死灰
女にとって、生きて地獄を見たのはこれが二度目だった。忘れもしない光景、初めて抱いた憎悪、全身の血が沸騰するかのような感覚を、今でも覚えている。
敵の指揮官、全身真っ黒で、男なのか女なのかすら分からない、忌々しいあの死神。それは殺さねばならぬ仇であった。あれさえ殺せば、世の中も少しは変わるのだと、誰一人信じて疑わなかった。感染者にとっての救世主は、レユニオンにとっては恩讐の象徴でしかなかったのだ。
女の部隊は臨時で組まされた暗殺小隊で、相手の戦力を一人でも多く削ることを目的としていた。そんな部隊が敵の指揮官──ドクターの指揮する部隊と遭遇したのは、不運としか言いようのない不測の事態だった。
この戦、万が一にも勝機はないだろう。そんな負け戦に小隊全員の命が賭けられていた。レユニオンに撤退の二文字はない。どちらかの部隊が全滅するまで、血は流れ続ける。そんな戦場で、死体は果てどなく転がっていた。血生臭さと硝煙の入り混じった匂い。砂塵を吸い込んだ喉から、乾いた吐息が零れた。
「■■■!!」
吼えるように、女は叫んだ。嘆きのような怒りのような、そんな鋭い喚声を浴びたサルカズの男は、温度のない瞳で女を見下ろしていた。
──ああ、どうして!
「どうして、“そっち”にいるの!!」
女の叫びは虚しく木霊する。男の心には、何一つ響かないまま。
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「希死念慮とは人の願いの中でも最も幸福な願望だ」
茹だるような暑さの中で口火を切った男の言葉は、なんだか皮肉めいていた。この暑さに弱った女が冗談混じりに「死ぬ」なんて軽々しく口にしたせいかもしれない。少し萎縮した女だったが、男はそんな女に一瞥もくれず、ただ瓦解した戦場の風景を映していた。
「死とは絶望の淵だ。その瞬間が訪れた時、人としての尊厳は失われ、物乞いにも等しい存在へと成り下がる。そんなことも知らない奴らの曝す死に顔は、どれも同じような顔をしている」
男は立ち上がると、瓦礫と共に積み上がった死体の一部に、足を踏み入れた。腐敗したそれは、男の足をあっさりと受け入れた。ブチブチと、肉の千切れる音がする。あまり愉快な音ではない。その音に顰めた女の顔を、男が見ることはなかった。
「やはり、羸弱な相手を何人斬り捨てようが刀の錆にもならんな」
「そんなこと言って、その刀もそろそろ寿命じゃない?」
男の手には刃こぼれした刀が握られていた。どうやら、男の扱うアーツの炎と武器の相性はあまり良くないらしい。
「次の名前はどうするの」
それは何気ない問いだった。男には、武器から名を継承するという習わしがあった。そのため、刀が折れるたびに男も名を変えるのだ。何故、そうするのかは聞いたことがない。ただ、男の名は女が知り得る限り二度変わっていた。
「お前には関係ない」
素気無い返事だったが、女は気にも留めなかった。同じ軍隊に雇われている傭兵同士、契約が終われば次に合見えるのは戦場かもしれない。傭兵とはそういう職種だ。それでも、こうして言葉を交わしている間は、少しだけ許された気分になる。そんな女の甘ったれた思考は勘付かれてはいるのだろうが、それでも男が席を外すことはなく、それに女はまた愚かにも思い上がってしまうのだ。
だが、明日の戦場で契約は終わる。女が男の新たな名を知る機会はない。
──その筈だった。
場面は変わって戦場のど真ん中。血液、臓器、死、それらが一緒くたになった血溜まりの中で、女はひっそりと息をしていた。何故息があるのか不思議なくらいの傷を負いながらも、それでも女は事切れた同僚の死に顔を見つめ、ただ静かに、嵐が去るのを祈るようにして待っていた。
ふと女の脳裏には昨日の瓦解した戦場の光景が過ぎった。それと同時に、男に顔を踏み潰された死体を思い出す。立場、境遇、状況。昨日とは全てが逆だった。
最初のうちは威勢の良かった軍隊だったが、今ではその勢いもすっかり萎えてしまって、聞こえてくる物音といえば戦場の後処理に追われている敵部隊の音声のみである。同胞の死体に身を隠しながら、まだ鼓膜の破れていない右耳で勝者の音声を拾う。そんな気も狂わんばかりの状況で、女は早々に分かれてしまった男のことを考えていた。男は、敵の指揮官を殺すのだと小隊を引き連れて、ここよりも更に酷いキルゾーンへと向かっていったのだ。
男は強い、それに死ぬまで戦うほど殊勝な性格でもない。こんな負け戦、早々に見切りつけて離脱したはず。それを確かめる度胸もなければ体力もない女に出来ることは、ただただ男を信じて待ち続けることだった。そんな無力な女の前で、誰かが足を止めた。薄目を開けた女に確認できたのは、黒いブーツの先端のみだった。この戦場のどこを歩いてきたのかと尋ねたくなるほど、綺麗な靴と爪先だった。
「……ター……、ドクター!こんなところで何してるんですか?」
「ああ、いや、なに。少し散歩をね」
「なに悠長なことを……ここに生存者が残っていたらどうするつもりですか?」
「いないよ、そんなもの。もし仮に生存者が居たとしても、反撃できるような力は残っていない」
“ドクター”、それは敵の指揮官の名称だった。その名を聞いた刹那、カッと頭に血が昇る感覚がした。今すぐ飛び上がって殺してやりたい衝動を、女は必死で抑え込んだ。ここで挑みかかっても勝機はない。女は馬鹿だが愚かではなかった。また、女が自らの存在を死体と貶める限り、手を出さないと相手は言うのだ。プライドという犠牲を払ってでも、女は現状に甘えるしかなかった。そんな目の前の生きた死体に気付いているのかいないのか、判然としない態度で敵の指揮官は部下と会話を続けていた。
「なにを……さっきのサルカズの男を、もう忘れたんですか」
「そういえば、アレはなかなかにしぶとかったね」
たったそれだけの会話で、女は瞬時に理解する。女の中で、ピンと張っていた一本の線が切れた感覚がした。
「寸前の所で相手の刀が折れてくれて助かった。神は我々の味方だった、ということかな」
「あそこで刀が折れなくとも、他に手は打っていたのでしょう。今回も見事な指揮でした、ドクター」
殺してやる。それは女が初めて抱いた激情であった。信じたこともない神へ捧げた祈りはやはり無駄だった。ここからは、これからは、女の手で成さねばならない。最後に男と交わした会話をもう一度思い出す。
──希死念慮とは人の願いの中でも最も幸福な願望だ。
ああ、全くその通りである。
希望すら無いこの世界で、ただ死を待ち望むだけの自分には、もう戻れない。
この場から立ち去る靴音、この音をいつまでも覚えていようと思った。いつか必ずやってくる機会を胸に、今はただ、復讐の炎に薪を焼べるしかなかった。
あの日、誰よりも強かった男は戦場で死んだから、女に男の新たな名を知る機会はない、筈だった。
「エンカク!」
僅か数メートルの距離だった。伸ばした手は虚しく空を切り、そのまま叩きつけられるように身体が地に落ちた。咄嗟に顔を上げた女の瞳は激しい動揺で揺れていた。
敵の指揮官から発されたのは聞き覚えのない名前だったが、それに応えるように男は動いてみせた。
もう女は認めざるを得なかった。それがこの男の“今の名前”であることを。
「……どうして、」
どうしてあいつを、指揮官を、ドクターなどと呼んでいるの、あの男が私たちに何をしたのか、何を奪っていったのか、忘れたの、ねえ、答えて、■■■!
惨めに地を這いつくばる女を、エンカクは冷ややかに見下ろしていた。
「お前には理解できまい」
女は、これまで繋がっていた綱が切られたことを悟った。
「だが、お前の仇は俺が取る。約束しよう」
女が立てた誓いと似たような言葉を口にしながら、エンカクは刀を構える。まだ刃こぼれもしていない、美しくて、真っ黒な刀身。それを見た時、やはり男はあの戦場で死んでいたのだと思った。
「安心して、ここで死ね」
女にエンカクは殺せない。
それは殺す、殺さないの意思に関係なく、女の刃がエンカクの喉元まで届かないことを意味していた。
何か大きな目的が達成されたような心地で、死神の鎌がおろされるのを、女はただ首を擡げて待っている。