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※マイナスより

 病院のベッドで目覚めた時、真っ先に目に入ったのは黒髪の男性だった。私は豪華すぎるほどの個室にいたのだ。彼のお目当ては私だったのだろうが、彼はどう見ても私ではない誰かを見ているようだった。

「僕のこと、わかる?」

 私が首を振る。冷たいリノリウムの床に彼の靴音が響く。私は彼に殺されてしまうのではないかと思った。それか、熱烈な抱擁やキスを受けるのではないかと思った。

 私の予感は間違いではなかったのだ。彼は、私が暗殺者であること、同じく暗殺者である彼らと任務にあたっている内に事故に遭ったこと、同じく被害を受けた赤尾という人は消えてしまったことを話した。それから、私達が付き合っていたことも。

 彼――南雲さんは、私のことを殺しも抱きしめもしなかった。ただ吸い込まれてしまいそうな闇を目にたたえ、私に私ではない何かを見ようとしていた。記憶を失っても付き合い続けようという話は出なかったけれど、南雲さんがあまりにも熱心に世話を焼くものだから付き合っているのだと思っていた。

「そうでしょう、私達」

 退院して数か月が経った後、付き合っているだろうと言えば南雲さんは目を丸くした。付き合っていない成人の男女が何回も二人きりで会う方がおかしいのだ。

「そうだね」

 南雲さんは笑って、背筋を丸めた。

 付き合っていると名言したのは私だけれど、この交際が南雲さんのためだということはなんとなく察していた。南雲さんは私を求めている。記憶を失った私ではなく、記憶のある私を。空の器になった私を抜け殻だけでも離すまいとしている。そのことに気付いたら、簡単に付き合うなど言うべきではなかったと思った。けれどもう遅かった。南雲さんは私を支柱にしていた。私を愛することで、自分が正しい証明をしているみたいだった。

 その歪に南雲さんも気付いていたのだろう。南雲さんはいつも葛藤していた。おかしいとわかっているけれど、私を手中から離すことはできない、そんな雰囲気が見て取れた。南雲さんは戦っていたのだ。大人であろうとする自分と。素直でありたい自分と。一年近くの交際を終え、指一本すら触れないまま南雲さんは私を振り返った。冬の路上で、辺りにはすれ違う人が何人かいた。南雲さんは記憶をなくして入院していた時の私より脆く、儚げに見えた。

「もう大丈夫だから。僕と違う道を進んでいいんだ」

 南雲さんの表情には、葛藤を乗り越えた人間特有の強さと美しさがあった。私は南雲さんを苦しめていたことに切なくなった。寂しくなった。それが南雲さんと付き合っていたという記憶を取り戻したからなのかわからない。そうでないなら、別れの場で寂しい表情などするべきではない。なのに、私は喪失感を浮かべていた。ずるいとわかっていても、我慢できなかった。南雲さんもまた切ない表情をしていた。私の記憶がないまま南雲さんとの別れを寂しいと思っていても、それを伝えたら南雲さんの葛藤は無駄になってしまう。私達は寂しさを抱えたまま別れた。二人で寄せ合っては絶対に交わらない寂しさだった。南雲さんは最後に手を振って、次の瞬間には消えていた。