荷物は一つだけだった。
彼女が胸に抱えている本がそれだった。
その本は普通の大きさをしていたけれど、幼い少女の身には不釣り合いに大きく見えるのだ。
革装丁に、ムーンストーンの装飾。
表紙に刻まれたタイトルは、魔法界では知らない人はいないほどポピュラーなもの。
魔法使いの家に生まれた子供なら、寝物語に必ず聞かされることになるだろう物語の名だ。

“吟遊詩人ビードルの物語”である。

原書のため、英訳はされてはいない。
ルーン文字で書かれたその原文を、読むことができる人間は少ないだろう。
初版本であるそれは、両親からエテルナへの6歳の誕生日プレゼントだった。

いや、なるはずだったものだ。
その時の彼女は6歳を迎えていないのだから、本来であればまだ渡されるはずがなかったもの。

数日後の誕生日を彼女は、スタラッティーテ家で迎えた。

◇◆◇

エテルナは本を読むのが好きだった。
中でも、童話が好きだった。
けれど、それを表に出すことは少なかった。

御伽噺を夢想する、夢見がちな子どもだと周囲に思われるのが嫌だったからだ。
あとはもう一つ。
屋敷しもべ妖精が自分に対して、ベビーシッターのような態度をとることに反感を覚えていたからだ。

「入学に必要なものは、こちらで揃えましたので」
「ありがとう」

このように、屋敷しもべ妖精が身の回りの事は全てやってくれる。
命令しているわけでないにも関わらず、勝手にそうされてしまうのだ。
この家に来て5年ほど経つにもかかわらず、このような丁寧な扱いには慣れなかった。
駄目にされそうだという不安ばかりが、胸に湧き上がる。
もうホグワーツに入学する年になったというのに。

「あとは……、杖と制服の採寸?」
「然様でございます。採寸は屋敷に仕立屋を呼ぶことも可能ですが」
「伺わせていただくとお伝えして」

そんなどこぞの王侯貴族のような振舞い、一体何様のつもりなのだろう。
家の名がすごいのであって、自分自身がすごいわけではない。
エテルナはそれを忘れたくはなかったし、調子に乗る自分を自覚することには耐えられなかった。

「それで、杖はどこで買えばいいの?」
「ダイアゴン横丁のオリバンダー老人の店です」
「明日行ってくる。お祖母さまにもそうお伝えしてくるわ」
「お付きの者はどうされますか? わたくしめで良ければ……」
「いつまでも子ども扱いはやめて。1人がいいの」

と押し通したものの、彼女はすぐにその選択を後悔することになったのだけれど。

「迷った……?」

次の日、エテルナは気が付くと自分の位置を見失っていた。
どこかでちょっとした裏道にでも入ってしまったのだろう。

こうなったら、その辺のお店の人に道を聞くしかない。
エテルナは、先ほどいた場所とは打って変わって寂れた通りに悪い予感を抱きつつも、そうせざるを得ないと自分を納得させた。

一杯だけ、なにか飲み物を頼めばいいか。
そう思って入った店でこれ以上に悪いことが起きるなど、想像しているはずがなかったのだから。

「……うそ」

カランカラン。
薄暗くて不気味な店内に、ドアベルの音が緩やかな余韻を残した。
そんな中で、エテルナは優雅に足を組みシャンパングラスを片手に持った女と目が合ったのだ。

ハッとするほど顔立ちの整ったその彼女は、美しいブロンドをしていた。
そして、まるでエテルナが現れるのを予測でもしていたかのように、余裕のある笑みをにんまりと口元に浮かべる。
実に、5年ぶりの再会だった。

「ハァイ、ご機嫌いかがかな? エルたん」

機嫌よく手をひらひら振る彼女に、エテルナは目をきっと鋭くする。

「最悪の気分よ。百味ビーンズの箱を開けて、中身が全部臓物味だった時といい勝負ができるくらいにはね。さすがにそれは夢だったんだけど、どうもこれは現実みたいだし。ていうか、なんでこんなとこにいるの? ママ」

「お前がよく喋るからママびっくり。そんなに人恋しかったの? そりゃあ、あの堅物と暮らしてたら当然だろうけど」

「お祖母さまの悪口はやめて。そんでもって、もう一語たりとも喋りかけないでくれる?」

確かに、エテルナが誰かにこんなに饒舌なところを披露したのは、生まれて初めてといっても過言ではない。
けれどそれは、嫌悪感から発露したもので、決して母が恋しかったわけではない。
そのような勘違いをされることは、エテルナにとって身の毛もよだつほど不快なことだった。

「てーかエルたんさぁ、こんなとこに来てるのがバレたらあのクソババアにぶっ殺されるんじゃなぁい?」
「…………」

そう言ってにまにまする彼女の言葉をエテルナは完全に無視したが、内心その言葉にひやひやしていた。
お祖母さまに怒られるような場所に来てしまったらしいことに、だ。
この女とお祖母さまは絶縁状態だと聞いているし、彼女から祖母の耳に入るわけがないことはいいことなのだけれど。

「もう帰るの? 反抗期なキミに朗報を1つ教えてあげよーと思ったのにぃ」
頬杖をついた女の、ワインレッドのルージュが艶っぽく弧を描く。

「いらない。どうせ、碌でもないし」
ドアノブに手をかけたまま、振り返りもせずにエテルナはそう言った。
けれど、その言葉は彼女に華麗に無視されてしまった。

「お前に妹ちゃんができたって話でもー?」
「……は?」

エテルナが驚いて振り向いたのは、反射的にだった。

「あいつ、再婚してやがんの」
「パパが?」
「相手はマグルらしーけどねー」
「あっそ……」
「興味なさげだなぁ。気にならない感じ?」
「別に」

別段ショックというわけでもなかったが、楽しくない話題であることは確かだった。
どこが朗報だ、とエテルナは心の中だけで毒づく。
しかし、彼女はエテルナの反応の乏しさが面白くなかったらしい。
唇を尖らせると、とんでもないことを言い出したのだから。

「なんなら奴らの住所とか教えてもいいけど」
「死ね。ストーカー女」
「あは、つまんない女」

そう聞こえた声を最後に、バンッと感情に任せてドアを閉めた。
物に八つ当たりをするのはよくないことだ。
それはよく知っていたし、淑女らしくない行いも今まで慎んできた。

「……っ」
気が付けば走りだしていた。
やり場のない不満だけが全身を駆け巡っていて、エテルナは顔を伏せると深く息を吐いた。

そんな時だった。
どんっと他人にぶつかり、彼女は地面に尻もちをついて転んだ。

「すいません、大丈夫ですか?」
そう言って手を差し伸べたその相手は、エテルナが泣きそうな顔をしていたことに驚いていた。

「私の、前方不注意です。ごめんなさい」
エテルナは相手の手を借りずに立ち上がると、ぱんぱんっと自棄気味に服の砂を払う。

その人は、この闇の魔法使い御用達であるノクーン横丁に相応しくないほど親切な人間だった。
その幸運のおかげで、エテルナは無事道を聞くことができたのだから。


全部、砂糖を塗してしまえば同じになるでしょう


どういうわけか昔の弟子に監禁されたマーモンは、なんとか脱出を図っていた。
エテルナには言葉が通じないし、彼女が自分をここから出す気がないことはすでに把握済みだ。
部屋の内装から考えるに、どうやらここはハイグレードマンションの一室のようだった。
何階なのかはわからないが、飛べる自分にとってそれはあまり重要ではない。
まずは、この鎖をなんとか解くことが先決だった。

(奥の部屋には行くなって言ってたな)
そう言った彼女の言葉を思い出すと、奥の部屋のドアに近づいた。
鍵は掛かっていなかった。
その部屋に入ると、電球が抜かれているせいで灯りが付かないようだった。
そのために中は真っ暗であったが、そこは暗殺部隊の幹部。
夜目が利くために、部屋を見通すことには何の問題もなかった。

「なんだ、この部屋は……」
見えたものには、問題しかなかったのだけれど。

壁には、びっしりと写真が貼ってある。
それを見たマーモンは、ぞっとすると同時に眩暈がした。
それらは、全部自分の写真だったのだから。
他の人物が映っているであろうと思しき箇所は全部、黒の油性ペンかなにかで塗り潰されている。
そのぐちゃぐちゃの黒い線には、憎悪すら籠っているように感じられた。

まさに狂気の沙汰だ。
しかも、この写真を見る限り、何年も前から監視されていたということになる。
その部屋の中心部には、なにかついたてのようなものがあった。
布がかかっていて、それが何なのかははっきりとわからない。

「それに触れないで!!」

その布をとろうとマーモンが手を伸ばした時、そう鋭い声が上がる。
いつの間にかエテルナが、ドアのところにいた。
向こうの部屋から差し込む光のせいで、彼女の姿が黒い影になって浮かび上がる。
そのせいで、彼女がどんな表情をしているのかはわからなかった。

「あーあ、入っちゃダメって言ったのになぁ」
そう呟く彼女の声音には、抑揚がない。

「この部屋ね、割れた鏡があるから危ないの。バイパーが怪我でもしたら大変……」
そう単調に呟く彼女は、壁の写真のことには一切触れない。
それがまたマーモンの心に不気味さを掻き立てた。

「エル……」
「なあに? バイパー」

名前を呼んでもらえたことが心底嬉しいというように、エテルナはぱあっと表情を明るくする。

「あっ、そうだ! ふふっ、ご飯できたよ。あっちで一緒に食べよう?」
そう続けた彼女は、心に一点の曇りもないかのように幸せそうに笑っていた。

◇◆◇

「帰って!!!」
次の日、玄関の方から響いてきたエテルナの大声に、マーモンは身構えた。
このタイミングの来客は、おそらく自分絡みだろうという勘が働いたのだ。

もちろん、エテルナの心配などしていない。
しかし、自分はどうか。
この繋がれた状態のままだと、敵だった場合大した抵抗も出来ないままにゲームオーバーだ。
それに、今は身内からも逃亡罪で追われている。
知り合いは全員敵だと思っておいていいだろう。

言い訳をしておくとすれば、昨日一日で脱出することができなかったのは、エテルナが常に傍にべったりだったせいだ。
衣食住が無償で保障されている上に、認めたくはないもののなんだかんだ快適だったというわけでは決してない。
外に出ても間違いなくボスの怒りを買っていることだろうから、ここにいた方が案外安全かもしれないな、などと考え始めていたというわけでもない。

話がついたのか静かになった玄関の方から、複数の足音が聞こえる。
ドアが開きエテルナと共に現れたのは、チェルベッロ機関の者たちだった。

「また逢おうね、バイパー」
そして鎖を外すと、案外あっさりとエテルナはそう別れを告げたのだった。