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ここ数年、恋をしていないと思った。大学や高校で同級生と付き合ったことはあるけれど、どれも長く続かずに終わってしまった。社会人になってからはあまりの出会いのなさに驚いた。格好いいと思う先輩はいたものの、彼は職場内で別の女性と付き合っていたし、実際に付き合おうと思えるほどの現実味はなくて、所詮憧れの人で終わってしまった。そろそろ恋人が欲しいなと思っていた時に、私は彼と出会ってしまったのである。

「相席してもいいですか?」

カフェの椅子に座って仕事をしていた時、突然目の前に男の人が現れた。顔を上げてみれば休日のカフェは混雑しており、空席はどこにもなかった。

「いいですよ」

私はノートパソコンを自分の方に引き寄せ彼にスペースを空ける。彼は「ありがとうございます」と言って手にしていたカップを置いた。

「イングリッシュティーはお好きですか?」
「え? ええ、好きですけど」

すると彼はもう一つカップを取り出し、私のノートパソコンの隣に置く。「お礼です」の言葉通り、相席を許可してくれたお礼にお茶を一杯奢るということらしかった。律儀な人だと思いつつ、私はイングリッシュティーを一口啜る。コーヒーばかり飲んでいた舌に、紅茶の上品な香りが染み渡った。

「僕も海外の出身なんですよ」

平然とそう言った目の前の男性に私は紅茶を飲むのをやめ、カップをテーブルに置く。

「『も』とは、どういうことでしょう?」
「だって、貴女はFBI捜査官じゃないですか」

途端に警戒心を引き上げる私に彼は笑った。

「こんな公共の場で仕事をするのはどうかと思いますよ。僕のような一般人にも容易に情報が見えてしまう」

思わず私は背後を振り返った。そこには誰もいなかったが、見られているという意識が私の頭の中にこびりついていた。

「カフェで仕事をするのが落ち着くということであれば、僕の近所のカフェを紹介しましょう。あそこの端の席なら誰にも見られずに仕事ができる」

こうして私は連れ出されるようにして場所を移動したのだった。彼が紹介してくれたカフェは、仕事をするのにちょうどいいざわめきと長閑さがあり、端の席では誰にも見られることなく仕事ができた。彼はその隣のテーブルに座って静かに紅茶を飲んでいた。後で聞いた話だが、彼は名を沖矢昴というらしい。東都大学の院生らしく、なるほど頭が切れるわけだと思った。沖矢さんは私がカフェに行くと大抵端から二番目の席におり、まるで護衛をするように私の隣にいた。会話をするでもご飯を食べるでもない関係性は不思議と心地よかった。私は沖矢さんともっと仲良くなりたいと思ったが、沖矢さんは自分のプライベートの話になると毎度華麗に話を逸らした。その時点で私はもう沖矢さんのことが好きだったのだろう。私は沖矢さんと会うのを楽しみにカフェに通っていた。そんなある日、沖矢さんは楽しそうに言った。

「今度、僕の家に案内しますね」

遂に来たのだ。沖矢さんに近付ける瞬間が。私は普段の倍の速さで仕事を片付けるとその日を楽しみに待った。沖矢さんの家とはどんな所だろうか。期待に胸を膨らませて指定された場所に行くと、目の前に現れたのは豪邸だった。

「今行きます」

少しくぐもった沖矢さんの声がし、玄関の扉が開かれる。「どうぞ」の声に私は緊張しながら沖矢さんの家へと入った。沖矢さんが普段寝食をしている、究極のプライベートスペース。一歩踏み出すごとに胸を高鳴らせながら部屋の奥へと進むと、現れたのは同僚のジョディさんとキャメルだった。

「え? どういうことですか?」

何でここに、仕事仲間の二人がいるのだろう。困惑する私をよそに、二人は「そろそろ言ったらどうですか」「本人から言いなさいよ」などと話をしている。すると今まで黙っていた沖矢さんが急に私の前まで歩み寄って、顔の下部に手を掛けた。

「え……?」

中から出てきたのは、同僚である赤井さんの顔だったのである。目を丸くする私の横で、ジョディさんが赤井さんは死んだふりをしていたこと、その間の仮の姿が沖矢昴であったことを教えてくれた。

「つまり沖矢さんは存在しないってことなんですか……?」
「ああ。折角好きだったところすまない」

私はこの場で泣き出したい気持ちになった。ようやくできたと思った好きな人。しかしそれは同僚の仮の姿だったのだ。しかも赤井さんは当然のように私の気持ちまで把握している。私の気持ちを知ったまま弄んでいたなんて悪い人だ。

「君があまりにも無防備なんでな。少し監視させてもらった」
「好きになった責任はどう取ってくれるんですかぁ……」
「沖矢昴のまま責任を取るのは無理だな。代わりと言っては何だが、俺でよければ責任を取る」
「私が好きなのは赤井さんじゃなくて沖矢さんなんですよ!」

FBIきっての切れ者・赤井秀一でもこの複雑な恋模様はどうにもならないらしい。赤井さんの提案を足蹴にする私をジョディさんが「贅沢な子」と言った。確かに赤井さんのことは格好いいと思う。だが私が恋をしていたのは、沖矢さんなのだ。

「まさか俺も好きになられるとは思わなくてな」

そう言った赤井さんに、私は「単純ですみませんね!」と叫んだのだった。