神の嫁
幼い頃の記憶。ただただ美しく大きく、冷たい印象の割に優しい方の腕に抱き上げられ、名を聞かれて答え、名を尋ねてマガラだと教えてもらい、最後には再会を約する。それが凡そ、最初の記憶ではなかろうかと私は辺りをつけている。三つ程の歳だったように思う。其れから、マガラと名乗った男に屡々会い、幼い少女だった私は初めて会った時から大好きになっていたマガラお兄さんと無防備に其れからの人生を左右する約束を交わした。
その瞬間は当然覚えている。その瞬間から私には真柄様の加護が与えられたのだから。幾度も重ねただけの掌から、既に思いの外馴染みつつあったらしい神気は無意識下での誓詞奏上により、魂にまで浸透した。
「夏海、これからその名ごと私のものぞ。別の名を……タツと名乗りなさい。お前は未だ幼い故に、親へ私が伝えておこう」
此れは真柄様なりの私を守る術だった。真名を秘す事は現代では少ないが、ゼロでは無い。次の日、真っ青な顔の両親に連れられて神社へ赴き、神職を前に両親は助けを求めた。困り顔の神職と両親を見比べた私は、この日、初めて口を開いた。
「私の事は、タツと呼んでください。真柄様と約束しました、夏海と言う名前は真柄様にしか呼ばせないと」
真柄様との約束と言う言葉に、ようやく神職は意味を理解したらしい。
「この事は人間には覆せません。既に神様の嫁として召し上げられると本人同士の約束が成されているのではないか、と」
「そんな、どうにもならないと?!」
「お母さん、私は真柄様が好きだから気にしないで。どうしてお母さんがなくの?」
それが更に母を泣かせるなんて思っていなかった。私は本当の事しか言っていないのに、と困惑した。
「なかないで、お母さん」
そう言うしかできなかった。
何となく、その母の気持ちが分かるようになったのは、初潮が来た十歳の時だった。所謂前世の記憶が薄っすらと蘇ったのだ。普通であれば薄れる筈のそれは日々、少しずつ思い出されていった。前世の私は、それなりに知識欲のある女だったらしく、神仏に対する知識や真柄様の知識もしっかりと刻まれていた。
前世の人格と言うのは邪魔をしないと言うより、既に生まれた時より私自身がほぼ同じ人格である為に、知識として役に立つ程度なのは煩わしくなくて良かった。
その知識では、神の眷属となるのは人間には相当な苦労と成り得ると言うことは分かった。けれど、それだけで母の嘆きは説明が付かない。考えてみて、何となく普通の人間としての生活が送れない事に対しての嘆きかと、思い至った。
けれど、神との約束は、何も知らなかったとは言え、結んだのだから、受け入れて当然だとするりと結論が出た。無知は罪とも言うのだ。
「夏海、迎えに来ましたよ」
一通り考えてから自室で星を見ていた私に、何時ものように声がかかる。この瞬間から、二人の居る場所は真柄様の領域となり、誰にも邪魔はされない。
「真柄様、私の記憶……」
「そうですよ。記憶が有れば、何度も学び直すなどせずとも良くなると、思いましてね」
何時もと同じ、けれど少し楽しげに見えるのは気の所為ではない。
「真柄様のお気持ちは、有り難いのですが、私がお仕えするにあたって、義務教育を終える必要が有るのです……以前もお伝えしたと、っ!」
すうっと、真柄様の目が細くなる。今まで隣に座って手を握っていた筈の掌が臍の下辺りに移動し、緩りと撫でた。
「既に子を成せる身体になった筈……現世の都合など、」
「…っ…!」
撫でているのは子宮の辺りだと気付いて、一気に顔が熱くなる。
「と言いたい程なのだけれど、お前の頼みなら……あと一度だけ待つとしましょう。可愛い顔も見れた」
薄っすらと笑う顔は美しい。けれど、その眼の金色は待ち切れないと言いたげに見えた。
「本当にお待たせするのは心苦しいのですけれど……八年後の春分、いいえ啓蟄の頃には必ず」
その言葉に少し気を良くしてくれたらしく、何時ものように抱き上げられ、ふわりと包み込まれる感覚がした。鋭さと暖かさの有る気が全身に染み渡る。
「良いでしょう。約束ですよ」
約束せずとも、これを破る気は毛頭ないが、こうした方が周りを納得させ易いと既に理解していた。
約束の時より三年前である、十五になる年の正月三が日が過ぎた夜の自室に、真柄様は姿を見せた。正月の挨拶に元旦には、こちらから必ず詣でるが、全てが済んだ三が日過ぎに、こうして共に過ごす時間を作ってくれる。
「夏海よ、私は今宵、欲しいものが有るのですよ。分かりますか?」
自室の畳に隣り合って座り、いつも通りに手を取られている状態で尋ねられた。
「ええと、何が御所望なのでしょうか?」
困惑が伝わったらしく、くつくつと笑い声がした。
「真柄様?」
笑っていた真柄様が耳元に顔を寄せた。
「もう十五だ。良いのではないかと考えていたのですよ。他には私の気が充分馴染んでいるけれど、此処にだけは、直接でなければ馴染まぬと、お前を見ていて分かりました。良いですね」
私が戸惑い、指先まで熱くなったのを感じ取った真柄様の掌が袷の裾に滑り込み、裾除けの上から腹を撫でた。
「え、あ、っ!」
戸惑うままに、部屋に敷いた布団に運ばれて長躯に組み敷かれ、吐息が首筋にかかる。
「真柄さま、あの、優しくお願いします」
吐息にぞくりと震えながら、やっと出した言葉に男神は色情を宿した眼で答えた。
「さて、其れは出来ますか分かりませんが、努力はしましょう」
きっと優しくしてくれていた。けれど初めての事ばかりで、頭が真っ白になって、ただ言葉にならない声が、水音が、空間を満たしていく。
「さあ、私の力を受け入れて下さい」
丹田に全身に御稜威が満たされ、ストンと有るべき場所に、ようやく戻されたかの様な安堵に私の魂は喜び震えていた。
「これで本当に私のものです……ようやく」
「審神者ですか、私が?あり得ないわ。お引き取り下さいませ」
幼き頃より浴び続けた真柄様の御稜威を、三年前から今まで以上に注がれて来た事で、既に神の眷属と化していた。それを審神者にとは、どう言う了見なのかと首を傾げた。
「いえ、待って下さい。タツさんには是非とも審神者となって頂きたい!」
政府の役人が二人、応接室で待っているからと両親に見送られて行ってみれば、こんな事になってしまった。
「私は、高校卒業後に一緒になると約束したお方が、」
「では、其の方との時間も設けます!」
何を言っているのだろう。人間同士の婚姻だろうと共に過ごすのが最低条件になる筈じゃあ無いのだろうか。
「話にならないわ。お帰りになって」
極力、穏やかな対応をしようとするのだが、彼らの言う事がズレ過ぎていて段々と苛立ち始めている事に気付いてはいた。けれど、それを抑えようとするが故に身体に魂に馴染んだ気が薄っすらと漏れ出ている事にまでは気付いていなかった。
「お、お怒りはごもっともですけど、これでも譲歩してるんですよ。あなたの霊力の高さに政府も注目しているんです!」
霊力と言われて、ふと気が漏れていると気付き抑える事で、少し冷静になった。しかし、コレが霊力に感じるのかは疑問に思った。
「ふうん、霊力ねえ。私に其れが有ったとて、協力は出来ません」
分かっていない風の役人に教えてやる義理は無い。
「さあ、お帰り下さい」
「待って下さい!その結婚の約束した人も一緒に話を聞いてもらうと言うのは、どうですか?」
聞いたから何になると言うのだろう。別れてくれと言うのだろうか……そんな事を易々と受け入れる者は、そう多くはないだろう。
「はあ……あちらがあなた方との対話を望まれる場合には御出でになるでしょう。話しをしてきます」
目を閉じて真柄様に呼び掛ける。
ーーどうしました、夏海。
ーー真柄様、政府の役人が私に審神者に成れと言うのです。
ーーお前が審神者?何を考えているのでしょうね。
ーー詳しい説明もないのです。ただ、刀剣について詳しいと、より良いとか。
ーーおや、もしかしたら私が既に協力している事かもしれませんよ。直ぐに向かいましょう。
目を開ければ、驚いた顔の政府の役人と真柄様の気配が右隣りに有った。
「私と契りを交わした娘を、何処に連れて行くおつもりか」
「あ、あなたは太郎太刀様?!」
「私の分霊達をあなた方には貸していますね。この娘は、本霊である私の妻となる約束の娘……言いたい事がお分かりでしょうか」
まるで理解していないらしい政府の役人に真柄様は、溜め息を吐いた。
「全く……この娘は天上へ連れて行くと決めている、私の眷属なのですよ」
そこまで言っても良く分かっていない役人に、お帰り頂いて三日後の朝の事だった。
「夏海、夏海、迎えに来ましたよ」
いつも通りに過ごしていた私は急な真柄様の訪れに驚いて首を傾げた。
「少し早く有りませんか?」
同じ様に首を傾げた真柄様が私の手を取った。
「そうでしょうか。しかし大急ぎで受け入れる準備を整えて来たのですよ。後は貴女だけ」
啓蟄と言えなくもない頃では有る。私は高校も卒業して直ぐで春休みに入り、嫁入りの為に準備の仕上げを始めた頃だった。
「急いで仕上げて参ります!」
本来行う予定の半分以下になる最低限の準備に奔走した。
幸い、三年前に契りを交わして以降、月の物は一度も来ていない為に動き易さは段違いだった。既に人の身体では無くなっていると言う事なのだろう。
禊も最後に行おうとして、真柄様に止められた。
「おや、既に必要無いでしょう。私の気が、こんなにも馴染んでいるのですよ」
真柄様が言うのだから、そうなのだろうと禊は取止め、真柄様に頂いた反物で手縫いした新たな小袖に袴で、ほんの少しの手荷物を持った。
「真柄様、挨拶も済ませました。参ります……漸くですね」
「ええ、本当に待ち遠しく思っていましたよ。さあ、夏海……行きましょう」
この日を境に、夏海は天上の者となった。