。そんなに嬉しいものなのか。
「便箋のデザイン、どんなのがいい?」
「……きみが貰うものなんだから、きみの好みのものにすればいいんじゃないかな?」
「……たしかに。パウバートくん、頭良いね」
会話を続けていると、そのうち洗い物が終わって水の音が止む。チョコレートは冷蔵庫に入れて冷やすらしい。
チョコを入れたタッパーを仕舞うと、キッチンは何事もなかったかのようにいつも通りの風景になった。甘い残り香だけが鼻を擽る。
全ての作業を終えたなまえは、エプロンを外しながら僕の方へと近付いた。チョコの香りに混じって、ふわりと優しい彼女の匂いがする。またゆらりと尻尾が揺れてしまって、今度こそバレるのではないかと片手できゅっとそれを掴んだ。
身体が反応してしまったり些細なことで嫉妬したり、どうやら僕は思っていたよりもなまえを気に入ってしまっているらしい。あんまり入れ込んでも帰り辛くなってしまうだけだというのに、なんとも困ったものである。
「ねえ、てことはさ」
なまえが口を開く。外したエプロンを定位置にかけると、彼女は僕の隣に立ってこちらを見つめた。
「なに?」
「パウバートくんの初めてのバレンタイン、わたしになるってこと?」
にこりと。細められた目はどこか楽しげなのに、悪戯っ子のような苦さもはらんでいる。
まだ午前中の日差しは柔らかく部屋に差し込んでいた。冬の朝で気温は低いと思うのだけれど、少し汗ばんできたような気がする。
「……そうなる、ね」
先程まで気にも止めていなかったのに、改めて言葉にされると恥ずかしくなってくる。そうだ僕、バレンタイン以前に家族以外にプレゼントなんてあげたことがない。
手紙だって書いたのは子供のころ以来かもしれない。何をどう綴ればいいんだろう。
ぐるぐると考え始めてしまった僕とは対照的に、なまえはなんにも気にすることなどないようだった。
小さな頭が僕の肩に控えめに乗せられる。普段ならそれくらいの触れ合いならばなにも思わないのに、今日はびくりと心臓が跳ねてしまった。身体は動いていないから、彼女は分からなかったと思うけれど。
「ふふ、一番なのちょっと嬉しい。楽しみ」
きゅんと、心が締め付けられるような感覚。じわじわと上がる体温に見て見ぬ振りをしていたのに、その一言で無視できないほど顔が熱くなっている。
唯一幸運なのは、なまえは頭をこちらに乗せたままで顔を見ていないことであった。
「……あの、なまえ。あんまりそういうの気軽に言わないほうがいいよ。勘違いされるから」
「勘違い? なんの?」
「う、いや、ごめんなんでもない!」
先程から思わせぶりな彼女の態度に文句の一言でも言いたくなって口に出した言葉は、綺麗にハテナマークを浮かべるなまえには伝わらない。慌てて強引に誤魔化した。
彼女は不思議そうに暫く考え込んでいたようだけど、すぐに理解を諦めて僕の毛を触り始める。今ばかりはやめてほしかった。頭の中とは裏腹にごろごろと喉が鳴る。
鼓動はどんどん速くなっていた。僕はなまえのことを「家族として好き」で、迷い込んでしまったこの世界で居場所を作ってくれる存在として好ましく思っているだけである。
それなのに、どうしてこんなに振り回されてしまうのだろう。チョコレートの甘ったるい香りのせいだろうか。
やっぱり、お菓子会社によって作られた流行りだなんてくだらない!
完全に八つ当たりなのは分かっていたけれど、この悔しさとなまえに感じるちくちくとした心地よい気持ちをどうしたらいいかわからなくて心の中で叫ぶ。どう責任転嫁したって、熱が冷めることも気持ちがすっきりとすることもない。
隣のいとしい同居人はそんな僕のことなどつゆ知らず、ポケットからスマホを出して僕が昨日スルーしたレシピのサイトを開いていた。