スマホの充電が赤になった。ヴヴ、とバイブ音がして、「あと20%です。充電して下さい」と画面に通知が出る。何をするわけでもなく、ぼーっとスマホの画面ばかりを眺めていた私は、その通知にああ、とやっと目の焦点が合ったのだけれど、今の状態では充電器を探してコンセントに差すという行動ができそうになかった。家に帰ってきてすぐにソファに沈み込んで、もうかれこれ五分ほど経つ。
疲れて帰ってくるといつもこうだ。電池切れとばかりに、家に着いた途端に何もする気が起きなくて、無駄な時間を過ごしてしまう。お風呂に入るとかご飯を作るとか、やることはたくさんあるのに、どうにも足が動いてくれない。困ったなあ、とつま先を眺めていると、後ろのドアががちゃりと音を立てて開いた。
「ウワ、また死んでる」
「アダム」
ただいま、と声を出すけれども、死にそうな蚊の声を出すなと怒られた。アダムの持っていた音楽雑誌がソファに落とされて沈んでいく。おかえり、とさりげなく頭に添えられる手が暖かくて、思わず身を委ねてしまう。
「んなとこでぼけーっとしてないでさっさと風呂入ってこい」
「うん…」
「おい、返事だけして入らないつもりだろ。明日の朝泣くのお前だぞ」
さすがはアダム、よく分かっていらっしゃる。入りたくないよ〜、と駄々を捏ねると、子供か!としかめ面が私を見下ろした。腕だけなんとか持ち上げれば、深いため息と共に身体が宙に浮く。アダムの身体は暖かくて、くっついているだけでぽかぽかする。
「なんで私がこんなことしなきゃならないんだ!お前ぐらいだぞ、この私をこき使うなんて」
「彼女の特権だね」
「彼氏はなんでも言う事聞く召使じゃねえぞ!」
そういうアダムだって、普段彼女は自分のメシを作ってくれる機械だと思ってるじゃないか、などと心の中で反論してみる。今日の地球では炎上待ったなしだけれども、この男は人類が繁栄する前からいるのだから、そんなことを言っても仕方がないのであった。所謂ジェネレーションギャップというやつだ。
そうこうしている内に、気付けば場所は脱衣所、どすんと落とされてお尻が痛む。もう少し優しくしてほしいものだ。恨めしさを込めた目でアダムを見れば、どこ吹く風といったように笑われた。
「じゃ、ちゃんと浸かってこいよ」
自分の仕事は終わったとばかりに出て行こうとするアダムの、長い裾を掴む。急に前進を遮断された彼は一瞬前につんのめり、キッと液晶の顔をつりあげた。正直あんまり怖くない。
「なんっだよこのビッチ!まだ私になんかやれって言うのか?」
「一緒に入ろうよ」
「ハッ!ヤダね!もう騙されねえからな、お前がそれ言うときは自分で洗うのめんどくさいだけだって知ってんだよ」
「だめかあ」
「ダメに決まってんだろアホ!何度も私の純情を弄びやがって」
前まではウキウキで入ってくれていたのに。一通り全部やってくれた後に、事に及ぼうとするアダムを置いて寝落ちてしまったことが原因だろうか。
あの時は目が覚めた後、こっぴどく怒られたことを思い出して、もう一度ごめんね、と謝っておいた。ふん!とそっぽを向かれただけだった。
「じゃあ一人で入る…」
「おうおう!そのしょげた面洗ってこい!のぼせんじゃねえぞ」
ばたん、と脱衣所のドアが閉められる。少しさみしいけど仕方ない。うとうとと揺れる頭を支えつつ、胸元のボタンをひとつ外した。
「おい、生きてんのか?」
どんどん、と風呂場のドアを叩く。かれこれ一時間近く風呂に篭りっぱなしの彼女からの返事は案の定無く、またやったな、と思わず舌打ちが滑れた。充電切れのあいつはほんとうに面倒くさい。特に遠慮もなく、勢いよく扉を開ける。
「風呂で寝てんじゃねえ!死ぬぞ」
「……んあ?どうしたの…」
「どうしたもこうしたもない!ほら、のぼせるからとりあえず上がれ」
言われた通りに立ち上がった彼女が立ちくらみで体勢を崩すのを支えてやって、触れた髪がまだ濡れてないのを確認した。クソ、マジでなにもやってないのかよ。素っ裸の好きな女にいらいらしている下半身を無視しつつ、座らせて水を飲ませた。介護か?これ。
「ほら、しかたないから洗ってやる。目え閉じとけ」
「ん」
「ほんっとお前、この悪癖どうにかしたほうがいいぞ」
ていうか、充電が切れるまで働くな。泡だらけになった髪にシャワーを当てながら、なんで女と風呂にいてこんなに雰囲気が無いのかと頭が痛くなる。向こうは特に恥じらいもないし、こっちなんて服着たまんまだ。さながらペットのシャンプーである。
濡れてさらに光を反射するようになった髪を梳かしてやれば、彼女はしあわせそうににんまりと口角を上げた。さらにいらいらするからやめてほしい。
「ごめんねアダム」
「謝るぐらいなら治してほしいもんだな」
「私、アダムがいないと生きていけないからさあ」
怠惰すぎんだろ。ふいに出た声が少しだけ普段より高いのが自分でも分かって、こんな自分の世話もできない赤ん坊の言うことに掻き乱されていることに腹が立つ。私は尽くすより尽くされる側だっていつも言ってんのに、このクソ女は甘えるのをなかなかやめないし、それを私もなんだかんだ受け入れてしまっているのは、惚れた弱みというやつだろうか。全く、反吐が出る。
人に髪を触ってもらうのが好きだ。頭を撫でられる時、髪を結ばれる時、手櫛で整えてもらう時。
その指先から細やかな愛情が貰えているようで、しあわせな気持ちになる。そんな話をしてから、アダムはよく私の頭を触るようになった。
「よくもまあこの偉大なるアダムさまを顎で使えるよな!ふてぶてしいにも程があるだろ」
ドライヤーの轟音に負けないように張り上げられた声。今日も今日とて迷惑をかけてしまったアダムには申し訳ないと思うけれども、彼が丁寧に触れてくれるのが嬉しくて、つい甘えてしまうのである。顔を上に上げればジト目でこちらを見下ろす彼に、ああすきだなあ、と自然に口からこぼれ出た。
「あ?なんか言ったか?」
「ううん、いつもありがとうって」
「おま、その言い方はこれからも世話になるつもりだろ。とんだワガママお嬢サマだな!」
「ばれたか」
かちや、とスイッチを切り替える音がして、ドライヤーの温風が止んだ。さらさらと肩に落ちる髪がいつもより重たい気がするのは、乾かすのに慣れていないアダムのせいなのか、いっぱいに愛を貰ったせいなのかはわからない。どちらにせよ、私にとっては嬉しい重さである。
「頼れるアダムさま、だいすき〜」
「…まあ私だしな!これぐらいできて当然だ」
「うん、頼りにしてるよ」
「おう!どんどん頼れ!!って、そうじゃないだろ!ああならない努力をしろっつってんの!」
はあい、と生返事をして、ご飯を作るために立ち上がる。聞いてないだろ、と後ろで文句を言っているアダムの声を聞き流しつつ、レシピを見るためにスマホを探すと、充電コードがしっかりと差されているそれが、ソファの雑誌の横に放り出されていた。
「今日の分は後できっちり支払ってもらうからな」
深夜。なにもかもを済ませて、さあ待ち望んだお布団に入るぞ、と心を弾ませた時。先に布団に入って暖めておいてくれたらしいアダムは、部屋に戻った私を見るなり先の台詞を言ってのけた。
たしかに今回は少し甘え過ぎたと自覚はしている。
さて、なにを支払えばこの男は喜ぶのか、と考えた時、一番最初に思い浮かぶのはやはりこれしかない。数秒で張り巡らされた思考のままに口が動く。
「…身体で?」
ぴく、と彼が反応を示すのが見えた。あー、やっぱり限定スイーツとかにしとけばよかったかも、と後悔したが、きらりと光った金色に前言撤回はできなそうである。
「オ!なんだなんだ積極的だなかわい子チャン?私はいつでも準備万端だぞ?」
途端に楽しそうに三日月型に吊り上がる口角と、するりと首筋に入り込むしなやかな手は流石の手の早さと言ったところか。申し訳ないが、アダムに襲われる前に眠気に襲われてしまいそうである。
目が開かなくなってきた。今度ね、と心の中で約束をして、抗えそうも無いそれに身体を委ねる。
「今はむり…ねる…」
「アア!?クソがよ!って、もう寝てやがる…」
だーもう、と乱雑に頭をひと撫でされるのを意識の端で感じる。蚊の鳴くような声で、おやすみ、と絞り出した声は聞こえただろうか。ベッドの側のライトの灯りが落ちて、短い夜が更けていく。