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「なあ聞いた? 日向に彼女ができたって話」
「何ですか、それ」

 菅原さんから振ら言われた話に、俺は素直に驚いた。日向からそんな話を聞いたことがなかったからだ。菅原さんに呼び止められ、日向は得意げな顔をしてみせた。

「そうなんですよね……へへ、最近」

 事実だったのだ。俺の体に衝撃が走る。精神年齢子供の日向ならば自慢して回りそうなものだが、あまり言いふらさないのがまた俺の心を抉る。別に彼女が欲しいと思っているわけではない。しかし、日向に彼女ができたという事実が、俺を置いてけぼりにしたように感じるのだった。

「悪いねえ、影山君」

 日向がこちらに笑ってみせる。その瞬間、俺の闘争心が燃えた。俺も絶対に彼女を作る。

 決断した俺の行動は素早かった。彼女が一人でいるところを見計らい、早口に頭を下げる。

「俺と付き合ってください!」

 彼女――苗字さんは目を瞬いた後、「男女のお付き合いってことだよね?」と言った。

「はい」

 俺は苗字さんに抜けている奴と思われているようだから、少女漫画にありがちなミスを防いだのだろう。俺がしたいのは百パーセント恋愛のお付き合いである。苗字さんは少し考えた素振りを見せた後、「いいよ」と笑った。これで俺にも彼女ができた。

 日向がアピールしてこなかった手前、自分から言うのは憚られる。俺は部活で普通に過ごした。だが廊下を通った際に視線を感じたり、クラスの女子が俺の名前を出して噂しているのを聞いたことがある。概ね計画通りだ。日向は気付いているのかいないのか、俺に対して何も言ってくることはなかった。

 そんな中、田中さんが下品な表情で日向に絡んだ。

「お前この間のオフ駅前でデートしてただろ? 俺偶然見たんだ」
「た、田中さん見てたんですか!」

 俺は思わず振り返る。日向に追いついたと思ったら、また突き放された。俺達は付き合ったとは名ばかりで、友人の延長のような関係性が続いている。強いて言えば苗字さんからよく連絡が来るようになったくらいだろうか。日向は女子とデートしたことがあるのに俺はないなんて、恥ずかしくて先輩達に言えたものではない。

 俺は次のオフに苗字さんを駅前に誘った。日向と同じ場所なのは癪だが、この辺りのデートスポットの定番は駅前だと聞いたことがある。苗字さんは可愛らしい服装で待ち合わせ場所に現れた。その瞬間に、デートをすることばかりに気を取られて何をするか何も考えていなかったことに思い当たる。俺は苗字さんを楽しませることができなかったのだろう。苗字さんは、「こんなちゃんとした所来なくても、私は影山君となら坂ノ下で肉まん食べるだけでも楽しいんだよ」と笑った。その健気とも言える言葉に、俺の胸が音を立てた。

 日向と彼女の付き合いは順調であるらしかった。先輩達に聞かれると、日向は照れながらも答えていた。俺も彼女がいるのに俺には聞いてこないのは、中学生のような付き合いだと思われているからなのだろうか。詮索されても煩わしいだけなので別にいいけれど、日向に張り合う場がないのは少し物足りない。先輩達がやけに盛り上がっていると思ったら、日向は赤い顔で白状した。

「その……キス、しました」

 部室が揺れそうなくらいの歓声が響き渡る。白熱する先輩達とは対照的に、俺の心は静まり返っていた。遂に、そこまで来たのか。勿論俺も日向に追いつかなくてはならない。翌日の放課後、部活に行こうとする苗字さんを呼び止め、俺は人気のない場所に連れ込んだ。

「キスしましょう」

 苗字さんは驚いたように目を瞠ったが、考え込むように視線を斜め下に落とした。

「それはやめよう。初めては好きな人とした方がいいよ」

 まさか断られるとは思っていなかったので、俺は呆然とした。そもそも俺は何故苗字さんは断らないと思っていたのだろう。苗字さんは俺のことが好きであると勝手に決めつけていなかったか?

「影山君、私のこと好きじゃないんでしょ」

 俺達二人の破滅の危機だとわかっているのに、何も言葉が出てこない。図星だった。俺達は好きだから付き合ったわけではない。日向に対抗したくて、苗字さんを使ったのだ。
 しばらく沈黙が続き、俺達は目を合わせなくなった。部活開始の時間までまだある。俺はふと浮かび上がった疑問を口にした。

「初めては好きな人とした方がいいって、苗字さんの初めては好きな人としたんスか」

 純粋な興味だった。俺がファーストキスを済ませていないのは見抜かれている通りだが、苗字さんは俺より上のステージにいるような言い方だ。苗字さんは恥ずかしそうに、「うん」と頷いた。

「そっスか……」

 どうしてか今、胸の辺りに不快感を覚えた。誰とも付き合ったことがない人がこんな私利私欲にまみれた男に付き合ったりしないだろう。付き合っていれば当然触れ合いもするだろう。わかっているのに、苗字さんが穢れた気がして苛立たしい。

 苗字さんが顔を上げる。次はきっと別れ話が来てしまう。そう思った俺は、咄嗟に詭弁を探した。

「好き同士じゃなきゃ付き合っちゃいけないんですか」

 苗字さんは目を瞬いている。付き合ってほしいと言った時から、苗字さんは俺のお願いに弱い。あと一歩で押し通せる。

「俺は苗字さんと付き合いたいと思ってます。日向に対抗したいとか抜きで、苗字さんを俺のものにしたいと思ってます。これでもまだ駄目ですか」

 苗字さんは呆然とした後、クスクスと笑い出した。俺は真剣なのに、何がそんなに面白いのだろうか。

「影山君、それじゃあ私のこと好きって言ってるみたいだよ」

 今度は俺が呆然とする番だった。好きではなかったのではなくて、好きという感情を知らなかっただけなのか。難しいことはわからないけれど、「好き」を教えてくれたのが苗字さんでよかったと思った。