身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ
海の匂いがする風が吹き、波音が絶えず耳を擽る、白くて広くて綺麗な部屋。これがホテルの一室だとしたらスイートルームかそれ以上を名乗れるほど立派な部屋なのだが、ベッドに横たわった女の身体には何本もの線が繋がれており、頭上のモニターには女がかろうじて生きていることを示す心電図が毎秒音を立てて描かれていた。海辺の一等地にある、終末を過ごす人のための施設。その最上階に住む女は、今日も元気そうにジュンの剥いた林檎を食んでいる。「美味しい」
「それならよかったです」
フルーツナイフを女の手の届かない場所に置いて、ジュンも一切れ口に入れながら、何気なくテーブルを見る。歯磨きセットや見慣れない白いポーチが並ぶ横に、半分ほどしか減っていない日捲りカレンダーに書かれた「死ぬまであと×日!」の文字が、白い部屋の中でひと際色鮮やかに存在を主張していた。ハートやらうさぎのキャラクターやら、内容に見合わない明るいデコレーションが痛ましくも楽し気に踊っている。ジュンはいたたまれない心地がした。書いた張本人はジュンの視線の先に気が付いて、いたずらっぽく笑っている。
「なかなかかわいく書けてるでしょ」
「……悪趣味っすねぇ」
オレが毎日どんなことを思いながらここまで来ているのか、この人は分かっているのだろうか。あと何回生きたあんたに会えるのか、会話を交わせるのかという不安だとか、もしかしたら今日あんたの病気の特効薬が開発されたりしないかという叶うはずもない願望だとか、何度頭の中に浮かんでは消したかわからない感情を、あんたは一度でも想像したことがあるのだろうか。鼻歌を歌いながら林檎のもう一切れを口に入れ始めたところからすると、何も考えてはいないのだろうが。
ジュンは心の中でため息を吐いて、彼女に繋がれた線の数を見た。いち、に、さん…と数えるうちに、あれ、と今日入室した時から感じていた違和感が明確になる。
「点滴の数、減りました?」
「よくわかったね!二個減ったの。最近は容態が安定してるからってのと、どうせ助からないんだから過度に投与する方が身体に悪いからって。そのおかげかはわかんないけど、今日はすごく調子がいいの」
女は直射日光を知らない白く細い腕で、無い力こぶを作って見せた。たしかに何となく、いつもの人らしくない青白い肌が、今日は少しだけ血色良く見えた。
「容態もいい感じだし、やりたいことあったら好きにしていいって言われたんだあ。きっともうすぐ死ぬからさ。あのおじさんもたまには良いこと言うよね」
女はまたもやブラックジョークを口にしたが、ジュンは突っ込みきれない、とスルーした。
「へえ、いいじゃないすか。何がしたいんすか?オレに手伝えることがあるなら付き合いますよぉ」
「いいの?私、海に行きたい!」
「いいっすよ。流石に看護師さんとかに確認してからっすけど」
「ありがとー!」
女は子どもみたいに大袈裟に喜んだ。彼女は運動もできないし食事も少ないから身長も体重もあの日とほとんど変わらないが、ジュンがいない間は一人この部屋で本を読む生活を過ごしすぎたせいで、膨大な知識量に起因した捻くれた考え方が、その小さな体に植え付けられてしまっていた。しかしながら遠足前日の小学生のような邪気のない笑顔はまるで子供のようで、ジュンもからっとした表情で笑った。
「じゃあ、確認取ってきますね」
そう言ってジュンが立ち上がり部屋を後にしたとき、女は彼の出て行ったドアを見つめながら、「ごめんね」と呟いた。喜びに溢れていたはずの手を静かに下ろして、膝上で組み合わせる。病室に湿った風が入り込んだ。女はキャンバスに描いたかのように青い空と入道雲を見つめて、砂浜の感覚を夢想した。
×××
「いいわけないじゃないですか」
「は?」
話が違う。ジュンは耳を疑って、思わず呆気に取られた返事をした。看護師に許可をもらいに行ったら院長らしいおじさんが出てきたあたりから嫌な予感はしていたが、彼女への外出許可を許すつもりはないらしかった。
「あの子に繋がれてる機械も点滴もこれ以上は減らせません。もう後がない寿命を、少しだけ長くしているだけなんです。あの子に何を言われたのかは知りませんけど、こちらとしてはそんな許可をするわけにはいきません」
ジュンは途方に暮れたが、小さい声で「わかりました」とだけ答えて、ナースステーションを出ていった。混乱に揺れる瞳が綺麗に整備された病院内をぼんやりと映し出す。
あの人、嘘を吐いたのか?何のために。噓がばれるのに、どうして看護師に聞きに行くことを止めなかったんだ。海に行きたいって本当なのだろうか。いったい、何をしに?
聞き出したいことは探せば山ほどあったが、女のの病室のドアを再び開けたとき、その疑問を口にすることは敵わないことを理解せざるを得なかった。ベッドを半分起こして、現れたジュンの瞳を揺るぐことなく見つめる女の姿が、そこにはあった。
「なまえさ」
「ジュンくん」
震える声でジュンが名を呼ぶのを、女ははっきりした声色で止めた。感情の見えない表情がジュンをひどく不安にさせる。
「海に、連れてって」
それから女は淡々と、ジュンに準備物を告げた。包帯、ガーゼ、人体用のテープ、いざという時のために、ペンチ。機械を止めたら通知が行ってしまうから、電源を落とさないようにすること。月が沈んだような瞳が水面に浮かぶように揺れている。ジュンはその瞳から、目を離すことができなかった。
決行は今夜、暁頃。宿直の警備員が限界に近付く頃に、非常階段を使ってね。
ジュンは黙って聞いていた。メモは取っていないのに、不思議と全てが頭に入っていた。女が全てを言い終えた後ジュンはもう一度名を呼んだが、静かな瞳がそれ以上の言葉を許さなかった。
「待ってるから」
男をベッドに誘うときのような甘い声が、ジュンの脳内を支配した。ジュンの内部で何かがぶわりと沸き立って、全身の血液が逆流し始めたかのような熱の回りを感じる。小さかったはずの女が、急に大人びて見えた。どくどくと波打つ鼓動の中で、ああそうだ、自分はこの人に惚れているのだと思い出す。
ジュンがわななく唇で力なく了承すると、女は口の端で息を抜くように、美しく笑った。彼女の鈴蘭のような白い肌に日の暮れかかった空の色が混ざる。その薄肌がジュンの膝上の力の籠った拳をほどき、ありがとう、と消えるような声が鼓膜を微かにふるわしたとき、ジュンは確かに身体を硬らせた。
すっ、ちょきん、ぱちん。
女をベッドに縛りつけていた線を、ひとつひとつ、ジュンの手で切り断つ。自分にできる限り丁寧に針跡の処理を行う。鋏を持つ手はずっと震えていて上手く力が入らない。当然だが医師の免許など持っていないから女の腕や足は少量の血液で汚れていた。清潔なシーツにも紅が滲んでいるが、女は痛みを訴えるそぶりもなくジュンの手つきを楽しげに見つめている。右脚、左脚、右腕、左腕……胸元の最後の一つをなるべく見ないようにしながら外したのを確認して、女はジュンの肩に両腕を回した。ピーーー、という機械音が部屋の中に木霊して、彼女の鼓動を確める術が無くなる。そのことへの一瞬の不安は女の石鹸のようなやわらかな香りがジュンの鼻孔を擽ったのをきっかけに、消え去っていった。
「逃避行だ」
見つからないように静かに、けれども急いで非常階段を降りる。お姫様を運ぶ時のように抱いた女の身体は持っていることを忘れるほどに軽く、ジュンは女がこの世界に占める体積の小ささにぞっとした。地上まで降りて、仕事を放り出して眠りこけている門番の警備員を刺激しないように息をひそめながら、施設を抜け出す。それから細い裏路地を抜ければ、眼前にはあからみかけている空にその輪郭を描かせた海が広がっていた。女はジュンの首筋をつたう冷や汗を拭った。それから砂浜に自分を降ろすように指示して、人生で初めて、地上に降り立った。立つことに慣れていない足に目立つ新しい傷や青痣が痛ましい。女は数歩だけ自力で歩いたが、砂に足元を掬われて前のめりに転んだ。見かねて手を差し出すと、女は海の中へ入ろうと、ジュンを誘った。
「……風邪、引きますよ」
「ふふ、今更じゃないかな」
せめてもの保身は彼女のいたずらな言葉で一蹴され、ジュンは奥歯をぐっと噛みしめた。酷い顔をしていると、自分で嫌というほど理解している。
女の言うままにまたその細身の体を抱き上げて、海の中へと浸かっていく。最初は冷たさに身を震わせたが、脚、腰、腕、と沈んでいくほどに、あたたかさを感じた。暁の空に朝日がだんだんと存在感を増し、二人の影を色濃く水面に映し出す。女が「離して」と言った時、水位は女の背丈よりも高くなっていた。女はジュンの手で浮かされて、やっと息ができている。海水は傷に沁みていないだろうかとか、今頃病院で大事になってはいないだろうかとか、そういうことばかりがジュンの脳内を過る。しかし女は意識を飛ばす寸前のような蕩けた瞳で、煽情的にジュンを見据えた。
刹那、ジュンの瞳に涙が浮かぶ。突き刺すような心の痛みが、ジュンを鋭く貫いている。女は力なくその手を伸ばした。さっき冷や汗を拭おうとしたように、今度は彼の頬をつたう悲しみを拭うために。
しかしそれは、ぱちゃ、という軽い音を立てて潰えた。死体が海に背を向けて、ふわふわと浮かんでいる。ジュンはばらばらと海の一部を生み出しながら、愛する人を抱き締めた。
──死人の口は「あ」の形で固まっていた。