違背
審神者と鶴丸国永の関係が怪しい。その噂が大俱利伽羅の耳に入ってくるまでに、そう時間はかからなかった。彼らの主である審神者は女であり、彼女と大俱利伽羅はいわゆる恋仲と呼ばれる関係にある。この事実が周知のものであるからこそ、噂が広まるのは水が綿を湿らすように静かで速い。当初はくだらないと一蹴していた大俱利伽羅だったが、真偽を確かめたがる刀剣男士の声はもう無視できないところまできていた。そこへさらなる追い打ちをかけるように、いくつかの証言が上がったのである。
『鶴丸国永が、夜に審神者の部屋に入っていくところを見た。』
複数の刀剣男士によるこの内部告発は、大倶利伽羅にとって到底看過できるものではなかった。彼女の男としても刀としても主を疑いたくはないが、かと言って黙っていられるほど暢気な性格でもない。
穏やかな気性の審神者を問い詰めるのは気が引けるが、と首の後ろを摩りながら審神者の部屋の障子に手をかける。その拍子に、少しだけ開いた隙間から中の会話が聞こえてしまった。
「……伽羅坊にはどう説明するつもりなんだ」
「大倶利伽羅には黙ってて。きっと怒るから」
「ははは、そりゃ違いないな」
まるで密談でもするかのような、低い声だった。否、事実密談なのだろう。咄嗟に手を止めた大倶利伽羅は、静かにその手を下ろす。
『鶴丸国永と審神者の関係が怪しい。』
くだらないとあしらっていたその噂が頭の中を駆け巡り、堪らず拳を握りこんだ。そんなはずはない。鶴丸国永はそんな不義を働く刀ではないし、彼女に限って、不貞などありえない。
「それじゃ、これは俺たちだけの秘密ってことだ」
男として云々、というより先に、極の刀剣男士である大倶利伽羅には、主を疑うなど考えられもしないことである。それなのに、去り際鼓膜を掠めた鶴丸国永の囁くような声がいつまでも耳の奥で木霊していた。
大倶利伽羅の頭痛の種は、それ以外にも積み重なる一方であった。近侍に指名されることも多く、主からだけでなく刀剣たちからの信頼も厚い彼にとっては、今に始まったことではないが。
噂が浮上したのとちょうど同じ頃から、本丸には妙な空気が漂っている。瘴気とは少し違うが、それに似た不穏な空気。唯一の極の刀剣男士である大倶利伽羅は、その違和感を殊更に強く感じていた。
それの影響を受けてか、この頃は審神者の体も不調が続いていた。時折頭を押さえて悩ましげなため息を吐き出す彼女の顔色は、今日も芳しくない。何かの拍子にふらりと倒れてしまいそうな弱々しい肩を、大倶利伽羅は見ていられなくなった。
「おい。今日はもう休んだほうがいいんじゃないのか」
「平気だよ。もうちょっとだし」
「なら、残りは俺に任せてあんたは横になれ」
審神者は苦虫を噛み潰したような表情でしぶしぶと筆を置く。そのまま横になるかと思いきや、座ったままずりずりと移動して大倶利伽羅に凭れた。男の左腕に細腕を絡ませ、肩にこめかみをつけるようにして擦り寄る。大倶利伽羅は口を開きかけたが、左腕に縋り付く審神者の力が少し強くなったのを感じ取って口を噤んだ。
ちらりと審神者のほうを見れば、大倶利伽羅を見つめていたらしいその目と視線がぶつかった。どこか悲しげな色を湛えた瞳が欲するところを汲み取り、震える唇を己のそれで塞ぐ。小さな肩を抱くと、以前より痩せたせいで肌の下の骨が生々しく浮き出ていた。己の腕の中から簡単にすり抜けて消え去りそうな身体を、繋ぎ止めるように強く抱き締める。彼女の伏せられた眦の縁から、涙が零れ落ちたように見えた。
大倶利伽羅をはじめ刀たちの願いとは裏腹に、その後も体調が回復することはなかった。
近侍は鶴丸国永に固定されるようになり、私室に篭りがちになった審神者と刀との交流は次第に薄れていった。大俱利伽羅も例外ではない。修行から帰還して間もない大俱利伽羅は出陣部隊の中心であり、本丸に留まっている時間はそう長くないという現状も要因のひとつである。そんな中でも欠かすことなく審神者を訪ねる原動力として、愛情のほかに疑心と警戒の綯い交ぜになった薄暗い感情が含まれていることを、大俱利伽羅は否定できないと自覚していた。
「毎日来なくてもいいんだよ。疲れてるでしょう?」
「別に。そんなことを心配するよりも、あんたは自分の体調のことを考えろ」
布団を被った審神者が、こちらのことばかり心配して諭すのが、大倶利伽羅は気に食わなかった。青白い顔をして言ったところで説得力など欠片もない。わざといつもより素っ気なく答えた彼の腕を、審神者の細い手が縋るように掴んだ。弱い力を感じて咄嗟に視線を向けたが、大倶利伽羅はすぐにそれを後悔した。
「……病人を襲う趣味はない」
「そういうのはいいから。おねがい」
擦り切れそうな痛々しくも切ない声音でねだる審神者は、大倶利伽羅という男をよくわかっている。憎らしいほどに扇情的な女の手首を掴み、自己嫌悪と快楽にわななく唇をその白肌に這わせた。喉仏、鎖骨、胸元、と体温と骨のかたちと確かめるたび、不健康な冷たさと薄さに胸が痛む。呼吸の隙間に喘ぎ喘ぎ何度も大倶利伽羅を呼ぶその声が、呪いのように四肢にまとわりついていた。
「好きだよ」
「……ああ」
「どこにもいかないでね」
「俺には他に行くあてもない。無用な心配だ」
消え入りそうな声で「うん」と返した審神者は、大俱利伽羅の言葉を信じていないようだった。
しかし、どこにも行くなというのはこちらの台詞だ。いなくなってしまうことを恐れているのは大俱利伽羅のほうで、審神者が審神者である以上、彼女は自分の刀が離れていく心配などする必要もない。それなのにどうしようもなく怯えている審神者の首筋に歯を突き立てて嚙み痕を残しながら、傷の舐め合いをする獣のようだと頭の片隅で思った。
それから一週間と経たないうちに、審神者はとうとう私室から出てこなくなった。
審神者が刀たちに入室禁止と面会謝絶を言い渡したので、大俱利伽羅と鶴丸国永の二振りを除いては顔を見ることも叶わなくなってしまった。そればかりか、近頃は大俱利伽羅ですら入室を拒否される日が続いている。
会うことが許されずとも足繁く通い続けていた。報われてほしかったわけでないが、それをやめたら、審神者との糸が切れてしまうような気がしたのだ。
けれどその日、帰ってきたのは審神者の声ではなく、内番着姿の鶴丸国永の返事だった。
「悪いが、ここから先は通せないんだ」
「……どういうつもりだ」
「おいおい、そう殺気立つなよ。俺を睨んでもどうにもならないぜ。主がそう言ってるんでね」
ちらりと意味ありげに障子を見た鶴丸国永は、肩をすくめて口元だけで笑った。苛立ちが抑えきれずに舌打ちを浴びせても、鶴丸は表情を変えない。その不敵な笑みから優越感が滲んでいるように感じ取ったのは大俱利伽羅の考えすぎだっただろうか。
まさにその夜、大倶利伽羅に単騎での遠征任務が言い渡された。ここまでくると笑えるほど、明らかに審神者は大倶利伽羅を遠ざけようとしている。
帰ってきたら覚えておけ。大倶利伽羅はそう念じて本丸を発った。審神者に伝わっていようがいまいがどちらでもよい。遠征先での拾い物のついでに、小言を一つ二つくれてやろうと刀を握りなおした。
遠征は恙無く終わる。そのはずだった。
ピリ、と刀に触れた指先が痺れたような感覚。
それに警戒心を強めたのと同時に、携帯端末の合成音声が無機質に喋り始めた。
『異常事態発生を検知。強制帰還を開始します』
時空転送装置が光る。大倶利伽羅にしか聞こえないサイレンが鳴った。どこか懐かしい光と音は、まだ駆け出しだった頃に慣れない遠征で失敗したとき以来の光景だ。徐々に本丸に引き戻される感覚の中で真っ先に思い浮かべたのは、床に臥せっている彼女のことだった。
在りし日の審神者は、任務に失敗して帰還した大倶利伽羅たちを見て顔を青くしていた。当事者よりも取り乱している彼女を見て、逆に冷静になったのを覚えている。
遠征失敗。その文字列を引っ提げて帰還した大倶利伽羅を迎えたのは、不気味なほど静まり返った彼らの本丸だった。ぞっと背筋を這っていった寒気に嫌な予感がして、彼は急ぎ足で審神者のもとへ向かう。
普段ならば、厨や鍛錬所や中庭から、絶えず物音や話し声が聞こえてくるはずである。それが、今はひとつもない。ここのところ本丸に立ち込めていた妙な気配も消えている。焦燥感に駆られて殆ど蹴破るように審神者の部屋の障子を開いた。
「……何を、している」
「見てわかるだろ。斬ったんだ、主を」
ごとりと重い音を立てて刀を床に落とした鶴丸国永は、うつ伏せに倒れている『審神者だったもの』を抱き上げた。部屋の畳には飛び散った血がくっきりと模様を作り、そこから沸き立つ死の匂いが濃く充満している。鶴丸は自身の白い衣装がべったりと血に塗れるのも気にせず、敷かれていた布団に審神者を寝かせた。彼女の頬に触れる慎重な手つきに、大倶利伽羅は鶴丸の想いを嫌でも察してしまった。
「鶴丸国永が色恋で人斬りをする刀だったとはな」
「……あっはっは! こりゃ傑作だ」
「何が可笑しい」
「本当に覚えていないのかい? そいつは幸せだなぁ」
憐れむような口調で、鶴丸国永は事の顛末を語り出した。
事の発端はひと月ほど前の戦場。修行から帰還したばかりで器に慣れていなかった大倶利伽羅は、傷ついた他の刀を庇って──折れた。戦場から大倶利伽羅の残骸を持ち帰ったのは鶴丸国永だった。変わり果てた愛しい男のかけらを集めて、審神者は何日も泣いていたという。
だが事実、大倶利伽羅は今ここに生きている。なぜだかわかるかい、と試すような視線を寄越した鶴丸に、大倶利伽羅は何も答えられなかった。
「主が術を使ったからさ。この娘は自分の命と引き換えに、お前を生かしたんだ」
俺は、そんな馬鹿なことはやめろと言ったんだがなあ。
たわいない思い出話をするようにつらつらと語る鶴丸国永は、感情を持たない道具の目をしていた。
禁忌を犯した人間は、そう長くは生きられない。まして理に反して命に干渉したとなれば、その末路が悲惨なものになることは想像に容易い。鶴丸は緩和させるためのあらゆる方法を審神者に試したが、どれも大した効果はなかったという。
だから殺したのだ、と鶴丸国永は言った。その目には、相変わらず感情の波は見えない。
激しい情動に揺れる大倶利伽羅の琥珀と、静かに凪いだ鶴丸の黄水晶。薄暗い部屋の中で、似て非なる色の瞳が交錯する。先に逸らした大倶利伽羅は、床に落ちた鶴丸国永を拾い上げて彼に押し付けた。
「……殺せ。俺を殺せ。鶴丸」
殺せ。大俱利伽羅はその言葉を、込み上げて溢れ出すやるせなさに低く息を詰まらせながら繰り返す。絶望に膝を折った視界の端で、返り血で赤に染まった鶴丸の装束が揺れた。
主を殺したのは病でも鶴丸でもなく、俺だった。
状況証拠だけ見た第三者は、主殺しの汚名を鶴丸に着せるだろう。主が禁忌に手を染めたこともいずれ明らかになる。その未来で俺はどうなる。解かれて清められ、主の気配も術も消えてなくなるのだろう。その苦痛を味わうくらいならいっそここで、刀のまま死んだほうがマシだ。
鶴丸は倒れ伏した審神者の寝顔のような死に顔を見る大俱利伽羅を見下ろしていた。無機質な眼差しを暗い庭に向けて、耳障りな鎖の音を響かせながら着物の裾をさばく。
「それはできないな」
静かな声で呆気なく無下にして、ため息とも笑い声ともつかない息を漏らした。
「たとえ俺たち全員が刀解されたとしても、伽羅坊、お前だけには残ってもらうぜ」
鶴丸国永は夜の庭を見ながら、時折そよぐ風に揺れる草を目で追っていた。本丸がしんと静まり返っているのは、鶴丸と大倶利伽羅以外の刀は既に刀解されてしまったからかもしれない。そう気づいて目を見開いた大倶利伽羅を知ってか知らずか、鶴丸はしゃがんで似た色の瞳に視線を合わせ、少し目を細める。
「お前の想い、その存在が、主が生きた証だ。死にたくても死なせないさ」
不自然ほどつらつらと滑らかに言葉を紡ぐ鶴丸は、あっさりとした口調のまま続けた。
「物が壊れ、人間が死ぬのと同じように、刀だって折れるときゃ折れる。主はそれを受け入れられなかったんだ。自業自得だろ」
まったく、愚かだよなあ。
そう吐き捨てた鶴丸国永は、血まみれの手で顔を覆い、瞳を隠して自嘲するように笑った。