周囲から音が消える。
ネーヴェが身体を起こすと、そこはベッドの上だった。
「なるほど。懐かしい場所ね」
「病院……」
傍らから聞こえてきたのは、ネリーの声だった。
ピーッと耳障りなノイズを吐き出し続ける箱。
その音だけが、静寂の中で耳に痛いほど突き刺さってくる。
一定の高音が、まるで洗脳のようで、吐き気がする。
「まだ思い出さない? 私が貴女のなんだったか」
「ネリーは、私の……」
ネーヴェは、ベッドの傍に立ったネリーを虚ろな目で見上げる。
自分によく似た少女が、優し気に微笑んでいた。
「私の、唯一の友達」
◇◆◇
ネーヴェがまだ、夜の炎に頼らず生きていた頃。
『可哀想に。君はちょうど7日後に死んでしまうね』
そう彼女に話しかけたのは、彼女の腕の中のぬいぐるみだった。
『そう。お医者さまにもずっとそう言われ続けて育った。もの心ついた時から毎日が命日。だから、別に怖くないよ』
『生きるのを諦める? ううん。きっと疲れっちゃったんだね』
『……生きる理由が、私には何もないから』
『変えられない自分の運命が許せないよね。呪ってやりたいよね。こんな世界に復讐してやりたいよね。こんなつまらない世界、滅んでしまえばいいって思わない?』
『思わない。私はこの世界を愛してみたいの』
そう否定して、ネーヴェはあざらしのぬいぐるみを抱きしめた。
それは、ネーヴェの“イマジナリーフレンド”。
否、ネーヴェの中のネリーの意識だった。
ネーヴェには、生きる意志がなかった。
絶望できないのは、希望を知らないからだ。
しかし。
彼女はどんな心境の変化からか、死の直前生きることを望んだ。
生きたいと強く願った。
それは絶望からくる感情ではなかった。
証拠に、彼女は夜の炎を灯すことができなかったのだから。
死にゆく彼女に、ネリーはこう囁いた。
『生きる理由がないのにまだ生きたいのは、なぜ?』
『人は同じ人生を無限に繰り返す。のであるならば、私は、こんなところで終わりたくない。だって、まだ……』
彼女は、以前の“生きることを完全に諦めていたネーヴェ”ではなかった。
何が彼女を変えたのか、ネリーにはわからなかったけれど。
ネリーは彼女の中に入ることで、夜の炎でネーヴェを生き永らえさせた。
なぜって? それは……。
◇◆◇
「あの日決めたの。絶対貴女を絶望させてみせるって」
そう言い放ったネリーはとても満足しているようだった。
ネーヴェが自分の思惑通り、夜の炎を灯したからだ。
「今の貴女が願えば、あの器を元に戻すことができるわ。そんなこと、この指輪を使えば造作もない。それが出来ないのは、貴女が心の底からそうなることを望んでいないからよ」
指輪に炎を灯すのは、覚悟の力だ。
願いのためならば何を犠牲にしてもいいという覚悟。
それが、ネーヴェには足りないのだ。
「どうして……」
「あら、心当たりがない? そんなわけないわよね」
そう言って、ネリーはくすくすと笑った。
――――あの人の呪いが解けなければいい。
(私が、本当はそう望んでいるとでもいうのだろうか)
「私は、ただ、傍に居られれば……」
(それだけでよかったのに)
ネーヴェは、ぎゅっと祈るように左右の手を組む。
(出来るはずだ。私は、マーモンが好き。ヴァリアーの皆も好き。みんなのためならば、私は、私の全てを捧げることができる。だって、だって……)
そこまで考え、ネーヴェは全身の血の気がさぁっと引くのを感じた。
「あ、れ……」
(どうして、好きなんだっけ。私は、なんで、何があって)
指の隙間から砂のように零れ落ちていく。
それは、記憶だった。
なにも思い出せないのだ。
彼らと過ごした大半の記憶が、ネーヴェの中から消えていた。
「記憶を失ったのね。それも、幸せだった、楽しかった記憶だけを」
絶望のリングらしい趣向だ、とネリーは思った。
全てを奪わず、失いたくないと願う部分だけを攫っていく。
人を絶望に突き落とすすべを、この指輪は心得ている。
ネーヴェはもう、堕ちたも同然だった。
「残念ながら、指輪の力で失ったものは、指輪の力を使っても取り戻せないの」
更に絶望に突き落とすネリーの言葉に、ネーヴェは呆然とする。
(もっとこの世界を恨めばいい。呪えばいい。そして、ネーヴェに自分の願いを叶えてもらうのだ)
そんなネリーの心の内も知らず、ネーヴェは失った記憶をかき集めようと必死に探した。
けれど。
ネーヴェの手に残っていたのは、マーモンへの狂おしいほどの恋情だけだった。
◇◆◇
「ムム、ここは……病院か?」
ネーヴェの世界に入ったマーモンは、ふと自分の身体に違和感を覚えた。
呪われる前の、元の姿に戻っている。
喜ばしい事ではあるが、この世界ではあまり意味がないと言えるだろう。
超能力が使えないとなれば、自分の足で彼女を探すしかない。
電気が通っていないのか、病院内は薄暗かった。
(ここが、ネーヴェの心の中……)
端の病室から、順番に覗いていく。
おそらくどこかにいるネーヴェ以外には、誰もいないみたいだった。
最上階の1番端の部屋。
マーモンはようやく、ベッドでぼんやりと前を見つめているネーヴェの姿を見つけた。
隣に鎮座している心電図モニターは壊れているのか、心停止の状態のまま動かない。
耳障りな音を吐き出し続けるそれを無視して、彼女の傍にいる人物に声を掛ける。
「今すぐネーヴェから離れなよ」
「くすくす、王子様のお迎えよ! 感動的ね! ネーヴェ」
愉快そうに笑うネリーは、ネーヴェとよく似た姿をしていた。
ネーヴェは無言のまま、光のない瞳を扉の方に向ける。
その表情に、マーモンは未来の記憶を思い出した時の彼女の様子を思い出した。
あの時、自分が目を離した隙にどこかへ行ってしまった彼女を。
そして、戻ってきたときには、自分以外にも心を開いていた。
あれだけ、『傍にいて』と縋ってきたくせに。
そんなことは全て忘れてしまったかのように、完全に自立したようなふるまいで。
それだけじゃない。
彼女が未来で、自分の後任とどんな関係にあったのかは知らないが、彼は自分よりも先に彼女の名を呼んだ。
その親しげな様子に、自分の知らないネーヴェがいることに気付いた。
そのことに腹が立った。
自分の死後であろうとも、彼女が自分の手を離れていくなんて、許せなかった。
そんなこと、あるはずがないと過信していた自分がいたのだ。
「そんなもの、どこで拾って来たんだい?」
ネーヴェの左手の薬指に嵌まる指輪を見て、マーモンは冷たくそう吐き捨てた。
今、マーモンに幻覚が使えれば、周囲に冷気が漂い出していたことだろう。
そのくらい、心を揺さぶる感情を抑えることができなかった。
「あら、まだ良いところなんだから、邪魔しないで」
ネーヴェのしている指輪に手を伸ばそうとしたマーモンの腕に、鎖が絡む。
ネリーだ。
「それはこっちの台詞だよ」
「くすくす、怖いですよ。しかし、あなたのほうから来てくれるとは」
そう言ったネリーは、語る。
未来で一度だけ、ネーヴェは自身の力で夜の炎を灯した。
マーモンが死に瀕していた時。
そして彼女がジンジャー・ブレッドを退けた時だ。
あの後、拷問されようが、殺されようが、ネーヴェは一切自らの力で絶望の炎を灯すことができなかった。
ネリーの夜の炎で戦うことができても、それは所詮借り物の力に過ぎない。
だからこそ、彼女は未来であっさりと死んでしまったのだが。
そこで一つの結論に至る。
希望がなければ、絶望も出来ない。
ネーヴェにとっては、マーモンだけが希望なのだ。
代理戦で、バミューダとの取引でマーモンに危害を加えないようにお願いしたのも、その存在が損なわれるのを防ぐため。
「丁度良かったわ。あなたのためにしか、この子は死ぬ気になれないみたいだったから」
そう言ってネリーは、マーモンを鎖で完全に拘束する。
(幻術さえ使えれば、こんなもの、なんだってことないのに……)
「こんなことでネーヴェを絶望させたところで、君の願いをネーヴェが叶えることはないよ」
「そうかしら?」
マーモンの言葉にそう首を傾げたネリーは、手元の心電図モニターをトントンと叩いた。
「だって、これがネーヴェの真実、リアル、現実。運命を受け入れることはすなわち、自らの死を受け入れるということよ」
ネリーは手を広げる。
「さぁ、ネーヴェ。選んで? この運命を受け入れるか! 抗うか!!」
「ネリー」
ネーヴェは、酷く冷たい声で彼女の名を呼んだ。
「いい加減にして。誰に許可を得て、私の好きな人に手を上げているの?」
「ネーヴェ……?」
マーモンを縛っていた鎖が解けていく。
ネリーは訳が分からないというように、言葉を失う。
ネーヴェの瞳には強い意志が戻っていた。
「ここは私の世界。私がルール。貴女でさえ好きにするのは許されない」
今度は、ネリーが拘束されていた。自らの鎖によって。
「ネーヴェ……、貴女、自分が何をしているのかわかってるの?」
ネリーのその問いかけを、ネーヴェは無視した。
「マーモン、どうして来てくれたの?」
「どうしてって……それは……」
ネーヴェの真っすぐな瞳に、マーモンはたじろぐ。
「この指輪で器を元に戻そうとしたけれど、私には無理みたい。ごめんね」
そして、悲しげに伏せられた瞳にマーモンは『違う』と言おうとして口を開く。
「ネーヴェは記憶を失ったの。さっき、指輪を使ったときにね」
勝ち誇ったようなネリーの声が、それを遮った。
“記憶を失った”。
それがどの程度のものなのか、その情報だけでは測りかねるが。
(現に僕の事は認識できているようだから、そこまで深刻な記憶喪失ではないはずだ)
「忘れたのなら、もう一度過去をやり直せばいいだけの話だよ。僕が全部覚えてるんだから問題ない。だよね、ネーヴェ」
失ったのが、記憶で良かった。
マーモンは心底そう思った。
もっと大切なものを失ってたら、取り返しのつかなくなるところだったのだから。
「どうして来てくれたのかって聞いたね。嫌いな人間に優しくするほど、僕はお人好しじゃないよ」
「じゃあ、どうして……」
「そんなの、……僕が君のことを好きだからに決まってるだろ」
ネーヴェが自分に向ける“好き”とは、温度差があろうとも。
マーモンがそれを口にしたのは、決死の思いだった。
こんな恥ずかしいことを自分でもよく言えたものだと思った。
これは、はっきり言わないと伝わらないネーヴェに対する最終手段だった。
それを聞いて目を見開いて固まったネーヴェが、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
そして、喉の奥から絞り出すようにこう言った。
「嘘、だよ。そんなわけない……」
「ム、君は、僕の気持ちまで勝手に決めつけるのかい?」
その言葉は、ネーヴェに届かない。
彼女は、マーモンの言葉を素直に受け取ることができなかった。
(私は、自分に都合のいい夢を見ているだけ。そうでなければきっと《私がそう望んだから》だ)