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ある晩のことだ。いつものように南雲は名前の家へ入った。今日もしっかり施錠されていることに安堵しながら、簡単に鍵を開ける。南雲を見て満開の笑顔を咲かせるかと思われた名前の顔は、しかし下を向いていた。もしかしたら、泣いているのではないか。
「名前ちゃん?」
南雲はそっと声をかけた。名前の隣に歩み寄り、しゃがむ。家具の高さも名前自身の座高も低い名前の部屋で、大柄な南雲だけが妙に浮いていた。
「どうしたの? 何か嫌なことでもあった?」
僕でよければ聞くよ、と言うと、名前は震える口を開いた。南雲の頭には様々な可能性がよぎる。南雲と一緒にいることで後ろ暗い人間から目をつけられ、拷問にかけられた可能性もある。今いるということは命は無事だろうが、名前の心は傷ついている。命があればいい、と簡単に言っていい問題ではない。
「今日、仕事で失敗して……それを辛いって隣の人にこぼしたら、俺の方が辛いって言われたの。たったそれだけなのにね」
何で泣いてしまうのだろうと言いながら名前は涙を流した。南雲の想定していたような、殺し屋絡みの問題ではない。だからと言っていいわけではない。南雲が求めているのは、名前の笑顔だ。
「辛かったね。名前ちゃん。よく頑張ったね」
南雲はしゃがんだまま名前を抱きしめた。南雲の大きな体に包まれて、名前の心は安らいでいく。そのまま泣き疲れたかのように眠ってしまった名前を、南雲はそっとベッドに横たえた。
「よし」
ずっとそばにいてもいい。でも南雲にはやるべきことがあった。
名前の口にした情報から同僚の男を特定し、住所を調べる。ORDERの手にかかれば簡単だ。最後にそっと名前を見てから、名前の部屋を後にする。優しい気持ちでいられるのはこれまでだ。南雲はネクタイを締め直し、名前の同僚の元へ向かった。
「こんばんは」
部屋の中に急に現れた南雲に、同僚は驚いた顔を見せる。
「お前……なっ……どこから」
随分困惑した様子だ。それもそうだろう。彼は下手したらORDERどころか殺し屋の存在すら知らない。南雲は構わずに、素手で男を殴りつけた。怒りは十分にあるが、感情に任せて殴っては殺してしまうため力をセーブする必要がある。そのため、南雲は笑みを浮かべながら男を殴り続けるというなんとも奇妙な構図になっていた。
「あー、殺さないようにするって難しいな」
「がっ! な、何で……」
名前の同僚は何故殴られているのかわからないことだろう。だがそれは知らなくていい。同僚の方から名前に話がいったら、名前は南雲が何かしたと察する。名前はきっとこの仕打ちを喜ばない。これは、南雲の独善的な行動だ。
「そろそろいいかな? これで本当に『より辛く』なったね」
南雲はにっこりと笑った。誰より、とは言わなかったので名前のことだとは気付かないことだろう。人には推し量れない感情でマウントをとる男を、本当に名前より辛い目に遭わせてやっただけだ。
南雲は男の部屋から出て、扉も開け放ったまま夜空を見上げた。これから強盗か何かが名前の同僚の部屋に入ろうと、南雲の知ったことではない。その時こそ本当に、彼が望んでいる通り誰にも負けないくらいの辛さが手に入るだろう。
「あー、名前ちゃんに会いたい」
南雲は伸びをして、今さっき顔を見たばかりの名前のことを思った。やはり、今日は朝まで隣についていることにする。傷ついた名前を一人にするのは、あまりにも可哀想だから。
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