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※Twitter用・pixiv用の書き下ろしで一話ごとに区切っていないので一ページに全文載せています。

 私が目覚めて一番に目に入ったのは、綺麗な白髪と透き通った青の瞳だった。
「あ、起きた? 俺のことわかる?」
 当然ながら、それほど美しい人のことは知らない。ついでに言えば、何故私が病院のような場所にいるのかもわからない。私が黙って首を振ると、その人は驚く気配もなく傍らの椅子に座った。
「だよなぁ。記憶なくなったんだよな、オマエ」
 この人は何故、私が記憶をなくしたことを私より先に知っているのだろう。そして、記憶をなくした知り合いにかける視線としてはいささか普通すぎる気がする。仮に彼と私が友人か何かで、私が記憶をなくしたのなら、もっと心配すべきだ。それとも、彼は元からこういう人物なのだろうか。知りたい、と思ったのは、記憶をなくす前の私が彼の中にしか眠っていないからだ。私は、彼を媒介にして以前の自分を見つけるしかないのだ。病室に彼以外の親も友達もいない状況では、そう考えるほかなかった。
「あなたは誰なんですか?」
「俺? 五条悟。オマエの彼氏」
 彼――五条悟は、私の友達などではなかった。彼は、私の恋人だったのだ。

 医師が訪れて簡単な検査を受けてから、私は数日の入院を言い渡された。その間五条悟は面会時間の限り病室に居続け、彼と彼がいる世界について教えてくれた。この世には呪霊があり、それを祓っているのが彼ら呪術師らしい。そして五条悟はその中でも飛び抜けた天才らしい。彼が自分を紹介する言葉はまるで第三者が英雄伝説を語るような口調で、ほぼ間違いなく盛っているのだろうと思った。
「その目、信じてないだろ。今すぐ力見せてやってもいいけど、病室壊しちゃうからなー」
 そういう言葉もまた、彼が自分をよく見せるための一つなのだろうと思っていた。だが私が退院した直後に、駐車場に転がっていた空き缶を手も使わずにひねりつぶしたのを見て、五条悟の言っていることは本当なのだと思った。少なくとも彼に強い力があることは明らかだ。呪術界の中でも一番とか、呪霊がいるというのは信じられないけれど。
「これからどうする?」
 駐車場を歩きながら、五条悟は何ともなく呟いた。どうするも何も、私には五条悟以外の身寄りはない。五条悟と一緒に、記憶を取り戻していくしかないのだ。
「元の私を、知りたい」
 私がそう言うと、「よしきた」と五条悟は駅の方へ向かって歩き出した。私の腕は彼によって掴まれ、彼によって引かれていた。少し強い力と、歩くペースをまるで揃えない様子に意外と女性経験はないのかもしれないと思った。そもそも私は、五条悟が私と同い歳かどうかすら知らない。
「オマエと俺は学校のそばで出会ったんだよ。俺達の学校が高専なのは言ったよな。その近くでオマエがふらふらしてたから、子供が迷子になってるのかと思って声をかけたのが始まり。オマエは俺達と違って呪術師じゃなかったよ。高専の知り合いも俺しかいないみたいだったし」
「……私がふらふらと?」
「まあよくある家出ってやつじゃね。俺が少し面倒見てやった」
 とは言うが、彼の話が本当ならば五条悟も相当な世間知らずのはずだ。何せ、彼は五条家という名家の跡取りと言っていたのだから。家出少女を連れてファミレスに入る、というような行動をとれるかどうかはわからない。ファミレスでの注文の仕方を知っているのかどうかも怪しい。まさか家に連れ込んでいないだろうなと五条悟から距離を取ると、何を考えてるのか伝わったらしく怪訝な顔をされた。
「俺はその時オマエに手出してねーから」
「その時」というのが妙にひっかかる。まあ、恋人と言われた時から五条悟と触れ合っていたのだろうとはなんとなく思っていた。だが、いざこの美丈夫を前にするとそれと睦み合っている自分が想像できない。恥じらう自分を想像して、勝手に気持ち悪くなる。
「さ、電車乗んぞ」
 五条悟は長い手足を持て余して電車に乗り、下り方面に向かった。私は窓の外の景色を見ながら、段々海に近付いていっていることを察した。海が私に、何か関係あるのだろうか。窓の外を眺めていると、それまで黙っていた五条悟が口を開いた。
「俺達が今まで行ったデート先辿れば何か思い出すかもだろ。それくらいしか現状あてはないし」
 五条悟がそう言うのならば、その通りなのだろう。私は電車に揺られ、神奈川の海に出た。海開きシーズンはもうすぐ終わりで、海水浴客はまばらにしかいなかった。五条悟の真っ黒な制服は着ていて暑くないのかと思わず尋ねたくなる。五条悟のことばかり考えていたから、不意に振り向かれて唇を噛んだ。
「どう? 思い出した?」
「まだ」
 ここで五条悟が、「なら当時したことをしてみようぜ」と言い出したらどうなるのだろう。それで過去の私達がキスなどをしていたら、私はここで、実質知り合って数日の五条悟とキスをすることになるのかもしれない。変に緊張しながら五条悟の言葉を待つと、彼は「そっか」と言ったきりだった。やけに他人事というか、私が記憶を思い出さなくてもどうでもいいような言い方だ。
 じとりと五条悟を見ていると、五条悟は海岸線に沿って歩き始めた。私も一緒に着いていく。時折波で靴が濡れそうになるのを慌てて避けるが、五条悟はそんなの気にもしていなかった。それなのに、彼の靴は濡れていなかった。
「前にもこうしてたの?」
「別に」
「じゃあ何で今こうしてるの」
「折角海来たんだからいいだろ」
 これではまるで新しくデートをしているようだと思ったが、それは言わないでおいた。私達は無言のまま百メートル近くを歩き、また折り返した。記憶の収穫はないまま、私は帰りの電車に乗った。
「私って帰る家はあるの?」
 そもそも、私に帰る場所があるのか。五条悟は家出少女のようだったと言っているし、病室に家族は来なかった。学生寮で暮らす五条悟の部屋に転がり込むのも避けたい。ホームレスを覚悟していると、五条悟は携帯を操作しながらあっけらかんと言い放った。
「あるよ。部屋の一つくらい借りられるだろ、俺だし」
 どうやら私は五条悟に相当お世話になっていたらしい。「俺だし」という言い方が鼻につくが、五条悟がいなければ私はただのホームレスだ。病院から数駅離れた、高専の最寄り駅だという駅に着いた後、五条悟は新築のアパートの一室を案内した。そこには衣服や食べ物が揃っており、当分の間生活することはできそうだ。記憶がある時の私は五条悟の彼女だったので世話をかけていてもそれほど罪悪感はなかったのかもしれないが、記憶がないのに衣食住の面倒を見てもらうのは流石に悪い。
「できるだけ早く思い出すね」
 そう言って水回りを確かめていると、我が物顔でソファにどっかりと座る五条悟と目が合った。五条悟は私の家をたまり場のように使っていたようだ。案外、気にしなくてもいいのかもしれない。

 自分の部屋で過ごす一晩目はあまり落ち着かなかったが、朝起きて支度を終えた頃五条悟が勝手に部屋に入ってきた。当たり前と言えばそうなのだが、合鍵を持っているようだ。
「今日は別のデート場所行くぞ。水族館」
 私はその名を聞いた途端に心が沸き立っていた。記憶を思い出さなくてはいけないということも忘れ、五条悟と一緒に水族館に赴く。一緒に電車に乗る姿も、展示を見ては笑い合う姿も、とても片方が記憶喪失になった元恋人には見えなかったと思う。私達は、片方の記憶がなくても上手くやっていけるくらい性格が合っていたのだろうか。思い出すためにやってきたことを忘れそうになって、私は慌てて気を引き締める。
「早く思い出さないとね、あなたにも悪いから」
 そう言った時、横で五条悟が「思い出さなくていいよ」と言った。相変わらず目は水槽に向けられたままで、館内の青い照明が五条悟を照らして、なんだか別の世界の出来事のように思えた。五条悟の美貌が余計にそうさせるのだろう。今まで、五条悟は私が記憶を思い出さなくてもどうでもいいのだろうと思っていたが、今回の発言は恋人なのだから気負わず、迷惑をかけていいという意味なのかもしれない。五条悟は、それくらい気遣いのできる人間なのだ。五条悟から過去の私を見つけなければいけないのに、気付けば五条悟のことばかり見てしまっている。
 照明に照らされて儚げになっている五条悟が鼻についたので、イルカショーを観に行ってずぶ濡れになってもらうことにした。私は当初の予定通りずぶ濡れになったが、五条悟はさらさらと乾いていた。驚く私に、五条悟が口角を上げる。
「これが呪術だよ」
 その時の私の心情は、多分初めて五条悟に出会って呪術を見せられた時と同じようなものだったと思う。多分、何回記憶をなくして五条悟に出会っても、五条悟の凄さを前にすると同じ感情を抱くのだ。五条悟が病室で語ってみせた自分の凄さは、案外本物だったのだろう。

 それから私は様々な所へ連れ出された。プラネタリウム、映画館、動物園。街喫茶でただクリームソーダを飲んだだけの時もある。ただどの「デート」の時も高専や私のアパートからは遠く離れていて、五条悟は付き合っている時毎度私を楽しませようとしてくれたのだろうと感じた。何度デートに行っても私が記憶を思い出すことはなく、それどころか純粋に五条悟とのお出かけを楽しむようになっている。これではいけない、と思うのに、記憶を失った私の世界には五条悟しかいないのだ。今ひまわり畑で前を歩く背中が大きく、眩しい。
「ごめんね、記憶を思い出せなくて」
 五条悟が凄腕の呪術師だと言うなら多忙なのだろう。時間を割いて元恋人に尽くしても、私はちっとも記憶を思い出さない。元の関係には戻れない。私はいつか五条悟が諦めをつけるのではないかと、怖くなっていた。しかし五条悟は、太陽から私を隠すように私の頭に手を置いた。
「思い出さなくていいって言ってんだろ」
 じんわりと、五条悟の優しさが染みる。最初は、私が記憶を思い出そうが思い出すまいがどうでもいいのだろうと思っていた。次は、五条悟に迷惑をかけることを気にして無理しなくていいという意味だと思っていた。けれど今の発言は、同じ言葉でありながら私の全てを抱擁してくれるようだった。記憶を思い出さなくても、五条悟は私への感情を変えない。私は強く温かい何かに包まれている気になった。
「写真でも撮るか。ほら、笑えよ」
 五条悟が携帯を構えて、インカメラで撮る。酷く角度のついた写真の中で私はぎこちなく笑っていた。
「っとメール……」
 急に五条悟にメールが来たらしい。五条悟は携帯を弄っている。私が横で大人しくしていたある時、我に返ったかのように五条悟は携帯を閉じた。
「いいの?」
「いや、何でもない」
 五条悟らしくない不審さだ。私に隠れて誰かと恋仲であるというような感じでもない。五条悟が私に向ける思いは、誠実でひたむきだった。では、何だったのだろう。まるで撮った写真をメールで相手にも送るような仕草に思えたけれど、私は携帯を持っていない。持っていたら、連絡先やメール履歴から少しは記憶の欠片を掴めただろう。
「さ、帰ろうぜ」
 土の道を歩く五条悟の背は、どのひまわりよりも高かった。

 その晩、家に着いて私は五条悟が忘れ物をしたことに気付いた。ただの小物ならまだしも、学生証だ。確実に届けないと困る。五条悟は私の家に頻繁に来るからいずれ取りに来ることも可能だろうけれど、五条悟の話では彼は日本中を飛び回っているらしい。出先で学生証がないのは、かなりまずい。
 アパートは五条悟の言う通り高専から近かったし、駅の案内を見れば高専がどこにあるかは理解できた。地図を辿って道を進むと、木が鬱蒼と茂る学校が見えてくる。私は、着いてからのことを全く考えていなかったことに気付いた。高専に来たところで、五条悟にすぐ会えるとは限らない。授業や任務に出ている可能性の方が高いのだ。とりあえず事務室に行って、忘れ物ですと渡せばいいだろう。
 高専の敷地内に入って事務室を探していた時、五条悟と同じ制服を着た人と目が合った。五条悟と同じくらいの長身で、綺麗な黒髪をしている。前髪の流し方が特徴的だ。
「君は関係者かい? どうしてここに?」
 彼の口調は優しいが、部外者を疑われていることには違いない。私は慌てて五条悟の学生証を出し、彼に見せた。
「忘れ物を届けに……」
 彼は学生証に視線を落とし、呆れたような表情をする。
「これはどうもありがとう。私が届けておくよ。疑ってしまってすまないね」
「いえ……」
 五条悟の学生証を返す任務は達成できた。でも、それだけで終わっていいのだろうかと思う。五条悟の優しさや愛に甘えてばかりではいけない。私も積極的に、過去の自分を探すのだ。
「私、五条悟の彼女なんです」
 堰を切ったように話し始めた私を、彼が驚いたように見ている。五条悟はあの見た目なのだから彼女を自称するような人がいてもおかしくないし、私は今そういう人に見えているのだろう。恥は承知の上で、前に進もうとする。
「前まで五条悟と付き合っていたけど、私が記憶をなくしてしまって……それで、私は過去の記憶を探しに五条悟と一緒に色んな所に出掛けてるんです。あなたは何か知りませんか。私のことを」
 彼は立ち止まり、深く考えるように口に手を当てた。それから顔を上げ、私に問う。辺りに緑が多いからか、さらさらという風の音が響いていた。
「出掛けていたというのは、どこへ?」
 何故そんなことを気にするのだろうと思いながら、私は答える。
「海とか、水族館とか、ひまわり畑とか……他にも色々」
 私は自分の過去が歩み寄ってくるのを感じた。この先で、私は何かを知る。けれどそれがどうもよくないもののような気配がしていた。必死にその気配に見ないふりをして、彼を見つめる。彼は落ち着き払っていて、でもどこかに疑いをにじませていた。
「私は悟の親友だ。だけど、私の知っている限り悟に彼女はいなかった」
「そんな……」
 五条悟は嘘をついていたというのか。一体何のために。五条悟のどこからどこまでが本当で嘘なのか、わからなくなる。
「ただ悟には好きな人がいてね。今君が言った場所は、全部悟がその人と行きたいと言っていた場所だよ。関係ない話かもしれないけれど、ある日悟は人の記憶を消す呪術を知った。その後どこかに出掛けて、帰ってきた後に携帯を一台茂みに捨てていた。そう、ちょうどあの辺り」
 私は震える足で茂みに近付いた。ストラップのついた携帯電話が一つ、捨てられたままだった。恐る恐るボタンを押すと、まだ電源がつく。一連の出来事の真相が私にもわかっていたはずなのに、答え合わせをするのが怖い。
「もうすぐ悟が帰ってくる。もう帰るといい」
 それはまるで、早く逃げろと急かすような言い方だった。私は携帯を握りしめたまま走って高専を出た。その後どうしていたのか、あまり覚えていない。アパートにも帰らず、私は公園のベンチにいた。ベンチに座って、携帯の受信メールを見る。
「連絡先交換してくれてありがと。俺、すっごいオマエのこと好きだから」
「嘘だと思ってる? 本気だって」
「そろそろなびいてくれてもよくね?」
「俺、オマエと付き合ったら海に行きたい。神奈川とかどう?」
 受信メールをそこまで遡った後、私はやけに冷静な手つきで連絡先を開いた。そこには家族も、友人もいた。私には帰る場所があり、友達もいたのだ。それを五条悟が引き離した。私を自分に惚れさせるために――いや、ただ私とデートをするために、私を記憶喪失にして、記憶を取り戻すという名目の元私を連れ出したのだ。そのためなら、家族や友人と縁を切らせることも厭わなかった。私の過去の人生も捨てさせた。五条悟の夢を叶えるためだけの私にした。五条悟が記憶を取り戻さなくていいと言っていたのは、その方が都合がいいからだ。五条悟は、私のためなら何でもする。通常真実の愛を語る意味で使われるこの言葉は、五条悟の場合悪事に手を染めるという意味になった。
 空っぽの心と記憶で、どれほど長い時間公園にいたのだろう。気付けば夕暮れ時になっており、私の手から携帯が拾い上げられた。
「ダメだろ、捨てられたものを拾ったら」
「あ……」
 そこにいたのは五条悟だった。震える私をよそに、五条悟は携帯をひねりつぶした。多分、呪力を使ったのだろう。ひしゃげた携帯が、退院した日駐車場で見た空き缶と重なって見えた。あの時にはもう、私は五条悟の手中にあったのだ。そして今も青の瞳から逃げられないでいる。多分この先、ずっと。