end


代理戦が終わってしばらくの期間。
参加者たちの負った傷は深く、長期の入院を要した。
ヴァリアーの負った損害も大きく、イタリアに戻り日常が戻ってきたのはかなり経った後のことであった。

「で、どーすんの。ボース」

絶対、この話題がそろそろ出てくる頃だろうとマーモンは思っていた。
ベルのその言葉には目的語が欠けていたが、その言葉が指すものを全員が理解していた。
ネーヴェの今後の処遇についてだ。

「さすがに、今まで通りってわけにもなぁ」
「ボスを裏切ったのだ。当然であろう」

無言のまま悠々と椅子に腰かけるザンザスに代わって渋るスクアーロに、無慈悲なレヴィの台詞が重なる。

「ところで、彼女は今どんな様子なの?」

そう初めて心配そうにマーモンに尋ねたのは、ルッスーリアだった。

「ネーヴェを操っていた人格は消えたよ。ただ、仕事を続けていくことはできないだろうね」

さりげなく“彼女はただ操られていただけ”ということを強調したが、それで許されてしまうほどヴァリアーは甘くない。
そんなことはマーモンにも分かっていた。
分かっていたからこそ、ここはかっ消される覚悟で言わなければならなかった。

「あ、あのね、ボス」

恐る恐るではあったが、マーモンはできるだけきっぱりとこう宣言した。

「ネーヴェの事は僕が全部責任を持つよ」

ルッスーリアから「まあっ」という嬉しそうな声が上がる。
「ししっ、飼う気かよ」と言ったベルの口元は、いつも通り愉快そうに笑っている。
しかし、当人は、自分に向けられたその呑気な言葉に反応している余裕がなかった。
内心それどころではなかったのだ。
マーモンは、ザンザスと視線が合った瞬間、汗が流れ落ちたような気がした。
それほどの緊張を感じること数秒。

「チッ……勝手にしやがれ」

そう吐き捨てたザンザスの言葉に、マーモンは張りつめていた糸が緩むように胸をなでおろした。

「ありがとう、ボス」

そう言ったマーモンは、足早に部屋から立ち去る。
ネーヴェのところに行ったのだろう。
今、彼女がマーモンの部屋にいることは、全員が知っていた。

「オレ、マーモンってそういうめんどくせー関係、絶対嫌がりそーだと思ってたんだけど」
「ベルちゃんにはまだ早いかしら」

『愛よ』などとしたり顔で言ったルッスーリアに、『うぜーぞぉ!』と突っ込んだのはスクアーロだった。


◇◆◇


《おかえりなさい》
マーモンの目の前に差し出されたのは、そう書かれたメモ帳だった。

「ただいま、ネーヴェ」

ネーヴェは声を失ったために、話すときは基本的に筆談だった。
不安げにこちらを見つめるネーヴェを安心させるように、彼女の手に自分の手を添える。

「ボスは、君がここにいることを許してくれたよ」

その言葉を聞いたネーヴェは、慌ててペンを動かす。

《ありがとう》
「ム……それは、僕じゃなくてボスに言うべき言葉だよ」

ネーヴェは、横に首を振って、続きを書こうとする。
しかし、マーモンはその手を押しとどめた。

「わかってるから」

マーモンがザンザスに、ネーヴェへの慈悲を乞うたことを、彼女も察しているのだろう。
それに対する感謝の言葉だったことは、マーモン自身いくらなんでも気付いていた。
ただ、その感謝を素直に受け取れず皮肉で返してしまうのが常なのだ。
けれど、ネーヴェへのこのような対応は命取りになる。
素直に分かりやすく伝えてあげないと、すぐに後ろ向きに解釈をし始めるのだから。
ネーヴェは、人付き合いにおける情緒が人並みに育っていない。
だからこそ、異常なほど自分に懐いた部分もあるのだろうと、マーモンは思っていた。

しかも。
ネーヴェは、自分の意志で指輪の力をコントロールできていない。
だからこそ、できるだけネーヴェの感情を揺さぶらないように気を付けていた。
マーモンがそれに気づいたのは、記憶を失った彼女にとりとめもない過去の出来事を話していた時だった。
話の流れで、ふと代理戦争で失ったお金について嘆いた次の瞬間、空から大量の札束が降ってきていたのだ。
突然の事に思考が停止し、何が起こったのか全く理解できなかったが、突然苦しみ始めたネーヴェを見て我に返った。
彼女は、内臓をいくつか失っていた。

「こんなくだらないことに指輪を使うなんて、何を考えてるんだ!!」

そう焦ったマーモンが咄嗟に幻術で内臓を補い、その時は事なきを得た。
しかし、その出来事でハッキリしてしまったのだ。
ネーヴェは、マーモンの願いは全て叶えたいと心の底から願ってしまうのを止められない。
それはもう、なにを失ってもいいと思うくらいに。
その時は失ったのが内臓で済んだからよかったものの、次はわからない。
以来、こうしたい、ああしたいといったような願望をなるべくネーヴェの前で言わないように、マーモンは気を付けていたのだ。

「よく聞きなよ。僕はこれ以上君がそのリングを使うのを望まない」

マーモンはその一件の後、ネーヴェにそう言い聞かせた。
そうしたら、彼女は迷わず自分の指からリングを抜こうとしたのだ。
慌てて止めていなければ、ネーヴェは今頃冷たくなっていただろう。
ネリーは、ネーヴェを死んでも開放しなかったのだから。

ネーヴェの生きがいは既に、マーモンの願いを叶えることになっていた。
彼女が指輪を使うのではなく、彼女が指輪に使われる側に成り下がっていたのだ。
自分の叶えたい「欲」がない代わりに、マーモンの「欲」を身を削って叶えようとする。
そのことに、マーモンはぞっとしていた。

(強欲な僕と一緒に居たら、間違いなくネーヴェは身を滅ぼす。遠ざけた方が、絶対いいに決まっている)

でも一緒に居てあげなければ、ネーヴェはどうなるのか……。
今更見捨てようなんて寝覚めが悪すぎる。
もう既に、彼女に対して捨てられないほどの情を抱いてしまったのだから。
――――ネーヴェはもう、一人では生きていけない。

それからはまるで、生き地獄のような日々だった。
彼女は指輪による喪失を繰り返し、日に日に壊れていった。
徐々に消えていく姿を見せつけられていると、こちらまで頭がおかしくなりそうだった。
気がふれてしまいそうだった。
目に見える身体的欠損はまだないけれど、ネーヴェは内側から確実に壊れていっている。

しかし。
ネーヴェは失うたびに満たされたような、幸せそうな表情をするのだ。
それが、マーモンには理解できなかった。
ネーヴェが握力さえも失い、とうとうペンを握る事すらできなくなった時、とうとう心の声が漏れ出していた。

「君が何を考えているのかわからない。望んでいることがわかれば……」

言った後に、ハッとするも時すでに遅し。
彼女はそれを叶えていた。
ネーヴェの思考や心の中が、全部流れ込んできたのだ。

(まさか、僕の事しか考えていないなんてね……)

1から10まで、いや、100まで、彼女の頭の中はマーモンのことだけだった。
自分の身を文字通り捧げて相手に尽くす幸福感。
彼女はなにを失うことになろうと、いや、失うことが幸せなのだ。

「そこまでして叶えてもらっても、僕は何も嬉しくないのに……」

ここまで人間が壊れることができるなんて知らなかった。
ネーヴェが自分への恋愛感情で狂ってしまったことがとてつもなく重かった。

(でも、ネーヴェの今の状況が、僕のせいだとは思わない)

全く非がないとまでは言えないが、そのことだけがマーモンの心を支えていた。


いつまでこんな日々が続くのだろうかと自問し、しかし答えは既に目に見えていた。
終わりが来るときは、彼女が死んだ時だと。
今度帰った時、何を失ったネーヴェの姿があるのだろう。
部屋のドアを開けるたびに、マーモンはそう考え、居ても立っても居られないような不安を感じる。
完全に憔悴しきっていたが、任務に行かないわけにもいかない。
上の空だったせいか、ある日の任務でつい怪我を負ってしまった。
もちろんただのかすり傷だ。
しかし、このことがネーヴェにバレたら、絶対に彼女は願うだろう。
願って、しまうだろう。

そんなことを考えながら、帰るのが少しだけ億劫になる。
意を決してドアを開けた時、ようやくマーモンは異常に気付いた。
――――ネーヴェの姿がどこにもなかったのだ。

彼女が書いたと思われる書置きだけがそこにあった。
ペンを口に咥えて書いたのだろうか。
つたない文字で綴るその文字を見て、マーモンは慌てて部屋を飛び出した。

「また勝手に、居なくならないでよ……、ネーヴェ」


◇◆◇


その日、ネーヴェはアジトをそっと抜け出した。
全ての始まりの日のように、向かうのは海。
あの日をやり直すの。今度は運命から逃げたりしないから。
目の前に広がる海は、藍色。夜空も同じ。
神秘的で暗くて深くて、落ち着く色。
まるで大好きなあの人みたい。
そう思いながら、水に足を浸す。

(どうか、どうか、私の残り全てをあげるから。あの人の呪いを解いて)

神様なんていないから、この悪魔のごとき指輪に願う。
――――これできっと最後だ。
生まれてきてよかった。
この願いを叶えた後は、心からそう思えると信じることができた。
そして、この手に夜の炎は二度と灯らない。
此岸にしがみ付いているだけの、生に執着するだけの亡霊。
そんな悍ましき存在から、炎を灯す前の状態に戻るのだ。
運命を拒否し夜の炎を灯した場所で、私は運命を受け入れる。
この命を、あるべき場所に還そう。
今なら、自らの死を受け入れられる。

だって、あの日生きたいと願えたのはあの人のおかげなのだから。
生きていても死んでいても同じだと諦めていた頃、夢の中で会ったのはマーモンだったのだから。
全部思い出したよ。
“人間は何度も同じ人生を繰り返す”んだったね。
幸せな人生だった。
運命が、この世界が、絶望だけじゃないことを教えてくれたから。
あなたが私にたくさん希望をくれたから。

願うならば、あなたの努力がハッピーエンドで終わりますように。

(ああ、だけど最期に、会いたいなぁ……なんて)

「ネーヴェ……ッ」

突然腕を掴まれ、驚いてそのまま後ろに倒れると、受け止められる背中。
この声は、絶対そこにはいないはずの人物だった。
自分より大きな体に抱きすくめられ、ネーヴェは目を見開いた。
呪いが解けた姿なのも、本当の姿のあなたに会うことを望んだせいなのだろうか。

(なんで、私は、本当に……、ズルい女だ)

「突然この姿でここに飛ばされたんだ。そうじゃなくて、なにも言わずにいなくなるなんて何を考えてるんだ!! 早く帰るよ。夜に海なんかに入って、風邪でも引いたらどうするつもりだい!?」

悪い予感を振り払うように、マーモンは言葉を紡ぎ続けた。
けれど、マーモンにもネーヴェが何を考えているかなどわかっていた。
指輪の力で、ネーヴェの考えも望みも全部が筒抜けだったのだから。

ネーヴェの身体が崩れ落ちる。
マーモンは慌てて、その体を浅瀬に座り込むような体勢で抱きとめた。
じわりと水が服に染み込んでくるのも意識の外で。
今にも泡になって消えてしまいそうな彼女の儚さに、マーモンの心臓は早鐘を打っていた。

「僕は受け入れないよ! 僕を置いてネーヴェが死ぬなんて、絶対に許さない! 呪いが解けてもそこにネーヴェがいなかったら意味がないんだ!」

恥も外聞もかなぐり捨てて縋るほどには、マーモンにも余裕がなかった。
マーモンのフードを下から覗き込むような形になり、2人の目と目が合う。
それは初めてのことだった。

思わずネーヴェが伸ばした手が、マーモンの頬に触れる。
彼女の唇が『きれい』という言葉をなぞって動いた。
そう声にならない声にして、満たされたようなあどけない笑みを浮かべた彼女はとても綺麗だった。

その彼女の手が落ちるのを、マーモンは止まった時間の中で見ていた。
その手を掴んで握りしめる。

「ネーヴェ……ッ! 待って! いかないで……」

(目を開けてまた「好き」って言ってよ。今度はちゃんと「僕もだよ」って言ってあげるから)

ネーヴェの書いた置き手紙の《あいしてる》の文字が、海水で滲んだ。


◇◆◇


ネーヴェは命と引き換えに、願いを叶えた。
器の最後の一つは元通りになり、そうしてアルコバレーノたちの呪いは解けたのだった。



【end...?】