どうか私の事を嫌いにならないで。
……でも、好きにもならないでいて。
突き放さないで、置いていかないで。
……でも、愛さないでいて。変わらないでいて。
そんな風に、生きてきたのだ。
ネーヴェという人間は、空っぽだったから。
“生きたい”と願い、それは叶った。
けれど、ネーヴェにはそれしかなかった。
なぜ生きたいのか。生きてなにがしたいのか。
そんな「欲」がネーヴェにはなかった。
叶うはずのない願いだけを切望し、その理由なんて考えたこともない。
なんてつまらない。なんて底の浅い人間なんだろう。
中身の伴わない願いは願いなんて言わない。
どうして。なんで。
知っている。
私がこの世界を愛せないから。
だからなにも求めるものがないし、欲しがれない。
なにかに恋い焦がれたことだって一度もない。
まだ生きたいのは、そんな人間としての当たり前の感情を知りたい、感じたいから。
マーモンに初めて出会ったとき、こう思ったの。
“この人を生きる理由にしたい”と。
実体のない献身を、拒まずに受け入れてくれる人なら誰でもよかった。
でも、貴方でよかった。
だって、今。この気持ちは本物になったのだから。
暗闇の中で手を引いてくれた貴方に、私は、本当の意味で恋をしたのだ。
恋が、できたの。
もう私は、空っぽじゃない。
あれから、どれくらい経っただろう。
……もう、皆は私の事を忘れたのかな。
これで、私がいた過去は全てなかったことになる。
存在自体、なかったことになる。
この想いは自分だけのものだ。
なにも残していかないのなら、ここで消えたっていい。
“たった七人の犠牲で”星ひとつ守れるなら安いのだろう。
この世界は全員に平等に優しくない。
幸せがあるから不幸もあるし、叶わないから願うのだ。
私は、それを知っている。
手が届かないものを欲するこの気持ちもきっと、人として当然の「欲」なのだろう。
でも。
私はこんな運命を受け入れない。
“七人を犠牲にしてまで”生きるのならば。
「いいんだよ。素直になっていいんだよ。他人に強要された人生なんて真っ平でしょう?」
くすくすくす。
どこからか、耳障りな笑い声と共に声が聞こえる。
ネーヴェは周囲を見回すが、それらしい人影はなかった。
冷たい汗が滲むような不気味さに、絞り出した声が震える。
「だ、だれなの?」
「私? 私はね、ネーヴェだよ」
◇◆◇
フランスの秘境、ジュラにて。
その場所を訪れていたハートは、ひときわ目立つ集団を見つけて木の陰に隠れた。
どうしてヴァリアーがここに。
「目立たないよう私服風隊服で来て正解だったわね」
「フランは祖母の家に預けられているらしい」
その会話から察するに、どうやら彼らは、新しい幹部候補生を獲得するために来ているようだった。
こんな時に間の悪い。
でも、どうして藍色のアルコバレーノはまだあんなところにいるのかしら。
――――なぁんだ。強制参加で付き合わされているだけか。
ハートは心を読んでそれを知ると、気を緩めた。
アルコバレーノが全員集まっていないのなら、まだ話し合いは始まっていないということ。
このまま藍色の後をつけていけば問題ないだろう。
ハートがここに来た目的は、アルコバレーノたちの動向を探る事だった。
おしゃぶりの光線を一時的に強める謎の泉に、彼らは結集しているようなのだ。
こんな時に、奴らはこそこそとなんの話をしているのだろうか。
代理戦争を目前に控えた今だからこそ、慎重に動かなければ。
ダイヤが使い物にならなくさえなっていなければ、わざわざ盗み聞きなんてしなくて済んだのに。
「六道骸!!」
「ヴァリアー!!」
でも、彼らが鉢合わせるなんて、なかなか面白い展開になってきたじゃない。
そう思ったハートは、木の陰に隠れたまましばらく様子を見ることにする。
どうやら、六道骸の一味もフラン獲得に動いていたようだ。
「やべ、妖精見える」
彼らを見たフランはそう言って、変なまじないをかけ始めた。
どこをどう見たら、あの凶悪な面々が妖精に見えるのだろうか。
常に幻覚でも見えてるんじゃないかと思えるくらい、フランの言動と行動は不審だった。
「フラン! 僕です! わかりますね、お前の師匠です!」
「こんな山の中に、パイナップルの精が」
自信満々にフランに声を掛けた六道骸に、フランの毒舌が炸裂する。
そして今度は、その様子を笑うヴァリアーの面々に目を向けるとフランはこう言い放った。
「こちら側のみなさんは知ってます―。一つの集団ですよね。……虫歯菌だ」
「てめっ!!」
「虫歯菌は妖精でもねぇだろぉが!!」
またしても、『オンブラコッコドンブラコッコ、立ち去れ〜立ち去れ〜』と言いながらクネクネ踊り始めたフラン。
しかし、彼は途中でぴたっと動きを止めると、不思議そうに首を傾げた。
「……あれ? でも、あの子がいませんねー」
「あの子?」
「誰の事だぁ?」
「んー……、あの子って誰だっけ。名前が思い出せない。まあいいやー」
フランは『うーん』としばらく唸っていたが、思い出すのは諦めたようだった。
その様子をハートは訝しげにじとっと見ると、ぽそっと呟いた。
「なんであのガキ、他の事は全部忘れてる癖にダイヤの事だけ微妙に覚えてるわけぇ」
さすが、未来で復讐者を欺いた実力は本物ということか。
そのレベルの術師を逆に欺くことは、さすがに無理があるのかもしれない。
チーズの角で頭を打って全てを忘れるようなガキに、能力を打ち砕かれたとあっては沽券にかかわるが。
結局、藍色のアルコバレーノの記憶も消えなかったみたいだし。
忘れたくないと相当強く思ってでもいない限り、こんなことあるはずないのに……。
アルコバレーノといえば……! そんなことより今は、あの泉だ。
はっとそれを思い出した時には、藍色の姿は既になかった。
「最っ悪……」
◇◆◇
カツンカツンと氷の上を歩くように硬く澄んだヒールの音を奏でながら、少女は歩いていた。
やがて彼女は、ヴィンディチェの牢獄の前まで辿り着く。
そして、膝の上で踊るように翻る、漆黒のワンピースの裾を一寸持ち上げて、しなやかな動作でお辞儀をした。
「お久しぶりですね。親愛なるバミューダ」
ネーヴェの姿をした彼女は、くすくすと上品さのある笑い声を零す。
その瞳の中に映る光が、ダイヤを象った様に歪んだ。
視線の先にいたのは、言わずもがな透明のおしゃぶりを持った赤ん坊だった。
「! 君は……」
「確か貴方が、アルコバレーノをお役御免になった時以来です。お変わりないですか?」
そう血の通わない声で言葉を紡ぐ彼女は、確かに未来でバミューダが殺したチェッカーフェイスの手下の少女の姿をしていた。
しかし、彼には彼女が“何者”なのか、瞬時に理解することができた。そして彼女の疑問符の意味も。
「何百年経とうが変わらないさ。我々の目的は」
「くすくす、安心しました。それでこそ復讐者です」
その感情のこもっていない揶揄ともとれる賞賛の言葉に、バミューダはなにも反応を示さなかった。
「しかし、未来で殺した相手がまさか君だったとは。失敬したね」
「ああ、あれのことですか。あの世界線ではいろいろと試してみたかったのでいいのです」
「やはり、君は私が会った中でも一番の変わり者だ」
「おやめください。貴方の最上級の誉め言葉は、複雑な気持ちになります」
暗に不愉快だと言っているのだろうが、口から飛び出す言葉は全てにおいて曖昧である。
受け取る人によって解釈が変わってしまうような湾曲表現。
彼女のこの何を考えているのかわからないところが、バミューダにとっては面白く、また脅威でもあった。
「それで、もうその娘の身体は完全に乗っ取れたのかな?」
「乗っ取ったわけではなく、合意のもとの共存です。そうですね。まだ完全ではありませんが、代理戦争には間に合うと思いますよ」
「君が手を出す必要はない。チェッカーフェイスに復讐するのは、我々だからね」
「くすくす、お好きにどうぞ? ではお暇しますね。もう一人の私が貴方を見ると、恐怖で気が触れてしまうかもしれませんもの」
そう言ったネーヴェの身体が、ふっとその場から消える。
彼女の身体は、夜の炎を使った短距離ワープができる程度には使えるようだ。
◇◆◇
マーモンがおしゃぶりの泉での会合から戻ってくると、フランの引き取り先は決まっていた。
どうやら、本人の希望で黒曜になったようだ。
(そんなこと、どうでもいいけど)
そう心の中で呟いた時、森の中から聞きなじみのある声がした。
「あれ、ここどこ……」
その場にいた全員の視線がそちらに集中する。
木々の間から姿を現した相手も、こちらに気付いたのか驚いたように固まった。
幻覚かも。
マーモンが真っ先に疑ったのはそれだった。
六道骸が彼女を覚えているのかは定かではないが、彼ならこんな悪趣味な幻覚を作り出してもおかしくないだろう。
しかし、メリットもないのにわざわざこんな嫌がらせをするだろうか。
自分以外に術師が二人もいる場で、彼女が本物でない可能性を疑うのは当然のことだった。
あれだけ探しても見つからなかった相手と、こんなにあっさりと、こんな場所で再会するなんて絶対におかしい。
そう考え、反応に躊躇したせいだろう。
それは一瞬の差だったのだから。
「ネーヴェ!」
「え……フ、ラン?」
マーモンは、ネーヴェの名前を呼ぼうと開きかけた口を再び閉じることになった。
コンマ1秒差で早く彼女の名を呼んだのは、未来で自分の後任を務めていた子供だった。
それどころか、名を呼んだ彼は勢いよく彼女に抱き着いたのだ。
それを見て、ヴァリアーの皆も黒曜の連中も、全員ぽかんと呆気にとられた表情になる。
当事者のネーヴェも状況に頭が追い付いていないのか、動揺したように視線が揺れていた。
「どうして……、忘れたはずじゃ」
「忘れるはずないじゃないですかー。ネーヴェはミーの運命の人ですー」
さっきまでバッチリと名前を忘れていた癖に、ぬけぬけとそう言うフランに周囲は冷めた視線を送った。
未来の記憶を失ったくせに、未来でしか会っていないはずのネーヴェのことは覚えているらしい。
どこから突っ込んでいいのかわからない状況の中、思い出したようにこう言ったのはベルだった。
「つーかさ、腑に落ちねーのはオレたちもネーヴェのことを忘れてたことなんだけど」
「なんでアイツのことを今まで忘れてたんだぁ?」
「ぬ……、ありえん」
「ネーヴェのことを忘れていたなんて、本当に信じられないわ」
他の幹部たちも、口々にそう同意する。
ヴァリアーの皆も、ネーヴェの姿を見て全てを思い出したみたいだ。
でも、なぜかそのことがマーモンは嬉しくなかった。
(僕はずっと覚えてたのに)
そんな言葉が頭を過ったが、なぜそれが怒りとも不満ともつかない感情に繋がるのか理解できなかった。
もやもやとした行き場のない気持ちが鬱積するも、それを言葉にすることが出来ない。
「さて、こんなところに長居は無用です。フラン、行きますよ」
「えー、ミーやっぱりこっちがいいですー」
六道骸はフランの首根っこを掴み連れて行こうとしたが、フランはネーヴェにしがみ付いたまま離れようとしない。
それを見ると、六道骸はわざとらしくため息をついて狙い澄ましたかのようにこう言った。
「仕方ありませんね。本人がこう言っているようですので、フランをヴァリアーに差し上げます」
「う゛お゛ぉい! さらっと振り出しに戻そうとしてんじゃねぇぞぉ」
「やっぱコイツ殺そーぜ」
「ベルちゃん駄目よぉ」
フランに向けてナイフを構えたベルを、ルッスーリアが制止する。
「ネーヴェー、助けてくださーい。あいつらが寄ってたかってミーの事いじめてきますー」
「……とりあえず、離して」
そう居心地が悪そうに言ったネーヴェの視線が、一瞬だけ自分に向いたことにマーモンは気が付いた。助け船でも求めているのだろうか。その行動一つにすら、苛立ちが募る。
結局、ネーヴェに諭されたフランは黒曜の連中と一緒に去っていった。
マーモンはそれを、最初から最後まで口を挟まず見ていただけだった。
(こんなバカバカしいことに付き合わされて、勧誘に失敗(?)して、本当に給料出るんだろうな)
ほとんどこの場にいなかったが、それとこれとは話が別だ。
マーモンはそう思って、舌打ちしたくなるような気持ちを抑えた。
「う゛お゛ぉい、ネーヴェ!! これは一体どういうことだぁ!!」
「まぁまぁ、隊長。よかったじゃないの。ネーヴェが元気になって帰って来たんだから」
スクアーロの叱る声を聞いたネーヴェは申し訳なさそうな、でもちょっと安心したような顔になる。
「迷惑かけて、ごめんなさい」
スクアーロはため息を吐くと、呆れたように言った。
「髪に木の葉付いてんぞぉ」
「えっ、嘘……」
「ししっ、王子がとってやるよ」
ベルは、ネーヴェの髪からそっと葉っぱを摘まむとぽいっと地面に捨てた。
「つーか、こーゆー時は“ただいま”って言っとくもんなんじゃね」
「……ただいま」
促されるように遠慮がちにそう言ったネーヴェに、彼らは「おかえり」と返した。
その様子を黙ってみていたマーモンは、なにも言わずに背を向けてふわりと飛び去ろうとする。
「待っ……て……」
それに気づいて引き留めようとしたネーヴェを、マーモンは完全に無視した。
拒絶された彼女の足が、止まる。
マーモンがネーヴェに対して、こんな反応をしたのは初めてだった。
(傷つくかな。傷つけばいいのに)
彼女のそんな表情を見れば、少しは気は晴れるような気がした。
振り返らなかったから、彼女がどんな顔をしているのかはわからなかったけれど。
◇◆◇
バミューダはリボーンと接触したのか。
ハートはアルコバレーノたちが読んでいた手紙の内容を思い返すと、重い溜息を吐き出した。
間違いない。
今回の代理戦争で、何かが起こる。
「ハート」
「チェッカーフェイスさま……!」
ハートは、自分に掛けられた声を聞いて舞い上がった。
「代理戦争のことですか?」
「そうだ。すでに私は、アルコバレーノたちと夢を介して接触を開始している」
「それでは、私は何を……」
嬉々としてそう聞いたハートは、現れた別の人物を見て声をだんだん小さくした。
「尾道」
「はい。チェッカーフェイス様。ハハッ」
「彼を使いたまえ」
「え……」
思考が停止する。
どうして。私じゃなくて、彼を。
というか、こいつは誰? 新しい駒? 私は、お払い箱? そんなまさか。
「……はい」
「よろしくお願いしますね、フフッ」
馬鹿にしているのかと言いたくなるような尾道の口調が、いっそう腹立たしい。
「あのっ……チェッカーフェイス様」
「なにかな?」
ばっと意を決したように顔を上げたハートは、しばし逡巡した挙句、もう一度顔を伏せた。
「…………なんでも、ございません」
“あれ”は、私が何とかするべき問題。
チェッカーフェイス様を煩わせるようなことなど、あってはならない。
バミューダと復讐者は、私がなんとかしないと。