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前まで1000字未満はSS、以上は短編としていたのでその名残です。今は両方短編として投稿してます。ここにあるものもいずれ短編に追加する予定です。※短編の名前変換で変換できます

hq/宮侑とマネ
hq/牛島とマネ
hq/牛島とクラスメイト
hq/牛島と先輩
hq/牛島とホワイトデー
hq/北と侑と幼馴染
hq/北と幼馴染
hq/北さんとバレンタイン
hq/100日後に付き合う宮侑
hq/侑と幼馴染
hq/侑と酔っ払い
hq/侑とセフレ
hq/侑の嫉妬
hq/侑の誤解
hq/侑の策略
hq/侑とおまじない
hq/侑と卒業
hq/侑に読まれる
hq/侑とテスト返し
hq/侑と一周年
hq/侑とキス
hq/侑とイチャつく
hq/影山と先輩
hq/影山と帰り道
hq/影山に告白される
hq/影山を起こす
hq/影山と約束
hq/影山に嫉妬される
hq/影山に求められる
hq/影山の前置き
hq/影山と喧嘩
hq/影山と卑屈
hq/影山の無自覚
hq/影山のアドバンテージ
hq/影山と笑顔
hq/木兎と年上
hq/木兎に悩み相談
hq/木兎に告白される
hq/赤葦と身元確認
hq/赤葦とフィードバック
hq/宮双子と関係を持つ
hq/治と打ち上げ
hq/治と彼女
hq/治とバレンタイン
hq/治とセフレ
hq/治と責任
hq/治と予定表
hq/治と将来
hq/及川と名前のない関係
hq/昼神に惚れる
hq/白布とハンドクリーム
hq/白布と自販機
hq/研磨と初体験
mha/エンデヴァーマネと轟
wt/ヒュースと玉狛
wt/ヒュースと玉狛の女の子
jj/五条に傷付けられる
kmt/不死川の好きな女の子
kmt/不死川と部下
kmt/不死川と生まれ変わり
kmt/時透と鬼殺隊員
kmt/冨岡先生と生徒
DC/降谷と部下
DC/赤井と部下
脱色/藍染と部下



「好きや」
唐突に侑が言った。合宿所の体育館裏にて、休憩時刻も残り十分を切った頃のことだった。涼しい木陰には私達二人しかおらず、残りの部員達は差し入れの余りのスイカを争奪するのに全力を投じていた。そんな部員達を遠巻きに眺めていた私の横に侑は何も言わず座ってきたのだった。
「はぁ」
それだけしか返せない私を侑は不満に思ったのかもしれない。
「なんや、嬉しくないんか」
「嬉しいけど」
「せやろな」
何と淡々としたやり取りだろう。しかし、私は正しい告白の返事というものを知らなかった。胸に広がるのは喜びよりも困惑である。何故侑が私を? 暑さで疲れきった頭ではよくわからない。同じく侑の頭も麻痺しているのか、私達の間にはまるで甘い雰囲気というものがなかった。
「嬉しいけど、実感がわかないというか何というか」
「じゃあ俺はどうすればいいねん」
「それくらい自分で考えろや」
再び私達の間に沈黙が流れた。これでいつも通りだ。非日常から戻ってきたかのような感覚に私が安堵したのも束の間、侑は顎に手を当てた後、私の方を向いた。そして力強く私の肩を掴んだ。
「え? 何やっとんの? アンタ」
「お前が言ったんやろ」
「何をやねん」
状況について行けない私を侑はまるで気にかける様子はない。いいから黙れ。そう言いたげな瞳と目が合った後、唇に柔らかな感触がした。




それは小さな大会での試合後、バスを待っている時のことだった。ミス白鳥沢と隣のクラスのイケメンがお似合いだと盛り上がる天童君達から少し離れた場所で、同じく話に入らないでいた牛島君に私はそっと話しかけた。
「牛島君は、大和撫子っぽい人がお似合いだよね」
牛島君にも天童君達の話は聞こえているだろうから、唐突に何を言っているのだとは思われないだろう。クラスの中では牛島君と話せる方だという自信を持って、私は牛島君に微笑みかける。牛島君が恋愛話をする所は想像がつかないが、一体どんな表情をするのだろう。
私が牛島君を覗き込むようにしていた時、牛島君は突然顔を上げた。
「何故お前がそれを決める?」
何故、と言われても、話の流れとしか言いようがないのだけれど、牛島君は不愉快だったのだろうか。
「え? ごめんね、気を悪くさせちゃったかな」
「何故お前が謝る」
「えっと……」
本日二回目の「何故」に私が言葉を詰まらせていた時、後ろで天童君が笑う声がした。
「ダメだよ若利君、名前ちゃんいじめちゃ」
「いじめてなどいない」
「じゃあ何してたのさ」
「喋っていただけだ」
私の遥か頭上で交わされるやり取りを私は呆然と聞いていた。一応私との会話は、他愛もないお喋りと認識してくれたらしい。
「では逆に聞くが、お前は人それぞれに属性のようなものがあると思っているのか」
「うーん……牛島君は寡黙なタイプだよね……」
牛島君は怒っているのだろうか。私の答えはまた牛島君の怒りに触れていないだろうか。私は恐る恐る答える。すると、牛島君は前を向いたまま言った。
「お前は、大和撫子のような女だな」
私は思わず口を開けて牛島君を見た。この際私が本当に大和撫子のような女であるかはどうでもいい。牛島君は私に、何を言いたいのだろうか。言葉通りの意味なのか含ませた言葉なのか分からず混乱する私を置いて、牛島君は「バスが来た」と歩き出した。至って普段通りの牛島君に対し、私は牛島君に今までのように接せる自信がない。この責任をどうとってくれるのだろう。



「お前が好きだ」
牛島君にそう言われた時、私は呆然と牛島君を見上げるしかできなかった。人がいないとはいえここは教室だし、牛島君は忘れ物を取りに来ただけという風だ。そのついでと言えるくらい牛島君にとって私への告白はどうでもいいのかもしれないけれど、私にとっては重大局面だ。だって、全国常連のバレー部のエースで、私なんかと交わることがないと思っていた牛島君が私を好きだなんて。
「何で?」
私は思ったまま口に出していた。すると牛島君は何故そんなことを尋ねるのかとでも言いたげに眉を顰めた。
「人を好きになるのに理由がいるのか」
「そ、それはそうかもしれないけど……」
牛島君のあまりの圧に押されそうになる。私がそんなことを言っている間にも、牛島君は忘れ物を取って教室を出て行こうとしているところだった。
「ま、待って! 付き合おうとか、そういう話はないの?」
「ないが?」
その毅然とした態度にこちらが間違っているのではないかという気すらしてくる。でも普通、告白したら次に「付き合ってください」というものがあって、むしろそのために告白するのではないだろうか。
「ほ、本当にないの?」
「ない。お前がどうしてもと言うなら付き合ってやってもいい」
気付けば私は告白される側から告白する側のようになっている。私は牛島君が好きなのかどうか分からない。今まで意識はしていなかったけれど、たった今猛烈に存在を強調されたのは確かだ。これから私は今日のことをなかったことにして牛島君と付き合っていくことは不可能だろう。何があったって、牛島君は私を好きなのだと思い出してしまうに決まっている。ところが当の本人は交際の提案すらせずにそのまま部活に行こうとしている。これはもう、私の負けなのかもしれない。
「牛島君、付き合ってください」
降参して私がそう言うと、「いいだろう」と声がした後に足音が遠ざかっていった。



「貴女が先輩でよかった」
その言葉に私は足を止めた。今日は春高が終わり、二年生への引き継ぎをしたところだった。後輩達との別れも済ませ、選手達が帰った後に私は最後に部室の点検をしていた。別にまだ卒業はしないのだから忘れ物があれば取りに行けるのだが、選手達の後始末をしたがるのは三年間マネージャーをやっていた癖のようなものだろう。無事点検を済ませ、私は自分の荷物を持った。マネージャーの私がこの部室を使うことはあまりなかったが、それなりに思い入れはある。さて帰ろうと立ち上がった時、突然牛島君が入ってきたのだ。
入部当初からエースであった牛島君は、マネージャーの私から見ても近寄りがたい人だった。あまり多くを語らない彼の性格が余計それを助長させていただろう。私はあまり牛島君と関わることはなかったし、私が何か牛島君にお膳立てできたことなどない。今日も牛島君は言葉足らずだ。
「それって、どういう意味?」
まさか早く部を空けてくれて助かるなんて意味だろうかと私が危惧していた時、牛島君は一歩進んで私との距離を詰めた。
「部内恋愛はチームの秩序を乱す。貴女はもう引退するから、俺は貴女と付き合うことができる」
私は一体何を言われているのだろうと、本日二度目のことを思った。先程と違って言葉の意味は分かる。多分牛島君は私が好きで、部内恋愛はよくないと思っていて、引退したら付き合えるということだ。でも、牛島君が私を好きになるということが、本当に現実にあるのだろうかという気になってしまう。
ここで本当に? と聞いたところで、牛島君が嘘だと答えるとも思えない。牛島君は不要な嘘をつく人ではない。では何と言えばいいのだろうと私が牛島君を見ると、牛島君は私の気持ちなど見透かしたかのような口ぶりで片手を出した。
「貴女はただ頷けばいい。そうすれば貴女は、俺の女になるのだから」
先程から感じていたが、牛島君の中で私が断るという選択肢はないらしい。それが牛島君らしいと感じつつも、私は導かれるように頷いていたのだった。この二年間牛島君を見てきて、牛島君に恋愛感情があるかどうかは分からない。でも今聞いた、牛島君の女という響きはいいと思った。そんな単純な私の、不思議な恋の始まりだ。



 白鳥沢学園の卒業式は三月の頭に行われた。大学の合否が出ていない者も多く、内心穏やかではなかったかもしれないが、名残惜しい雰囲気を残して式は終わった。厳かな空気からは解放され、教室で最後の時を過ごす。友人と話していた時、思いもよらない人物に名前を呼ばれた。
「苗字」
 それは、私の万年片思いの相手、牛島君だったのだ。私は浮かれた気持ちを隠さずに牛島君の元へ向かう。卒業式の日に二人で話したいことの種類を、私はそう多く知らない。
「苗字がくれたバレンタインのお返しだが、一緒に東京に来てくれないか」
 私は放心して牛島君を見つめた。何かと思えばホワイトデーの話だったのかと脱力した後に、まるで将来を約束するかのような言葉を言われて思考が追いついていない。そういえばホワイトデーにはもう学校がないから今日渡すしかないのだと私は心の中で合点がいった。
「すまない。バレンタインのお返しを買ったんだが、東京の寮に置いてきてしまった。苗字も東京の大学だから、ホワイトデー前に来てもらうのが早いと思っただけだ」
 私の動揺を悟ったのか、牛島君は言い訳をするような口調で言う。これはお誘いではなく効率を考えた上での発言だったのだ。浮かれて損をした。牛島君も気があるような言い方をするのだから心臓に悪い。落ち着いたところで、ふと疑問が浮かんだ。
「東京に置いてきたって、地元に残る子の分のお返しはどうするの?」
 牛島君はモテる。東京進学組のみならず、地元に残る子や他県に進学する子まで幅広い女子からチョコを貰っていることだろう。そういった相手に渡せるのは、今日が最後ではないのだろうか。牛島君は「ああ、」と頷いてなんてことないような顔で説明した。
「他の女子には適当に買ったお菓子をもうやった。苗字にあげるものは、東京の百貨店で買ったものだから東京にある」
 これで疑問は解けたとばかりにすがすがしい表情をする牛島君とは対照的に、私は今すぐにでも死ぬのではないかと思っていた。他の女子とは違い、私だけ百貨店で買ったものをあげるならそれは特別扱いだ。バレンタインに私が特段値の張るチョコをあげたわけでもない。牛島君は、私と他の女子の間に一線を引いているのだ。顔が沸騰しそうなほど熱い。一度気のないふりをしておいて、とんだ緩急で私の心を揺さぶるものだから牛島若利は心臓に悪い。



畑での農作業も炎天下では体に障る。一区切りついたことだし、休憩でも入れようかと後ろを振り返った時、俺はあぜ道には到底似合わない人物を見つけた。
「お前、何やっとるん」
高校の後輩、宮侑。当時から顔の良さとバレーの上手さだけは抜きん出ていて、当たり前のようにプロになった今も人気の高い選手だと聞く。周りに女を侍らせて、香水の匂いを振りまいているような男が、何でこの田舎の畑に突っ立っているのだろう。それも、また似合わない花束を持って。俺が畑の中から動かないまま叫ぶと、侑もこちらに寄ってくることはなくその場で叫んだ。
「俺、名前と結婚します」
いくつかの謎が解けた。侑が小綺麗な格好をして、花束まで持っていたのはこれから名前にプロポーズするためだったのだ。通りで侑が兵庫にいるわけだ。花束を持っているということは名前にプロポーズするのはこれからなのだろうが、既に決定事項として伝えるところが侑らしい。
「何でそれを俺に言うんや」
「名前を作ってくれたのは、北さんやから」
道理が通らないとばかりに尋ねたが、それが建前のようなものであることは自分がよく分かっていた。だって、幼馴染と結婚しようとしている後輩がわざわざ俺に報告する理由なんてないだろう。そう頭では思うのに、心がちぎれそうな自分がいる。俺は名前のことが、侑が名前に出会うずっと前から、好きだ。俺が必死に隠していることを、侑はいとも簡単に指摘してみせる。
「そか」
俺は笑って頭上を見上げた。空は澄みきっていて、風が穏やかに吹いていた。なるほどプロポーズには持って来いの日だ。だが今日大人になるのは侑ではない。ずっと苗字名前の幼馴染だった俺、北信介の方なのだ。




「もう嫌や。将来とか考えたない」
参考書を開いたまま私は床に寝転んだ。相変わらず信介の部屋は片付いており、埃一つ落ちていない。向かいでは信介が熱心に参考書と向き合っていた。こうやって時々怠ける私とは違い、信介はきちんと受験対策をして、志望大学に行って実家を継ぐのだろう。先の見えない私とは違い未来の明るい男だ。稲穂の中で汗を拭う信介の姿が目に浮かぶ。
「考えなあかんものはあかんやろ」
「信介はどう考えとるんよ」
どうせ大学へ行き、実家を継ぐと言うのだろうと思っていた私は信介の発した言葉に呆気に取られることになる。
「そらお前と結婚して、ガキこさえるんやろな」
「そういう意味ちゃうねん……」
確かに信介は一人っ子だし、広大な田畑を持つ地主の跡取りでもある。信介が結婚して跡継ぎを作らなければ北家は存続の危機だろう。信介の両親は信介が農家を継ぐと聞いた時二重の意味で安心したに違いない。
「そらそうやけども、そうやないんよ」
ここで私が照れて顔を赤くなどすればよかったのだろうが、生憎私はそんな可愛い女の子ではなかった。信介とはもう付き合って三年が経つ。自ずと将来を考えるようになるし、信介が家を継ぐ立場として私を家に入れることを考えなければならないということは分かっていた。
だけれど私は、そんな田舎の面倒くさい事情が聞きたかったわけではなかったのだ。信介が一言俺は大学に行くと言ってくれれば、それなら私も頑張らなければと嫌々起き上がることができたかもしれない。信介は私を躾るのが上手いようで、実は甘やかす方が好きだ。信介の部屋の天井を見ながら唇を尖らせていると、信介が参考書から顔を上げて私を見た。
「名前は俺が将来どうするかより俺と将来どうなるかの方が気になってたんとちゃうん」
「そんなん結婚やて分かっとるわ。伊達に田舎住んでないわアホ」
私と信介の恋は既に駆け引きをするような段階ではなくなってしまった。このまま熟年夫婦のように小言を零しながら、持ちつ持たれつ田舎くさくやって行くのだろう。少女漫画で読んだような東京の恋とは違うが、私達にはこれがお似合いなのではないかという気がした。私は起き上がると、信介のおばあちゃんが差し入れてくれたおにぎりを一つ齧った。



 備品を取りに部室へ入ると、中で北さんが大きな袋を広げていた。袋の中には、色とりどりのラッピングがされた包みが入っていた。何となく中身を察しながらも、「何ですか、それ」と聞く。
「双子へのチョコや。別に貰うんはあいつらの自由やけど、練習の邪魔して渡そうとする奴がわんさかおったから一度に回収した」
 そういえば今日はやたらとギャラリーが多かった。部員のプライベートには不干渉の北さんも、練習を邪魔されたとあっては何もしないわけにはいかないのだろう。
「治は全部食うらしいけど、侑はいらんらしいねん。俺にあげるって言われたんやけど、俺もこんな量食えん」
 困った表情には見えないが、確かに人へのチョコを大量に転売されたところで処理に困るだろう。私は迷った末に、一度マネージャー室へと戻り包みを手にすると侑の袋へ入れた。北さんは目を丸くしてそれを見ていた。
「何や、苗字も侑にチョコやるんか? 苗字のやったら受け取るやろうし、直接やったらええやん」
 北さんは私が侑にチョコをあげたと思っている。それでもいい。だが、言わなければ変わらない。
「私は侑やなくて、北さんに食べてほしくて、チョコやったんです」
 今年一番の勇気を出して私は尻すぼみの声で言った。バレンタインに練習を邪魔されたという前例もあるし、直接北さんにチョコは渡しづらい。でも、侑の袋に入れておけば結果的に北さんに食べてもらえる。北さんは目を丸くして私を見ていたが、やがて無言で侑の袋を漁り始めた。
「……ちゃんと名前書いとけや。どれが苗字のやつか、わからんくなるやん」
「すみません」
「ばあちゃんとか弟と分けて食おうと思っとったけど、お前のはちゃんと俺が食うから」
 告白の返事にしてはやけに曖昧な言い方だ。だが侑の袋にチョコレートを入れるという曖昧な好意の表現をした私には、お似合いなのかもしれない。
「よ、よろしくお願いします」
 私はそれだけ言い残して部室を飛び出した。ホワイトデーのお返しは、貰えるだろうか。



侑のことだから、授業を碌に聞いていないことも提出物に手を付けていないことも分かっていた。一方私は毎回きちんとノートを取り、提出が求められるものは早めに手を着けている。それは多忙ではない文化部だからという小さなプライドと、多忙な上に何でも後回しにするある男へ献上するためだった。
今回も完璧に揃ったノートと提出物の束を目の前に出され、侑は恐々とした様子で私を見上げる。
「体で払おか……?」
「アホか!」
侑は一体何を言い出すのだろう。侑にノートや提出物の類を見せてやるのは今回が初めてではないのだから、別に珍しいことではないはずだ。それが私の侑への恋心ゆえということもとうに分かっているだろう。だからこそ、「体で払う」などという発言まで飛躍したのかもしれない。いずれにしろ侑が私の貢献具合に対して驚いているようなので、私はしてやったような気持ちになっていた。
「その顔に感謝するんやな」
「いや性格にやろ」
「嘘やん、アンタ自分の性格に惚れられてると思ってたんか」
私は身を引きながら侑を見る。侑を好きな私が言うのもなんだが、侑は結構厄介な性格をしていると思う。特に侑の情熱をかける分野、バレーにおいては。
「じゃあお前顔ファンかいな。俺のファンの中でも雑魚やんけ」
「すぐそういうこと言う所がファンとしてもどうかと思うわ」
「でもそんな俺が好きなんやろ?」
侑にしたり顔で見られ、私は悔しいわ好きだわで感情がごちゃ混ぜになる。
「好きやけど!?」
「うん、俺もお前のそういう正直な所が好きやわ。これ借りるな。ありがとさん」
そう言って立ち去る侑を私は興奮したまま見送った。今回もまたいいように扱われた気がする。だがこの百日後、私と侑の関係が大きく変わることを私は知らない。



「これでええか」
「うん。ありがとうな」
私は所々汚れた充電器を持ち、侑に言った。事の始まりは、私のスマートフォンの充電器が壊れてしまったことである。歩いてすぐの家に私と同じ機種から最新型のものへスマートフォンを替えたばかりの侑がいることを思い出し私はこうして侑のお世話になっている。普段騒ぎを起こしてばかりだが、こんな時はすぐ近くにいてよかった――。私がそんなことを考えていた時、ふと侑の横顔が目に留まった。
いつもこの横顔を眺めてきた。小さい頃から否定してきた感情を素直に認められるようになったのは、侑に彼女ができてからだろうか。私は侑のことが好きだ。私の方が侑のことを知っているし、侑と仲が良いのに、侑の恋人にはなれない。そんな立ち位置に慣れたような気がして、全然満足などしていないと思い知らされた。侑がこちらを振り返って何か言う。その体が、こちらを向く。
気付けば私は背伸びをして侑にキスをしていた。触れるだけの、まるで中学生のような短いキスだった。侑は何も言わなかった。魔が差してしまっただけのようで、このキスをなかったことにしたくないとも思っていた。しかし先に耐えられなくなったのは私の方だった。
「……帰る」
充電器を握りしめ、私は侑に背を向ける。侑は私を罵ったり、腕を掴むようなことはしなかったけれど、ただ一言口にした。
「これでやめんなや」
私は泣き出したいような気持ちになる。侑には彼女がいて、私は侑が好きで、侑はそれらのことを全部知っているというのに。唇を噛みしめて侑の方へ戻ると、今度こそ私は深いキスをした。侑も私の頭の裏に腕を回し、舌も絡ませ合った。熱に浮かされながら、私はふと部屋の隅にあるベッドを見た。これから私達は多分そこへ行くことになる。そうしたら明らかに一線を越えてしまうことだろう。侑は浮気をするような奴ではないと思っていたから、少し意外だった。でも侑と恋人ごっこができるのなら、何でもいい気がした。私が侑の背中を撫でると、侑は私に回した腕の力を強めた。



遅くまで続いた飲み会を切り上げて、私は電車で五駅のアパートへと向かった。後ろには私を送ると言って聞かなかった侑がぴたりとくっついている。その足取りは覚束なく、私より侑の方が送る必要があるくらいだ。
侑は私の最寄り駅に着き、改札を出た後もまだついてきた。酔っ払っているくせに足が長いおかげで早足で歩く私にきちんと合わせている。これは上がる気ではなかろうなと私がバッグから鍵を漁っている時、侑が唐突に口を開いた。
「好きやぁ」
私は呆れて顔を上げた。今は私の部屋の前で、侑と私は酔っ払っていて、時刻は午前零時を過ぎている。
「この状況で言われても、ヤリモクとしか思えへんのやけど」
侑が私を好きなことは知っている。何ならいつ告白してくるのだろうとも思っていた。でもよりによってこんな最悪の状況で、恐らく本人の記憶にも残らない告白をするだろうか。私の視線も気にせず、侑はスマートフォンを見てへらりと笑った。
「あかん、終電逃してもうた」
「泊まる気満々やないかい!」
仕方なく私は鍵を開け、侑を部屋の中に通した。大学時代友達が泊まることが多かったから布団一式はある。侑はそこに寝かせればいい。
「絶対にやらんからな」
「何で? ええやん、俺も名前が好きで、名前も俺が好きで、そしたらやること一つしかないやん」
侑が後ろから私を抱きしめる。侑の強い香水の匂いと、酒の匂いがする。大抵の女はここでやられてしまうのだろう。しかし、私は侑をもう何年間も好きでいたのだ。
「侑と私はこないことで始まったりせんのや!」
侑は私から離れると、「そういや名前結構ロマンチストやったな」と言って笑った。そして力尽きたように私のベッドに突っ伏した。セックスをする余裕もないなら最初から言わなければいいのに、何でこの泥酔している時に告白しようだなんて思ってしまったのだろう。私は仕方なく侑に毛布を掛けてやった。普段女から騒がれているくせに、大事な所で決められないこの男のために今晩は仕切り直しといこう。明日、目が覚めたらとびきり甘い告白をしてほしい。



 事が終わった朝はベッドの中で二人微睡むのが常だった。初めは手早く服を身に付け、バッグを手に帰っていた彼女がそうするのだから、少しは自分に心を開いてくれているのではないかと思う。侑は名前へ腕を回しながら、さりげなさを装って口を開いた。
「なあ、俺ら付き合わん?」
 もう付き合ってもええと思うねん。体だけで始まった名前と侑の関係だったが、侑は徐々に不満を抱くようになった。名前を侑だけのものにしたい。体だけでなく、心でも触れ合いたい。名前もきっと侑を求めているはずだ。そう思い込んで名前の言葉を待つと、侑の手は名前が体の向きを変えたことにより宙ぶらりんになる。
「いや、ええわ。侑はセフレとしか思えんし」
 これに衝撃を受けたのは侑である。今まで、セックスフレンドでいいから侑と関係を持ちたいと言う女は多かった。そのどれもが最終的にセックスフレンド以上の関係を望んだ。名前もきっと、そうだと思っていたのだ。
「何で断わんねん」
「何で受け入れてもらえる気でおんねん」
「お前俺のこと好きやないんか?」
「アソコ以外のどこを好きになる要素があんねん」
「体目当てやったんか!」
「最初に体目当てで誘ってきたんは侑やろ」
 すっかり名前は侑に惚れ込んでいると思っていた侑と、セックスフレンドとして割り切っている名前。二人はまるでコントのようにすれ違っている。
「もうええ! お前なんかこっちから願い下げや!」
 付き合おうと誘ったのは侑だというのに、侑は名前を断わる旨を口にした。こんなことを言ったところで、名前は「あっそ」とスマートフォンを弄り始めるに決まっている――。しかし名前は、予想に反して侑の顔を見上げた。
「それは困るわ。侑のアソコ、結構ええねん」
 侑は思わず唇を噛む。きちんとした仲になろうとすれば断わるくせに、セックスフレンドという浮いた仲にだけは執着心があるらしい。フラれて悲しいような、それでいて体だけは求められて悔しいような気持ちだ。絶妙に侑を揺さぶる名前に、侑はきっと囚われたままなのだろう。



 女というのはマウントを取るのが好きな生き物である。所持品のブランド、家柄の良さ、顔の美しさ。皆他より上に立とうとしてやまない。そしてそれは逆も然りなのである。
 一般家庭に生まれ、美人とも不細工とも言い難い顔を持ち、これといった特徴もなく生きていた苗字名前は、学校一のイケメン・佐藤と付き合っていたという噂が広まった後急速にもてはやされるようになった。今までスクールカーストの真ん中にいたような人間が、急に最上部の層にまで場所を譲られるようになったのである。女にとって男という付加価値は恐ろしいものだ。顔も立ち振る舞いも華々しい侑の元恋人ですらも名前に一目置いている様子に、侑は苛立ちを隠せないでいた。
「佐藤君と付き合ってたから何やっちゅーねん。佐藤君の一時の気の迷いかもしれへんやろ。つーか苗字名前は平々凡々やんか。あんなん俺が告白でもしたら秒で頷くわ」
 侑は購買に群がる名前を見て言った。心なしか名前の周りだけ僅かにスペースが空いているように見える。佐藤と付き合っていたというだけで、絶世の美女扱いである。
「そうしたら侑は佐藤君より上ってことになるかもね」
 角名は名前に感情を燻らせる侑に適当に合わせただけなのだが、この一言が侑のコンプレックスを刺激してしまったらしい。同学年の佐藤が学校一と言われることに、侑は密かに嫉妬心を覚えていたのだ。
「それなら行ったるわ! 見てろよ!」
 侑は大股で歩くとパンを買おうとしている名前の手を掴んだ。急に話したこともない男に引き止められた名前は、困惑した表情をしている。
「な、何?」
「苗字さん、俺と付き合ってくれ」
 名前は驚いたように目を見開いた後に、「え、ええけど……」と言う。それ見たことか。これで侑が学校一のイケメンだ。侑が角名に勝ち誇った顔を見せようとした時、名前が控えめに口を開いた。
「宮、侑君は私のことが好きってことなんか?」
「え? あ、まあ」
 まさかそんなことを聞かれると思わなかった。告白した手前好きではないとも言い出せずに、侑は頷く。すると名前は花が綻ぶような表情で笑った。
「嬉しい。私、実は侑君のこと好きで」
「あれ? 苗字さんは佐藤君と付き合ってたんちゃうの?」
「ああ、あれは噂が最近になって広まっただけで付き合ってたんは随分前なんよ。最近はずっと、侑君のことが好きやった」
 熱視線を受け、侑は思わず目を逸らす。昼休みの購買前という場所で告白してしまったからかギャラリーはすっかり祝福ムードになっていた。中にはスマートフォンを構えている者もいる。侑はこれから、どうしたらいいのだろうか。



「ほんま、すんませんでした!」
「まったくや」
 現在侑は私の目の前に正座し首を垂れている。発端は、二日酔いから目覚めた侑が私の首元を見たことだった。
「何やお前、そのキスマークは!」
 私の首元には、普通の服では隠せない位置に赤黒いキスマークがついていた。キスマークがついている、とはそれ以上のこともしたということだろう。現に私はキスマークをつけた張本人と体を重ねたのだが、それは侑のことである。
「何やって、侑がつけたんやん。覚えてないんか」
「俺はそんな堂々とキスマつけへん!」
 侑は自分が間違っているとは夢にも思っていない様子で主張した。だが侑は記憶をなくしているだけであり、酔った侑は普段の欲を解放するかのように激しく私を抱いた。二日酔いで起きない侑を放って私が帰ってしまったから、侑にとっては飲み会から別々に帰宅したということになっているのだろう。
「だから侑が酔っぱらって記憶ないだけで、侑やねんて」
「信じられへん! 浮気者の言い訳や!」
 調子を取り戻した侑は、威勢よくお仕置きセックスだの普段していない体位もやるだのと言い始めた。このままでは侑のいいようにされてしまう。仕方なく私は角名に電話をかけ、「酔っぱらった侑を苗字が連れて帰ってたよ」という証言をしてもらったのである。そして話は冒頭に戻る。元気よく私を責めていた側の侑が、一転責められる側になった。
「悪かったて」
「ほんまや」
「責任はちゃんと取る……俺がお前にお仕置きや言うてやらせようとしてたこと、全部やってええから……」
「それ侑がセックスしたいだけやろがい!」
 先に侑が慰謝料を取るだの家事労働をさせるだの言っていれば私も得したかもしれないが、侑がやらせようとしていたのはお仕置きセックスと違う体位のセックスである。結局セックスをすることになるので、むしろ侑が得をしている。
「覚悟は決まった! 俺を好きに犯せ!」
 そう言ってふざけている侑を懲らしめたくて、私は侑を床に押し倒すと腰の上に跨った。
「そういえばいっつも侑のタイミングに合わせて好き勝手動かれて、こういうんはしたことなかったな」
 今私がしている体勢は所謂騎乗位である。遊び人がやる体位、というイメージがあったが、侑の情けない顔が見られるのはいいかもしれない。
「嘘やん、こんなんご褒美やん……」
 果たして今日のセックスの勝者はどちらだろうか。確かめるべく、私は侑のズボンに手をかけた。



「今日話してた男何なん?」
 侑に話しかけられた時、私の心臓が波打った。私は今日、隣のクラスの男子に告白されていたからだ。しかし侑が指しているのは他の男のようで、「名前に触っとったアイツや」と言っていた。
「ああ、黒木君は二年間クラス同じやから仲ええだけや」
「そうなん? 名前に馴れ馴れしくしよって」
 侑に告白現場を見られていないのはいいが、ただクラスメイトと話している場面を見て腹を立てられたのではこちらも対応に困る。侑が私を好きだというのはなんとなく気付いていたけれど、恋人という関係でもない以上、別の男と仲良くしてごめんねと言うのもおかしい。
「なあ、侑と私、付き合ってへんよな?」
 わかりきっていることを侑に尋ねる。すると侑は、あっけらかんとした口調で答えた。
「付き合ってないのに嫉妬したらあかんの?」
「いや……ええけど……」
 何という堂々とした態度だろう。普通、好きな人に想いを知られたらもっと慌てふためくものではないだろうか。侑は気持ちを隠すどころか、わざと私に仄めかしているきらいがある。私の見ないふりにも限度があるというものだ。最近の侑は、私に好きだという態度を見せつけて私の反応を楽しんでいるように見える。そのくせに告白はしないのだから、私は答える場も与えられない。私から告白しろと言うのもおかしな話だ。以前告白を唆した際には、「俺に好きやって言ってほしいん?」とニヤつきながら言われた。これではまるで私が侑を好きみたいだと諦めたのだけど、あの時無理矢理にでも言わせておけばよかったかもしれない。
「名前、もう黒木と話すなや」
「な、何やそれ。そんな命令聞けるわけないやろ」
「何で?」
 そう聞かれてしまえば答えに困る。だが他に言葉も思いつかなくて、私は素直に告げた。
「侑は、彼氏でも何でもないやん」
 侑の口が弧を描くのがわかった。知らない間に、私は自分から交際を持ちかけたかのようになっている。全て侑の思い通りだ。
「じゃあ彼氏になったってもええよ」
 笑う侑の顔を見て、私ははめられたことを悟る。私は侑のことを好きでも何でもないのに、上手いこと私から侑に交際をねだったような形になってしまった。何と返すべきか迷っていると、もう話は終わったとばかりに侑が去って行くので、私はしてやられたと歯を噛んだ。



「そういや消しゴム落ちてたで」
「ほんま? ありがと」
 学級委員の飯塚君から消しゴムを受け取り、私は手の中で転がしてみる。受け取ったはいいが、私は消しゴムを落とした覚えはない。そもそも何故私のものだと思ったのだろう。消しゴムを裏返してみると、そこには黒の油性ペンで「苗字」と書かれていた。
 私は消しゴムを持ったまま固まる。これは多分、おまじないというやつだ。消しゴムに好きな人の名前を書いて、誰にも見つからなかったら恋が叶うという。自分の名前が書かれた消しゴムを見ながらそんなことを思うのは恥ずかしいが、それ以外に思い当たる節がない。そして、消しゴムに私の名前を書きそうな奴なら知っている。
「これ、落としたで」
 私は悩んだ末に消しゴムの持ち主――侑に消しゴムを返した。侑が私を好きであるということは、まあなんとなく知っている。侑も隠す気がないようで、人気者の侑があからさまに私を好いているような言動を取った時には肝を冷やしたものだ。好かれている側の私がおまじないのかかった消しゴムを見て侑に返すのも変な話だが、私が侑の消しゴムを持っているよりはいい。侑は消しゴムを見たまま何も言わないので、「この消しゴム、侑のやろ」と言った。
「字だけで俺やってわかるんや?」
 侑は嬉しそうな、からかうような表情を浮かべる。一方的に気持ちを知られているのは侑だというのに、何故か私の方が窮地に追い込まれたような気持ちになる。私は葛藤を押し込めながら、決定打となる言葉を告げた。
「こんなおまじないするの、侑しかおらへんやん」
 遂に私は侑の好意を知っていると認めたことになる。これから返事を要求されるだろうか。見返りを要求されるだろうか。緊張する私とは対照的に、侑は至って落ち着いた様子だ。
「いやそれはわからんやろ。俺の他にも苗字が好きでおまじないするメルヘン野郎がおるかもしれんやん」
「せやけど!」
 既に侑は私が好きだということも、自分がおまじないをしたということも認めている。だというのにどうしてこんなに態度が大きいのだろうか。これではどちらが片思いしているのかわかりやしない。
「一番に思い浮かんだのが侑やっただけや」
 侑がときめいたような表情をするので、私が侑に好きだと言っている雰囲気になってしまった。否定するのも変に意識しているようだし、かといってこのままにしても侑にいいように転がされてしまう。片思いしているのは侑のはずなのに、私はとっくに侑の手のひらの上なのだった。



「本当に卒業してまうんですか」
 声のした方を見て、私は口を開けたまま言葉を探した。彼らしくない萎れた顔でこちらへ近寄ってくるのは、何度敬語を使えと言っても聞かなかった後輩・宮侑なのである。
「今日は敬語使うんだ」
 侑がしおらしくしているのが面白くて、私はからかうような口調で尋ねる。侑は私を責めるような目で見た。普段は侑がふざけて私が怒っていたのに、最後の最後に立場が逆転したみたいだ。
「だって、人にものを頼む時は丁寧な言葉使わなあかんから」
 侑は子供のような口調で言う。私は次の言葉を思い浮かべつつも、わざとらしく尋ねた。
「お願いって、何」
 調子に乗ってばかりの侑がこれだけ下手に出ているのだから聞いてあげないこともない。私の態度を咎めることもなく、侑は不安そうな瞳を揺らした。
「卒業しても、俺と会ってもらえますか」
「会わないって言ったら?」
 そんなつもりはないのに、必死な侑を見ているとつい意地悪したくなる。侑はまるで彼らしくない余裕のなさで叫んだ。
「会いに行きます! アンタがいくら嫌がっても、待ち伏せて会います」
「それじゃ選択肢ないやん」
 私が笑ってみせると、侑は今気付いたとばかりに小さくなる。その姿を愛おしいと思うのは、先輩として侑を見てきたからだろうか。
「後輩らしく、集合時間の十分前には着いててな」
 私がそう言うと、侑は目を瞬いてから「ハイ!」と返事をした。流石強豪の運動部だとでも言いたくなるような、大きな声だった。



「話があるんやけど」
 私は普段より緊張した面持ちで侑に話しかけた。その雰囲気で何かしらを察したのだろう。侑は面白がるように笑うとこちらを向いた。
「何や? 告白か?」
 侑にとってはほんの冗談のつもりだったのだろう。私が侑に恋愛感情を抱くはずがない、という前提から来ているのかもしれない。だが私は本気で侑に告白するつもりだったのだ。いや、正確には告白するために今週二人きりで話をしてくれと言うつもりだったのだが、図星には違いない。何も言えない私を見て、侑も自らの失敗を悟ったらしかった。
「あの……すまん……本当にすまんかった……」
 三分も沈黙が続けば、先に耐えられなくなったのは侑の方であったらしい。侑は情けない表情で項垂れた。
「何で私より侑の方が照れとんねん」
「だって! お前やぞ!」
 それは期待をしていいのだろうか。とにかく私もこの空気を脱したくて、早口に告げた。
「ていうことで、今週告白するから時間作っといて」
「嫌や! その間やきもきしとうない!」
「普通それ告白する側の台詞や!」
 侑は告白される側だというのに、どうしてこうも動揺しているのだろうか。今までずっと友達だと思っていた人に好意を持たれていたとわかって気まずくなるのはわかるけれど。
「今告ってくれや〜今日付き合えば三ヶ月記念日がお前の誕生日になってお得やし」
「損得感情で決めんなや」
 この浮ついた雰囲気に耐えられなくなったのだろう。今の侑は早く処刑されたい罪人のようだった。いつも侑にからかわれてばかりだったから、私が優位に立てるのが嬉しくてついつい告白を後にしたくなる。
「とにかく、今週の金曜! 昼休みに中庭や」
「嫌や〜何着てこ」
「制服に決まっとるやろ」
 普通この場で考えるのは告白に対する返事だろうに、侑は服が気になるようだ。長いこと友人でいた私が侑を裏切るのは、それなりに罪悪感がある。だがずっとそばにいて私の好意に気付かない侑にも少なからず責任があるのではないだろうか。大丈夫、フラれてもすぐに元の友人に戻れる自信はある。侑にそのことを伝えると、「俺はお前にフラれたら死ぬほど恨む」と言われた。だから何故侑が告白する側のようになっているのだろう。



 息苦しいテストを終え、テスト返却の時分になった。結果を楽しみにしている者から、冷や汗を流す者まで多様である。ちなみに私はどちらでもなく、平均点を超えていれば及第点だと思っている。
 順番を待っていると、名簿順が先の侑がテスト用紙を手に帰ってきた。その表情は、酷く動揺している。席に座る際ちらりと見えた用紙からは、平均点を大いに下回る点数が記されていた。
「あれ、男バレって赤点取ったらアウトなんやなかったっけ」
 テスト前に侑が触れ回っていたことだ。赤点を取ったら三年の怖い先輩に詰められると大きな声で嘆いていた。侑は私に点数を見られたことに気付いたのか、明らかに肩を震わせてみせた。
「いや、点数なんていくらでも偽造できるし」
「はあ? 嘘の申告するんか」
「ええやろ! 部活での沽券が関わっとんねん!」
 私は呆れて侑を見た。いくら赤点以下でも、点数を偽造するよりましに決まっている。三年の先輩だってそう思うのではないだろうか。
「上手く行くとええなぁ。もう侑の点数は知ってもうたけどな」
 からかうようにそう言うと、切羽詰まった様子の侑が口を開いた。
「お前っ……俺のこと好きなん言いふらすぞ!」
 侑としてはこれ以上ないカードを切ったつもりなのだろう。実際、普通に話をしていたはずが私の恋心を持ち出され動揺もしている。しかし、残念ながらその脅しは効かないのだった。
「私の気持ちなんて全員気付いてるからええよ」
 侑は悔しそうな顔をした後、急に真面目な表情に戻って言った。
「お前メンタルどんだけ図太いねん」
「点数偽造しようなんていう図太さのある男好きになってもうたからなぁ」
 侑は机に突っ伏してしばらく考え込んだ後、顔をこちらに向けて私を覗き込んだ。
「追試になったら、勉強教えてもらってもええか?」
 私は小さく笑ってから、「ええよ」と言った。色々と、上手く行きそうだ。



※完結一周年記念に書いたものです。
 七月二十日、私達は付き合って一年を迎えた。お互いそれを忘れてしまうほど関心がないわけではないものの、特別に何かを企画するほど熱があるわけでもなかった。ただ事実として付き合って一年になったというだけで、ラインでは私は恥ずかしくてそのことに触れることすらできなかった。しかしこんな日に限って侑の朝練はオフになったらしく、登校中に出会してしまう。付き合っているのだから素通りするわけにもいかない。記念日のはずなのに、何故どちらかの浮気を目撃したような雰囲気になっているのだろう。多分私達はお互いを深くまで知りすぎたために、世間一般のカップルのようなことをするのが気恥ずかしいのだ。案の定侑は私の横に並んでも大して口を開かなかった。朝はテンションが低いということを知っているが、それにしても今日は特別だ。私の恥じらいに乙女心が勝ち、私は遂に話題に出した。
「今日で一年だね」
「おん」
 たった一言で終わり。この会話だけ聞けば倦怠期だとでも思われてしまいそうなくらいである。だが侑も私と同じで、今更私相手に色めき立つのが恥ずかしいだけではないのだろうか。そう思っていた時、侑が言い訳のように口を開いた。
「一年なんてめでたくないねん。俺はほんまもんの愛しかいらん」
 侑の言いたいことはなんとなくわかる。気持ちが本物であるならば、付き合った日数は関係ないということだ。一年を祝ってくれないならば、侑が満足するのはいつなのだろう。
「つまり永遠がいいってこと?」
 私が冷やかすように聞けば、侑は顔を逸らしながら「おう」と答えた。高校生にしては照れが伴うだろう言葉を侑は簡単に了承してみせる。
「今かなり恥ずかしいこと言ったの気付いてる?」
「恥ずかしないわ! 人が折角いいこと言ったら冷やかしよって! 今の結婚式で使うから録画でもしとけ!」
 私は笑って侑の隣を歩く。私達がこれから一生付き合っていけるかはわからないけれど、侑と永遠を夢見たこの瞬間は一生忘れないのだろう。折角だから写真を撮ろうと言うと、侑はめでたくないと言っていたわりには「インスタ上げて他の奴にアピールしとけよ」と言っていた。



 宮侑とは女遊びの激しい男だとつくづく思う。席替えをしてからというものの、侑を訪れる女子生徒は後を絶たない。そして侑は笑顔で相手をしてから女子への厳しい評価を私に話すのだ。侑の女遊びの報告を受けるというのは侑の隣の席の役目なのだろうか。美人にも下される無し判定を聞かされるのは特別であるようにも思えるが、私自身が侑の恋愛対象に入っていない証拠だろう。私はここ一年誰とも付き合っていなかった。ちょうどクラス替えをした頃からだ。侑はそんな私をよくからかった。私からしてみれば侑に女の気が多すぎるのだけど、侑にとっては私が喪女であるように見えるのだろう。私が男女の付き合いについて聞くと、侑は得意げに話してくれた。
「いくら可愛くてもマグロの女はあかん。セックスは声出してなんぼや」
 平日昼間から隣人の夜の事情を聞かされる私の気持ちがわかるだろうか。どうにか話を全年齢へ戻そうと、私は侑へ気になっていたことを聞く。
「キスはいつするん?」
「そら相手を好きやって思った時やなぁ」
 侑が口を閉じるより早く、私は顔を寄せ一瞬だけ侑に口付けた。顔を離すと、侑は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
「したけど」
 侑の言った通りのキスである。侑は私が侑を好きだなど夢にも思っていなかったのだろう。遊び男が聞いて呆れるほどの情けない表情を晒していた。見たことか、と私は心の中でほくそ笑む。私を喪女だと馬鹿にしているからそうなるのだ。私だって恋愛をするし、好きな人のために彼氏を作らずにいる。それを自分以外の理由だと勘違いした侑の負けなのだ。



 侑がモテるのは知っていた。だが昼休みの外廊下という、誰が通るかもわからない場所で公開告白するほど大胆な女子に好かれているとは思わなかった。唾を飲み込みながら私は告白を見守る。予想通りと言うべきか、女子の告白は情熱的なものだった。
「あー、今俺彼女おるから」
 侑は数秒間を置いて答える。本当はすぐにでも斬ってほしいが、結果として断ったので及第点だ。女の子は「わかった」とだけ言うと、私とは反対方向に逃げて行った。侑が歩き始めると、必然的に目が合う。
「あの断り方やと私と付き合ってなかったらあの子はアリってこと?」
「見てたんか? 趣味悪! どうせなら出てきて俺を奪うとかせぇや」
 私も私で可愛くないことを言っているが、侑の言っていることもカップルらしからぬことだ。挨拶のように貶されるのはいいとして、他人の告白の邪魔などできるはずがない。結果として、侑があの子自身のことをどう思っているかは謎だということがわかったのである。私の視線を受け、侑は居心地悪そうに答えた。
「まあ、アリではあったな」
 やはり侑はあの子のことを気に入っていたのだ。私と付き合っているからと言ったものの、いつあの子に取られるかもわからない。そもそも、恋人がいるのに異性をアリかナシかという目で見るのはどうなのだろうか。私の表情を見て言い訳をするように侑は頭を掻いた。
「それとこれとは別っちゅうことやろ」
「は?」
「可愛いと思う女と実際付き合いたい女は別ってことや」
 私は数秒止まって意味を考える。甘い台詞が来るのかと思いきや、実際は可愛くないと言われたようなものだ。侑はこれでフォローした気になっているのだろうか。
「何それ、私のことも可愛いって言えや!」
「はいはい、可愛い可愛い」
 侑の言葉にあまりにも覇気がなかったので私は「もう一回!」と叫ぶ。すると通りかかった男子生徒が「侑イチャついとんなー」と言うので、私は「イチャついてないわ!」と誰かも知らない男に言ったのだった。



「二年の先輩に告白されたんスけど、付き合ってもいいスか」
「へっ!?」
 突然の出来事に、私は思わずバレーボールを握りしめた。今は自主練の終わった体育館にてボール磨きをしていたところで、唐突に影山君に話しかけられたのだ。背後から姿を現された上に、内容が内容である。影山君が、告白された? 問題はそれ自体より何故影山君が私に言ってくるかだった。
「あの、何で私に?」
 私は動揺を悟られないよう努めて冷静な声を出す。すると、またなんてことない調子で影山君が口を開いた。
「苗字さん、俺のこと好きじゃないスか」
 あまりにも単純に語られた私の恋心に私は叫び出したくなった。いくら影山君が鈍感とはいえ、同じ部活で毎日顔を合わせていればそれは気付くかもしれない。けれど、いくら何だってこんなにムードのない場所で言わなくてもいいだろう。私は満身創痍になりながら口を開く。
「ダメ、って言ったら付き合ってくれるの?」
 これは私なりの賭けだった。影山君が私の気持ちに気付いた上でわざわざ聞いてくるのならば、私に少しは気があるのではないか。いや、影山君のことだから大したことは考えていなくてただ先輩に同情して声をかけただけなのか。私の胸の鼓動も知らず、影山君は変わらない表情で話す。
「いや、苗字さんと付き合おうとかは別に思ってないんスけど、俺が他の人と付き合って苗字さんが悲しむならそれはすげぇやだなって思って」
 私は呆気に取られて影山君を見た。今私は一度フラれた。しかしその後、影山君は私が悲しむのは嫌だと言わなかったか。それを私のことが好きだと捉えるのは拡大解釈ではないだろう。この、人の気持ちには敏いくせに自分の気持ちには鈍い後輩に、どう下心を見せずそれを伝えようか。私はごくりと唾を飲み込んだ。



「俺、苗字さんは面食いなのかと思ってました」
「へっ!?」
 部活の帰り道、最後尾で私に並んだ影山君は唐突に爆弾を落とした。困惑する私に影山君は「及川さんと付き合ってたから」と言葉を続ける。それで合点がいった。私と及川は中学時代付き合っていた。ちょうど三年の時だから、影山君も知っていたことだろう。確かに及川はイケメンで有名だったけれど、私はイケメンだから及川と付き合ったわけではない。まあ、顔が好みだったというのも少なからずあったけれど、付き合う男は皆及川並みの美形でないと嫌だと主張できるほどの顔面は私にない。
「そんなことないよ」
 私が否定すると、間髪入れずに影山君が言った。
「じゃあ俺にもチャンスがあるってことですか」
 私は呆気にとられて影山君を見る。影山君は、私と恋仲になりたいと思っているのだろうか。今までそんな素振りは全くなかった。隠していただけだろうか。急かすような影山君の瞳と目が合って、私は慌てて答えを探した。
「影山君も、イケメンだと思うよ」
 影山君の言いぶりだと、まるで及川はイケメンだが影山君はイケメンではないように聞こえる。だが私からしてみれば影山君も十分美形だと思う。人によって優劣はつくはずだけれど、影山君は決して自分を卑下するような人ではない。そんな意味を込めて言ったはずが、影山君は照れくさそうな顔をして前を向いた。
「そっスか」
 それだけ言って影山君は黙り込んでしまう。その横顔をそっと覗きながら、私は影山君をフォローするはずがとんでもない場所に火をつけてしまったのではないかと思った。



 他校へ向かうバスを待つ間、私と影山は二人になる。どうやら日向は今日に限って自転車の調子が悪いようで、時間がかかっているそうだ。一応バレー部に連絡は入ったが、一着を目指している時間帯に出ているのだから遅刻はしないだろう。普段日向と順位争いをしている影山は手持ち無沙汰に見えた。他の部員が来るまで無言でいるのも変に思い、私は適当な話を振る。
「影山ってさぁ、どんな子が好きなの?」
 影山は不意を突かれたように目を瞠った。影山は恋愛談義をしたりしないだろう。だからこそ気になってしまったのだ。「馬鹿なこと聞かないでください」と一蹴されるかと思ったが、意外にも影山は乗ってくれるようだった。
「手の綺麗な人が好きです」
「へ〜え……」
 何とも影山らしい答えだ。やはり自分が手に気を遣っていると、人の手にも注意が行くようになるのだろうか。
「ちなみに私は?」
「綺麗です」
 影山が照れもせず言うものだから、逆にこちらが恥ずかしくなってしまう。しかし本来私が影山をいじってみたくて始めた会話だということを思い出し、私はさらに影山をからかうことにした。
「もしかして私のこと好き?」
 ここまで言えば流石の影山も「やめてください」と取り乱すかもしれない。月島あたりならば蔑んだ顔を見せそうだが、影山ならば純情に顔を赤くすることもあるだろう。しかし影山は平然とした顔で「はい」と答えた。
「……えっ? そうなの?」
「俺は苗字さんのことが好きです」
 どうしてこうなってしまったのだろう。影山を動揺させる作戦のはずが、動揺しているのは私の方だ。影山も影山で、何故こんな雰囲気もない状況で告白するのだろう。告白しているという自覚はあるのかと聞きたくなるほど冷静な顔つきをしている。
「影山緊張とかしないの!?」
「あんまりしません」
 そうだ、影山は全国レベルのバレー選手だったのだ。納得したところで遠くから田中がやってくるのが見えた。影山はすっかりバレーモードに戻った様子だ。どうやら私に返事を求める気はないらしい。部活の後輩が私に想いを寄せているという事実を知ったまま、私はどう過ごせばいいのだろうか。



 私は隣の席で補習プリントに勤しむ影山を見つめた。影山の顔は整っている。スタイルもいいし、バレーだってできる。今でもモテてはいるが、授業中に白目を晒していることが傷だろうか。影山のバレーの上手さがいまいちよくわからない一般人にとって、影山は存在感のないクラスメイトでしかないのだ。
「影山は大学生とかになったら絶対モテるよね」
 私はしみじみと言う。影山が大学へ進むのかはわからないが、その頃には影山がバレーにおいてどれだけ優れているかを実際的な数字で見ることになるだろう。遊ぶことが仕事だと言ってもいい大学において、学力の低さはあまり気にならない。もしプロの道へ進もうものなら、女などよりどりみどりだろう。少し失礼な発言かとも思ったが、影山は顔を上げて目を輝かせた。
「本当ですか! じゃあ高校卒業したら付き合ってください」
 影山は何を喜んでいるのだろう。モテそうと言われたことが嬉しいだけなら私と付き合う必要はない。影山は誰でもいいのだろうか。
「影山私のこと好きなの? ていうかそんなに待たなきゃいけないの」
「俺は待てますけど」
 平然と返され、これでは私達がお互いに想いあっているみたいだと思った。今は気持ちを通じ合わせ、いつ付き合うかという話をしているのではなく、将来の話の例えをしていたのだ。影山は私が好きなのかという質問に対して答えない影山もずるい。ここで私が待てないと言ったら、私の方が影山を好きであるようではないか。影山が私を好きなのかも、私が影山を好きなのかもわからないけれど、どうせ付き合うなら早く付き合いたいものだ。
「私は、待てないよ」
 遂に口に出してしまった。影山のことなどただの隣人だと思っていたはずなのに、どうして自分から交際を持ちかけるような話になってしまったのだろう。思い起こしても発端は自分で、頭が痛くなった。
「わかりました。じゃあ今付き合いましょう」
 影山君が了承する形で私達の付き合いは始まった。お互いに好きかもわからないのに付き合ってしまって大丈夫なのだろうか。だが不思議と、影山となら上手くやれそうな気がするのだった。



 及川さんに会ったのは偶然だった。大会を観に行ったのは影山君を見るためなのだが、宮城県の男子のバレー大会となれば当然及川さんもいることだろう。正直私と及川さんはそこまで親しくないのだが、及川さんは軽い調子で私に話し続けている。及川さんも暇だから私を話し相手にしているだけなのだろう。体育館の片隅で立ち話をしていた時、唐突に背後から近寄る足音がした。
「及川さん、あんまそいつに構わないでもらえますか」
 影山君だ。私は思わず振り返った。及川さんを嫌いなわけではないが、私の表情は晴れていったことだろう。何しろ今日は影山君を見に体育館まで来たのだ。
「何? 飛雄ちゃんこの子のこと好きなの?」
 及川さんはからかうように尋ねる。しかし、影山君は至って真剣な表情で答えた。
「違います。苗字が俺を好きだと言ってるんです」
 仮にもここは人の多い体育館で、少なくとも共通の知り合いである及川さんは聞いている。だというのに影山君は何の迷いもなく堂々と言った。私は途端に消え入りたくなる。私の気持ちに気付く鋭さはあるのに、どうして変なところで鈍いのだろう。
「飛雄ちゃんは好きじゃないんだ?」
「好きじゃありません。でも及川さんがそいつ構ってるとモヤモヤします」
「それを好きって言うんだよ。こんなことしてないで早く告白しろよ」
 当人である私を置いて二人の話は進んでいく。どうやら影山君が私に告白するということになっているらしい。それだけでもどうにかなりそうなのに、目の前で聞かされているのだから頭が爆発しそうだ。影山君は「わかりました」と言うと、私に向き直った。
「苗字さん、好きです」
 私は思わず叫び出したくなる。それは長年慕っていた影山君と気持ちが通じ合ったからだけではない。及川さんの指揮下で、及川さんもいる前で告白されたからだ。告白とはこう、もう少し場の雰囲気を考えてするものではないだろうか。とはいえ私が好きになったのは鈍感な影山君なので、私は諦めてオーケーをした。及川さんは鼻を鳴らした後どこかへ歩いて行った。



「あの、セックスしてほしいです。酔った勢いで連れ込むとか嫌なんで」
 影山君にそう言われた時、私は呆気に取られて言葉を失った。合意のないセックスが嫌だという律儀さは伝わってきたが、雰囲気というものも少なからず必要ではないだろうか。私はとりあえずこの空気をなんとかすることにした。
「素面でそれ言うと気まずいから人はお酒の力を借りるのでは……?」
「で、苗字さんはどうなんスか」
 影山君は頑なに私の返事を聞く気だ。だが世の人間全てが影山君のように直球に物事を言える者ではない。お酒の力や雰囲気に任せないとオーケーの一つも言えない人間もいるのだ。
「とりあえずお酒飲んでいい……?」
 影山君は誤魔化そうとする私を見かねたらしい。不服そうな表情で、「どっちですか、言ってくれないとわかりません」と言った。お世辞にも影山君は察しがいいとは言えない。含みのある言葉や雰囲気だけでは私の本心は伝わらないだろう。つまり、高校生のように言葉に出すしかないのだ。
「ああもう! いいよ! 影山君とセックスする!」
 すると、影山君は話を持ちかけた側のくせに驚いた顔をしていた。
「苗字さんも付き合ってもない人と一晩だけとかするんですね。酒も入ってないのに」
 どうやら影山君はセックスの承諾イコール好意だと捉えられなかったらしい。これもまた言葉にしなければ伝わらないのだろう。私は諦めて口を開いた。
「だから好きだって言ってんじゃん」
「え、そうなんスか?」
 浮ついた話をしているはずなのに、まるでそれらしい雰囲気がない。私は照れを誤魔化すように、「だから酒飲めって言ってるじゃん」と呟いた。
「嫌です、飲みません。苗字さんの全部素面で見たい」
 私のこと大好きかよ、という言葉を飲み込んで、私は水をひと口飲んだ。



「影山君、次指されるよ」
 私は授業中だというのに眠りこけている影山君の体を揺すった。影山君はすぐに覚醒すると、教科書に目を移し当てられる準備をする。影山君が夜遅くまでゲームをしているところは想像できないから、きっとバレーで疲れているのだろう。影山君が隣になってから、似たようなことが毎日続いていた。
 チャイムが鳴ると、席に着くと同時に影山君はこちらを向く。
「苗字さん、ありがとうございます。苗字さんだとすぐに起きれます。一生俺のこと起こしてほしいです」
 もはや影山君の居眠りが常習化しているということはどうでもよくなり、私は影山君の言葉ばかりに気を取られた。高校の座席とは一時的なものだ。すぐに席替えがあるし、卒業すれば別々の進路を歩むことになる。それを影山君は「一生」と言ったのだ。味噌汁を作ってほしいと言われたわけではないが、これはプロポーズの言葉に等しいのではないかと思わずにはいられない。少なくとも私が動揺しているのは確かだ。
「それどういう意味で言ってる……?」
「だから、苗字さんだとすぐに起きれるからいつも起こしてほしいなって。でも一生だと卒業してもそばにいないとダメっスね」
 恐る恐る聞くと、影山君も言葉の意味を理解しつつあったらしい。これで訂正されるだろうかと安堵したのも束の間、さらに大きな爆弾を落とされた。
「やっぱり一生苗字さんに起こしてほしいです」
 それってどういう意味、と先程と同じ言葉を叫びたくなる。以前はまだ影山君に自覚がなかったのだ。だから影山君の天然の為せる業と言えた。だが今度は影山君も、言葉に出して自分が言ったことの意味を理解したのだ。その上で一生起こしてくれとはもう、プロポーズ以外の何物でもないのではないだろうか。
 確かめるにもあまりに影山君が平然としているものだから聞きづらい。少しは恥ずかしそうな顔をしてくれればこちらもそういう雰囲気になれたというものだ。私は大きな咳払いをして、今回の発言をなかったことにした。だが、今後影山君へ接する態度が変わってしまったのは間違いないだろう。



「すみません、バレー部の先輩が観に来るので迷惑かけるかもしれません」
 昼休み、私は影山君に唐突に話しかけられた。影山君は私の斜め前の席であり、仲が良いと言えなくもない。影山君に迷惑をかけられるのならわかるが、何故バレー部の先輩なのだろう。
「いいけど何で?」
「好きな人の話になって答えたら見たいって言われたので」
 私は全身を稲妻に打たれたかのような心地になった。衝撃的なのは、影山君がとんでもないカミングアウトをしたというだけではない。私を好きだと示しながら、何事もなかったかのように去ろうとしていることだ。
「待って……その、何か話とかあれば」
「ないっスけど」
 影山君に縋り付けば、当然のように首を傾げられ私が困る。普通、好きという言葉の後には交際の申し込みが続くものだ。自分を好きだと知っている相手と日常生活を送るのは何かと難しい。私達のように席が近ければ尚更だ。影山君は直接「好き」という言葉を使わなかっただけに、私が言わせる必要まであることが余計事態をややこしくしている。
「な、何で私にしたの?」
「考えなくても決まってるんで」
 楽になるために質問をしたというのに、余計むず痒い気持ちになってくる。影山君は何も恥ずかしくないのだろうか。いっそ私の認識が間違っているのかもしれない。
「影山君は私を好きってことでいいんだよね? 勘違いじゃなくて?」
「勘違いじゃねぇっス! 俺は苗字さんが好きです」
 恥も忘れて自分で好きだと声に出すと、想像以上に自信を持った態度で返された。あまりの音量に驚いてしまったくらいだ。影山君の声はクラス中に聞こえていたことだろう。現に、クラスメイトがみんなこちらを見ている。影山君の気持ちを疑ったのが影山君の心に火をつけてしまったようだ。廊下からこちらを覗き込んでいる知らない顔は影山君の先輩なのだろう。助けを求めるように見ると、ガッツポーズをされた。これは頑張れという意味なのだろうか。とりあえず、走り出した噂の収拾がつくように交際を申し込む旨を影山君に入れ知恵してほしい。



「信じられない! 本気で怒ってるのに何でキスするの!」
 飛雄が唇を合わせた先にあったのは甘いムードではなくさらなる怒りだった。些細なこと――と言っても私にとっては譲れないことで喧嘩をした私は、話し合いの最中に突然キスをされたのだ。それが結果的に私の怒りに火をつけた。私は事態を解決したくて歩み寄っているのに、キスで有耶無耶にしようなど甘く見られているとしか思えない。
「彼女が怒ってたらキスしとけばいいって中学の先輩が言ってました」
 飛雄はあっけらかんと言う。純粋なのは飛雄のいい所ではあるが、変な人が身近にいると影響を受けすぎてしまうという欠点があった。飛雄の言う「中学の先輩」は、やたら飛雄の話に出てくる。よく聞いてみれば、バレーボールでの師匠にあたるらしい。
「その人絶対女をバカにしてるでしょ!」
「そういう感じはあります」
「飛雄も同じだからね! 反省してるの!?」
 飛雄が女をバカにしていると言うほど失礼な言動をしたわけではないが、今の行動に私と真っ向から向き合おうという誠実さがなかったのは事実だ。ここで少しはしおらしくなってくれれば私の怒りも収まったものを、飛雄は相変わらず堂々とした態度で言った。
「別によかったのかなと思いました、名前さんキス好きなんで」
 そういうことではない、と言いたくなる。いくらキスが好きだろうがそれは甘い雰囲気の時の話だ。真剣に話し合っている時にキスで誤魔化されて喜ぶほど私は馬鹿ではない。しかしキスが好きなことは事実で、私は口を噤む。
「これから喧嘩したらキスするルールにしませんか?」
「は? そんなんいいわけないじゃん」
「でも今効果あったじゃないですか」
 結果的に私がキスで誤魔化されていることを見透かされているらしい。飛雄とのキスでときめいたのは事実であるだけに何も言い返せない。それをいいことに、飛雄は二人の付き合いに新たなルールを加えた。結局私は飛雄と飛雄の先輩の思惑通りの安い女ということだ。



 影山君に告白された時、私は走って逃げた。私は影山君に好かれるほど出来た人間ではないと思ったからだ。影山君は私の無礼な態度を咎めることもせず優しく接してくれた。その度に戸惑う私は、まるで片思いされている方だとは思えなかった。影山君からの二度目の告白はない。しかし影山君の態度や言葉が、影山君はまだ私を好きであると伝えていた。
 人の少なくなった放課後に、遂に私は一線を超えた。
「何で影山君が私なんかのこと好きになるの」
 答えてもらっても気持ちに応えられるわけではないし、自虐など反応に困るだけだとわかっていた。それでも言わざるを得なかった。影山君はイケメンで、バレーができて、女子に人気なのだ。私を好きになる要素など一つもない。これで影山君が諦めてくれるならある意味で楽になれるのかもしれなかった。
「俺が苗字さんを好きになったらいけないんですか」
 影山君は当たり前のように返す。その冷静な表情からは、本人と恋愛の話をしているのだとは思えないくらいだった。
「そ、それは……影山君はバレーとかうまいし」
「俺がバレーできることと苗字さんが地味なことは関係ないですよね。俺は苗字さんと付き合いたいしキスもセックスもしたいって思ってます」
 真顔で吐くには恥ずかしい台詞を影山君は言ってのける。言葉のインパクトに押される私に追い討ちをかけるように、影山君は続けた。
「アンタがいくら自分を卑下しても、俺は苗字さんを好きなこと辞めませんから」
 影山君が諦めてくれたらという私の僅かな望みすら見抜かれていた。いや、影山君に見放されたら私も悲しいのだ。それ以上に、影山君に好かれているという現状の居心地が悪いだけで。つくづく自分は面倒くさい性格をしていると思う。
「苗字さんに謙遜するなとは言いません。俺は自己否定するアンタも含めて好きです」
 影山君は私とは対照的な、自信に満ち溢れた表情だった。私が好きだという気持ちに微塵の迷いすらないのだろう。時折そんな影山君が眩しくなる。正反対だからこそ釣り合わないと思うと同時に、惹かれてしまう部分もあるのだろう。私も影山君のようになれたら、自分の中に芽生えている小さな気持ちを素直に肯定できるようになるだろうか。



 同じクラスの苗字さんに告白された。よく喋る仲だし、決して嫌ってはいない。むしろ好きな方だ。だが俺は恋愛感情の好きという気持ちがわからなかったし、中途半端な気持ちで付き合うのは苗字さんに失礼だと思った。できる限りの誠意を尽くして断ると、苗字さんは悲しそうに笑って去って行った。自分の弁の立たなさに苛ついた。それからだ、苗字さんが変わったのは。
 以前のように話すこともなくなったし、挨拶すらしてくれない。目を合わせることも少なくなった。避けられているのだ。前は何度も俺に寄ってきて、くだらない話題で盛り上がっていたのに。俺は朝練から帰った後苗字さんの笑顔を見ることを、楽しみにしていたのだ。
「何で俺の所に来ないんですか」
 察するなんて器用なことはできない。素直に苗字さんに聞くと、苗字さんは途端に俺との距離を取って手を振った。
「無理だよ! フラれたばっかりだもん」
 俺は唇を尖らせる。フるのかフラないとか、そんなに恋愛が大事なのだろうか。俺は恋愛ごときに苗字さんとの仲を邪魔されたくはない。俺は苗字さんに以前のままでいてほしいのだ。
「俺はアンタが尻尾ふって構ってくれないと無理です。俺にはアンタが必要なんです」
 苗字さんが考えを改めるように強い言葉で言うと、苗字さんは少し考え込んだ後期待するような表情で俺を見上げた。
「それを好きって言うのでは?」
 出た。また恋愛の話だ。俺は辟易しながら思ったままに話す。
「恋愛はよくわかりません。ただ苗字さんといたいんです」
「それ! 今感じてるその気持ちが恋愛なの! 他になんかない?」
 苗字さんに聞かれ、俺は頭にあることをそのまま口に出した。
「苗字さんを帰したくありません」
 すると先程までの元気はどこへ、苗字さんは顔を覆って黙り込んでしまった。「そ、そんなことまで思ってたの……」呟く声は随分弱々しい。
「大丈夫ですか」
「影山君のせいだからね!」
「え」
 驚いていると、きっとこちらを睨んだ苗字さんが廊下へ駆けて行った。結局、俺は苗字さんを取り戻すことに失敗したらしい。



「やっぱさぁ、男ウケが一番いいのはポニテらしいよ」
 体育館脇を通った時友達と話していたのを聞かれていたのだろう。後日、体育もないのに私が髪を一つに結んでいると、飛雄は目敏くそれを見つけた。
「別にポニーテールだからって好きになる人はいないと思いますよ」
「うるさい! 私のこと好きなくせに!」
 言葉にしてみれば随分と幼稚なやり取りだろう。だが冷静な飛雄に対して私が持っているカードはそれくらいしかなかった。私が飛雄の上に立てるのは、恋愛という一点においてだけなのだ。
「だから何なんですか?」
 てっきり慌てふためくと思っていた私は、飛雄の反応に動揺した。普通、好きな相手に自分の気持ちを悟られたら少なからず焦るものではないだろうか。飛雄は気にもしないほど肝が据わっているのだろうか。
「俺は苗字さんに気持ちが伝わって嬉しいです。俺の気持ちがバレて返事に困るのは苗字さんの方じゃないですか?」
 飛雄の瞳に射抜かれ、私は思わず身じろぐ。
「な、飛雄のくせに! 何で私の方が追い詰められてるみたいになってるの!」
 私に片思いをしている、しかもその気持ちが知られている立場で、何故アドバンテージを得たように見下ろすのだろうか。「飛雄のくせに」という一言にこそ、私の気持ちが詰まっているような気がした。
「じゃあ今すぐ返事できるんですか?」
 飛雄に畳みかけられ、私は言葉をなくす。知りつつも答えを出さなかった飛雄の気持ちに向き合わなければいけない時が来たのかもしれない。
「じゃあ、飛雄――」
「やっぱりいいです、返事はまた今度、苗字さんが俺に言いたくなったタイミングで」
 私が言いかけたタイミングで飛雄は遮る。私は拍子抜けしたような気持ちになった。折角勇気を出して決断しかけたというのに、飛雄にふいにされた気分だ。飛雄に尋ねられたという今の状況ならオーケーもしやすかったというものだが、この機を逃せば私は世間一般の男女がしているように相手を呼び出して告白まがいのことをしなくてはいけなくなる。気を遣っているようでいてやっていることは随分挑戦的だ。またややこしい相手に好かれてしまったものだと、私は唇を噛んだ。



「あの、笑顔ってどうすればいいですか」
 訳もわからず停止する私に、影山君は試合中に笑顔でチームの雰囲気を和やかにしたいこと、チームメイトに笑顔が下手だと言われたことを話した。普段の影山君の生活ぶりを見ていたら納得できる内容だ。影山君はお世辞にも愛想の良い方ではないし、意識の殆どをバレーに向けているように見える。
「でも、何で私に?」
 私の一番の感想はそれだった。影山君には失礼だが、高校生にもなって笑顔が苦手な人間など早々いない。チームメイトでも仲の良い友達でも、適当に見繕って聞けばよかったのではないだろうか。何も私でなくとも。私がそう思うのも無理はなかった。私と影山君は一応同じクラスに所属してはいるものの、話したことは数度しかないし、挨拶だって碌にしない。何ならまともに話したのは今日が初めてだ。ほぼ初対面の人間に笑顔の作り方を問う影山君の思考は理解できなかった。影山君という人間の解釈に悩んでいる真っ只中に、影山君はさらに私をかき乱す。
「苗字さんの笑顔が、一番素敵だと思って」
 思わず口を開けたまま放心した。笑顔が素敵だとは大人の世界でよく使われる褒め言葉、いや口説き文句だ。異性に向けたら普通は好意を示すということを影山君は知っているのだろうか。微動だにしない様子を見ると、影山君は気付いてもいないのだろう。男女恋愛に浮かれるタイプだとも思えない。影山君は口説き文句だと知らずに、本当に文字通りの言葉を感じただけなのだ。
 意味を知っているだけに、私の体中は混乱した。自分で言ったくせに全く揺らいでいない影山君が憎いくらいだ。自分と戦う私を影山君はそっと覗き込んだ。
「教えてくれないんですか?」
「笑顔っていうのは作るのが難しいものなの!」
 咄嗟に考えたにしても苦しい言い訳だろうか。少なくとも今普段通りに振る舞えと言われても無理な話だ。影山君は頷くでもなく、冷静に私を見下ろした。
「でもさっきから笑ってますけど」
 素早く口を押さえる。私は今、笑っていたのだろうか。つまり影山君に口説かれて有頂天になっていたのを隠しもしなかったと。私の中の葛藤は全て影山君に由来するものなのに、影山君が平然としているのが悔しくて私は心の中で叫ぶ。
「この鈍感!」



「はぁ……」
チャイムの音を聞きながら、私は机に突っ伏した。今六限が終わったところなので、部活のない私はこれから放課後となる。今日は何の予定もないので自然と付き合っている彼氏と帰ることになるのだが、どうにも楽しく話をすることができそうにないのだ。
「会いたくないなぁ……」
そう零した私に、前の席の木兎が後ろを向いて口を開いた。
「そんなに悩むならやめちゃえばいいじゃん。恋愛っていい気分になるためにするもんだろ!? 苗字みたいに毎日暗くなってんの、ホンマツテントー」
私と席が近い木兎は放課後私を迎えに来る彼氏の存在を知っているし、私が時たま零している彼氏の愚痴も耳にしていることだろう。よく話す仲とはいえ木兎に恋愛相談をすることはなかったが、いざ言われてみればこれまでにない正論である。私の心が別れる方向に傾いているのを感じながら私はスクールバッグを肩に掛けた。
「まさか木兎に恋愛論を語られるとはね」
「俺だって伊達に男子高生やってねーよ! 恋愛とは自分がいい気分になり相手をいい気分にさせるためにある」
何も考えていないように見えて、揺るがない軸を持っていたらしい。私が木兎の恋愛論に感心していると、ふととあることに気付いてしまった。
「……私も今、木兎のおかげでいい気分になっちゃったんだけど」
「じゃあ俺苗字のことが好きなのかもな!」
周囲に聞かれることも憚らず、木兎は大きな声で笑う。好きかもしれないと言っている本人がこの様子なのだから、私は困惑するばかりである。
「ちょっとそれどっちなの! 好きなら気まずそうにするとかしろ!」
叫ぶ私の視界の隅で、彼氏が教室のドアまで来たことに気付いた。木兎に相談してよかったと思ったのも束の間、結果として私の悩みは増えてしまった。この悩みの種をひと睨みしてから、私はドア脇の彼氏の元へ行った。



「焼死体の身元確認は、歯型でするらしいですよ」
「今それ言う?」
 私は顔を引き攣らせながら隣の赤葦を見た。現在は部活から帰る途中で、辺りはすっかり暗くなっている。電気の切れかかった蛍光灯が頼りなさげに道を照らしていた。木兎と赤葦の練習に付き合っていたおかげで、私まで遅くなってしまった。人の気配すらない道でそんなことを言われては、赤葦に焼き殺されるのではと失礼なことを考えてしまう。
「でも私、歯型ってないかも。生え変わってから歯医者行ってないんだよね」
 うちの親は教育熱心ではなかったが、代わりに日々の躾は厳しかった。毎食後歯磨きを欠かさずしていたおかげか、永久歯となった私の歯には虫歯がない。定期検診は学校であるので、ここ数年歯医者には行ったことがなかった。
「じゃあ苗字先輩が焼かれたら、俺が確かめますね」
 そう言った赤葦の真意を確かめるように赤葦を覗き込む。赤葦が身元確認をする、ということは私は死んで赤葦は生きていることになる。そんな物騒な設定で、愛の言葉を囁くだろうか。
「もしかして赤葦今口説いてる?」
「最初から口説いてます」
 私の歯型を全て覚えてあげる、という赤葦なりのアイラブユーであるという私の予想は当たったらしい。恥をかかずに済んでよかったような、マニアックすぎる愛に引くような、複雑な気持ちだ。いくら何でも焼き殺された設定で話をするだろうか。
「俺は言ったんで、次は苗字先輩の番です。答えを聞かせてください」
 赤葦に催促され、これは素直にイエスと言った方がいいのか、赤葦のようにウィットを聞かせて焼死体になぞらえた方がいいのか、私は悩んでいた。



 今日の合コンの収穫はなかった。全員見た目が私のタイプではなかったのだ。一応大手出版社に勤めているエリートではあるらしいが、私は婿探しをしに合コンへ来たわけではない。引き上げようとした時、その中の一人に声をかけられた。
「どうせ帰るなら、どう? 一緒に」
 彼の名は赤葦さんと言っただろうか。彼も仕事の疲れが顔に滲み出ているが、一緒に帰るくらいなら悪くない。私達は駅への道を共に歩いた。
「名前さん、つまんないって顔してたから早く抜け出したいのかなって思ってた。俺もそんなところ」
 話してみれば、赤葦さんとは結構な紳士で話も面白いらしい。合コンという場を抜け出してから私の赤葦さんへの評価は上がった。夜は更けている。私は赤葦さんとなら一晩くらい過ごしてもいいかと思っていて、赤葦さんは近場のラブホテルを指差した。
 言い訳をするならば、最近彼氏と別れてご無沙汰だったことだろうか。私は赤葦さんの策略に乗り、まんまとラブホテルに来てしまったのである。合コンでなしと決めつけた男とホテルに来るのはこれが初めてだ。しかし、赤葦さんもかなり手慣れている様子だったので女に困っているわけではないのだろう。私達は一晩だけはめを外したのだ。
 事が終わると、赤葦さんはベッドサイドから眼鏡を取った。
「もう少し股関節周りを柔らかくした方がいいと思います、体勢を変えようとしたら貴方が痛がったので」
 私は思わず赤葦さんを見る。たとえ一晩の仲と言えど、終わった後はもう少し優しい話をするものではないだろうか。これではまるで仕事のフィードバックだ。私の不満そうな雰囲気を感じ取ったのか、赤葦さんは続けた。
「肌はきちんと手入れされてるなと思いましたよ?」
「褒めろって言ってるんじゃなくて!」
 フォローされているはずなのに、どこか腑に落ちない。赤葦さんはまるで通販で商品を買ってレビューをするかのような口調で私を語るのだ。それが私には不服だった。
「別に貴方のために言ってるわけじゃありません、俺のために言ってるんです」
 意味がわからずに呆けていると、赤葦さんはこちらを見て笑った。
「次はもっと凄いことしましょうね」
 私は一瞬遅れて、この夜はワンナイトではなかったのだと理解した。



 治とセックスをしてしまった。それは若さと情欲に駆られた、過ちのようなものでもあるかもしれなかった。だが私と治の間に恋愛感情があったのは確かだろう。少なくとも私は治のことを特別に思っているし、治も私のことを気にかけていると感じたことがある。幼馴染だからという意味ではなく、異性としてだ。ただ、順番を間違えてしまっただけで。私達は好きだと伝えることもなければ付き合ってもいなかった。今すぐ触れ合いたいという欲が肥大化し、感情に流されるようにして付き合うことをスキップし体を重ねたのだ。ただでさえ幼馴染との恋愛は難しいものである。それも先にセックスをしてしまったとなれば、さらに拗れてしまうかもしれない。私は自分の恋が実らずに終わる覚悟もした。だが動いたのは治ではなく侑の方だった。
「治とヤったんやってな」
 どうして、という感情が顔に出ていたのだろう。侑は「見てたらわかるわ」と吐き捨てた。治が私とのことを侑に報告するところは想像できなかったのでなんとなく合点が行った。
「俺ともヤれや」
 そう言う侑は、治への対抗意識だけで私を抱こうとしているのだろう。治と幼馴染であるということは侑とも幼馴染であるということだ。今まで三人仲良くしていたのに、急に片割れに出し抜かれるのが気に食わなかったのだ。勿論、私に恋愛感情があるわけではない。私は今まで、治から感じていたような行為を侑から感じたことがなかった。
「嫌や、侑も好きな人作ってしてよ」
 私は治が好きだ。付き合っていないとはいえ治を裏切るようなことはしたくないし、侑の自己顕示欲に付き合う気もない。しかし侑は私に覆い被さりながら言った。
「お前やないと意味ない」
 それは治が抱いたのが私だからということはわかっている。しかし、そんな言い方をされると、まるで侑まで私のことを好きだと言っているようではないか。侑を拒否したいという気持ちは変わらないのに、私は抵抗する力が入らなくなった。このまま私の恋は終わり、乱れた恋愛関係だけが残るのだろう。頭では理解したまま、私はぼんやりと侑の手を受け入れていた。



体育祭で総合優勝した我がクラスの打ち上げは終盤になっても大盛況だった。体育祭実行委員をやっていた私は、同じく実行委員の治と並ばされて写真を撮られる始末である。実行委員と言っても成り行きで決まっただけであるし、隣の治などは部活が多忙であるため殆ど活動していない。先程までは主に女子が食べきれずに残したものを淡々と処理していたが、フォトタイムとなった今とりあえず食べることをやめたようだった。既に私達から仲良しグループでの写真撮影に興味が移った様子の女子達を眺めながら、治が横で口を開いた。
「ここで俺がお前を好きや言うたら、えらい盛り上がるんやろなぁ」
突拍子もない発言に驚きながらも、私は動揺を悟られぬよう冷静に突っ込みを入れる。
「盛り上げるためだけに告白すなや」
これだから陽キャラは、と心の中で付け足していると、思ってもみない方向から攻められた。
「盛り上げるためやなかったら、告白してもええんか?」
それではまるで、元から私のことが好きだと言っているみたいだ。今度こそ私は動揺を露わにしながら、なんとか言葉を紡いだ。
「そんくらい、自分で考えろや……」
「わかった」
治の顔を見なくても、治が隣で小さく笑ったのがわかった。実行委員をやるようになって気付いたことだが、宮治は近くで見ると想像以上にいい顔をしているのだ。先程クラスの女子達に指定された座席が隣同士でよかった。向かい合わせに座らせられていたら、私は勘違いをする痛い陰キャラになっていたことだろう。
「なあ、苗字」
「何や」
治は相変わらず近くのテーブルの女子達を見ながら言う。そのリーダー格が振り向いた時、治は彼女達の耳にも入るであろう声ではっきりと言った。
「好きや」
思わず私は隣の治を見る。その顔は悔しいくらいに整っていて、私を試すように笑っていた。



今日はテスト期間のため名前の部屋で一緒に勉強をしようという話になっていた。名前は成績もいい優等生だが、俺はそうではない。バツばかりが続くテキストには早々に飽きて、俺は名前に構い始めた。名前もちゃんと勉強するそぶりこそ見せれど、俺を誘ったからには最後までテスト勉強を貫く気はないのだろう。「もう」と言って俺の手を退けていた手が、今俺の手の中にある。気付けば俺達はテーブルから離れ、ベッドにもたれて身を寄せ合っていた。俺は名前の後頭部を掴み、顔を寄せる。すると名前が目を閉じて、俺達の間に流れる空気は密やかなものになった。
いつもならここで俺も目を閉じるのだが、ふと気になって俺は目の前の名前の顔を見てみた。そこにあったのは、まるで初めてキスをする中学生のようにギュッと目を閉じた名前の顔だ。思わず笑い出しそうになるのを堪えて、俺は名前の顔を見る。すると名前が異変を感じ取ったようで、目を開けて俺を見上げた。
「せえへんの?」
「するよ」
先程まであんな初々しい顔をしていたくせに、こうしてキスを強請るとは。名前の新たな一面に口元を緩めつつ、俺は名前にキスを落とした。口を離して見てみると、まるで腹一杯ご飯を食べ終わった子犬のような顔で名前が目を閉じている。また笑いそうになるのを堪えつつ、俺は名前から手を離した。名前はキス一回でやめた俺を不思議そうに見ている。俺は普段そんなにがっついていただろうか。
もう一度気を取り直して名前の後頭部を掴むと、また名前があの中学生のような表情をした。俺は笑いを噛み殺して時間の許す限り名前の顔を見る。名前が目を開けてキスをしない俺に気付くまで多分あと八秒。サーブを待っている八秒も好きだけど、この名前を待たせる八秒も結構好きだ。



「いらん」
 私が差し出した包みを見てそう言い放った治に、私は目を瞬いた。事件だ。年中食欲旺盛で食べ物は断らない治がいらないと言うなど、一大事だ。私は冷静に現状を整理した。
 今日はバレンタインで、女子達によるチョコレート交換会が行われている。私も例外ではなく、友チョコ、義理チョコを前日に作った。特に私には大食いの幼馴染がいるので気は抜けない。治が満足するであろう量を作り、他と同じく綺麗にラッピングしたチョコレートを今断られたのだ。私は治の手元を見た。私と鉢合わせるまでにもチョコレートを貰ったようで、手にはいくつかの包みを抱えている。どうやら全てを断っているわけではないらしい。では、チョコレートに飽きたのだろうか。あれほど食に執着している治が、食べ物に飽きるなどあるだろうか? 私は信じられないという表情で治を見上げた。治は満腹になった幸せそうな顔ではなく、少し怒った顔をしていた。
「それ、他の奴と同じのやろ」
「せやけど、治の分はちょっと量多いよ?」
 伊達に宮兄弟の幼馴染をしていない。治が大量に食べることなど承知済みである。私はとっくに治を特別扱いしているのに、治は不満そうな顔をした。
「本命やないチョコなんていらんのや」
「ちょ、治!」
 治が食べ物をいらないと言ったことにばかり気を取られていたが、治は今凄いことを言わなかったか。追いかけようにも足に力が入らなくて、私は治へのチョコレートを溶けるのではないかというほど握りしめていた。



※R18
 事が終わると、私は服も着けずに布団の中へ潜り込む。洗剤と治の匂い、あと少しの精液の香りで満たされているそこは気持ちよかった。私は治の体に密着したまま目を閉じる。安心感と倦怠感で眠ってしまいそうだ。そうしている内に治がこちらを向いたので、私は治の胸板に頬を擦り付けた。何の挿入も刺激もない肌と肌の触れ合いも結構好きだ。
「本当に好きな奴にもそういうことするん」
 斜め上から、治の声が降ってくる。私は目を開けないまま「どやろなぁ」と言った。治とは付き合っていないが、治以上に想っている男もいない。治は自分を浮気相手だと思い込んでいるのだろう。本当は一番の男なのだけど、そう伝えるのも面倒くさくて私は曖昧なことを言った。
「一番好きな人には、もっと凄いことするかも」
 治の気分が落ち込むのがありありとわかる。私は笑いながら目を開けて治に顔を近付けた。
「笑うなや」
「可愛くて」
 治の顔を掴んで、舌を絡めるキスをする。同時に治の体に手を伸ばして乳首を弄った。行為中は自分が攻めてばかりの治だが、たまに触れられるのも嫌いではないと知っている。
「……っふ」
 一度収まったはずの治の熱はすっかり蘇ったらしかった。下半身に手を伸ばして立ち上がっているのを確かめてから、私は体を起こす。
「しよっか」
 治のものに手をかけて顔を近付ける。治も、私もその気だ。だというのに治は冴えない表情をしていて、見ているこちらが悲しくなってしまいそうだ。
「どしたん?」
「名前に一番好かれてる奴は、これ以上のことしてもらえるんやと思って」
 私は黙らせるように口に入れた。男に奉仕する方法でフェラチオ以上のものを私は知らない。治以上に私のことを大事にしてくれる人も知らない。だけれども、治はそんなこと想像もしていないのだ。フェラ以外の物凄いことを、治の知らない男にしていると思い込んでいる。可哀想な気もするけれど、真面目に訂正する気も起きなくて私は陰茎で口を塞ぎ続けた。治は体をやや起こして悶えるような表情をしていた。



「ああーもう!」
 私は大声を上げて追加の酒を頼んだ。隣では、呆れた表情の治がグラスを傾けている。今日は、失恋した私の話を聞くために治に付き合ってもらったのだ。通常こういう場では同性の友達を呼ぶべきなのだろうけど、一週間の真っ只中の夜に呼び出せるのは個人事業主の治くらいだった。スケジュールの都合がいいというだけで呼び出された治は、先程から穏やかに私の話を聞いてくれている。
「何年も付き合っとったのになぁ」
「付き合ってた長さとかやなくて!」
 治の慰めの言葉にも反抗する私を治は優しく笑って見た。
「結婚するつもりだったん?」
「具体的に考えてたわけやない……けど」
 私の声が小さくなる。今回別れたばかりの彼氏は、もう二年付き合った仲だった。結婚を意識していたわけではないが、別れるイメージはなかった。実際、私に落ち度があったわけではないのだ。ある日突然、「女を妊娠させてしまったから別れてほしい」と言われただけで。
「何が責任取るや!」
 私は泣きたい気持ちを我慢して叫ぶ。彼は、浮気をしていたのだ。それが長らくに渡る付き合いか一時の過ちかはわからないが、結果として彼は浮気相手を選んだ。腹に子を宿している、たったそれだけで。
「結局妊娠した者勝ちなんや!」
「そらどやろなぁ」
 治がそう言うので、私は涙目で治を睨み上げた。
「治は女妊娠させたら堕ろさせるん?」
「いや? 俺は付き合ってなくても責任取るで」
「同じやないかい!」
 私は酒を煽る。治の制止の声が聞こえたが無視だ。追加の酒を頼むと、匂いだけでむせてしまいそうな度数の高いものが運ばれた。私はそれを一気に飲むと、体が重くなるのを感じた。
 次に目が覚めた時、私は知らない部屋の中にいた。ホテルというより個人の家といった印象だ。まだそれほど頭が働かない私の視界に、治の顔が映る。
「起きた?」
 治は私の上に馬乗りになった。一対一で長い間愚痴を聞いてもらったのだ。一回するくらいは別に気にすることでもない。されるがままの私に、治は小さな声で独りごちた。
「妊娠した者勝ち、やっけ」
 そういえばそんな話をしていたと私は頭の奥で考える。だが、何故今その話なのだろう。
「させた者勝ちなんとちゃう?」
 治の言葉に何か猛烈な危機感を覚えたが、酒に酔った私は深くまで考えることができなかった。私の服を治が脱がせていく。この夜の末に、何があるのだろう。



「六月の予定表は来週に出るから」
 あ、そう。言うとすればそれくらいのものだ。治と同じクラスになって数ヶ月、治は毎度部活のスケジュールを共有するようになった。毎日のように話しかけられていれば嫌でも察する。治は私に気があるのだ。恐らく部活の予定表も、オフの日を知らせるために教えてくれているのだろう。
 治から誘ってくれれば私もまだ応じるが、私から予定を持ちかけるというのはなかなかに難しかった。結局、治が私を好きでいることを知ったまま、私は気を揉んでいるのだ。面と向かって告白されたわけではないので返事もしづらい。しかしここでフってしまうのも勿体ない気がする。悩ましい梅雨を終え夏休みが目前に迫っていた。文化部の私には関係ないが、バレー部のような強豪はハードなスケジュールをこなすことになるのだろう。
 ところがどうだろう。治はいつまで経っても私に予定表を見せなかった。今まで一月も休まず共有し続けたのにも関わらずだ。一学期の僅かな休みでさえも教えようとしたのに、イベントが目白押しの夏休みを無視するなどあるだろうか。待ちきれなくなった私は、遂に治に尋ねることにした。
「夏休みの予定表、教えてもらってないんやけど」
 私にはそれなりに勇気のいる発言だった。だが治は呆けたような表情をした後、ゆっくりと表情筋を動かした。
「押してだめなら引いてみろ、て本当に効果あるんやなぁ」
 治の一言で私は試されていたことを知る。慌てて私は思いつくままに弁解の言葉を並べた。治は嬉しそうに笑ったままだ。
「別に夏休み一緒に遊ぼうとか思ってたわけちゃうし! インターハイ観に行こうとしてただけやし!」
「試合観に来てくれるんや」
 インターハイなどネットで検索すれば出てくるのだから私の発言は穴だらけだったのだけど、治はそこを突かずに笑みを浮かべるだけだった。また墓穴を掘ったことを知り、私は口を開けたり閉めたりする。全国出場なのだからみんな観るに決まっている、という言い訳はこの時思いつかなかった。
「別にええやろ、見ても……治が出るんやから」
 横髪を弄る私を、治は目を瞠って見た。



 治がまじまじと私を見るので、私も負けじと見つめ返す。今の私達は甘い恋人同士のように見えていることだろうか。ところが実際は席が少し近いだけのクラスメイトである。もしこれから治に告白されたら、付き合うかどうかはわからない。
「俺、いっつも食いたいって思うねん」
 飯も女の子も。治が語った言葉はいかにも治らしいものだった。食事に興味深々の成長期かと思えば、大人の男性に変わりつつあるということを知らしめてくる。治も盛んな男子高校生なのだ。治が誰と付き合った、誰としたという噂は年中流れていた。
「でもお前見てたら美味いもんたらふく食わせてやりたいって思うようになった。こんなん初めてや」
「ほお」
 私は治にとってまぎれもなく他人だと思っていたが、何かしらの印象には残っていたらしい。治が奉仕したがると言えば聞こえがいいが、要するに弁当を分けてやりたいというような感覚だろう。情けとも友情ともつかない感覚に私は適当に言葉を述べた。
「それ言われても微妙な気持ちや」
「好きなんやろか」
「どうやろな」
 治は学食のメニューを聞くかのような調子で尋ねる。そもそも好きなら本人に尋ねないと思うのだが、そこは遊び人の宮治だ。迷いを告げた後から口説き落とす技術があるのかもしれない。
 結局私達の間に浮いた話は訪れず、予鈴が鳴ると共に治は去って行った。授業が始まった少しの間私は治の話を考えたりしたものの、やがて授業に気を取られていった。こうしてある昼休みの出来事は過去になったのだ。
 ああ言っていた治が、まさか個人で飲食店を営むなど想像すらしていなかった。私はローカルテレビのニュースを片手に見る。治が「食べさせてやりたい」と初めて思ったのが私なら、それはおにぎり宮の起源が私にあるということではないだろうか。少なくとも治の人生の分岐点になったことは確かだ。あの日治ときちんと向き合っていれば、店主となった治の隣に私がいたのだろうか。少し想像してみたけれど、たらればを考えるのは最も治が嫌いそうなことだと思い至ってテレビを消した。



※Ninaさんリクエスト
「あっ! いた! 苗字さん! 好きです!」
今日も大勢の観客の前で言われた言葉に私は振っていた手を止めた。観客は木兎君の言葉に盛り上がったが、その声にざわめき立つ様子はない。MSBYブラックジャッカルの木兎は、観客の苗字さんに恋をしている。いつしかファンの中では当たり前のようになっていた。私はその度に消え入りたくなるのだが、木兎光太郎という人間に好かれた以上もう仕方ないと思っている。
少しするとスマートフォンに新着メッセージ受信の通知が来た。選手用出入り口付近まで来てほしいということだ。流石にこれを他の観客の前で言わない分別はあるようで――十中八九スタッフからの言付けだろうが――私達は密かに逢瀬をしている。と言うとなんだか男女の密な出会いのようだが、実際は今日の試合について木兎君が一方的に喋っているだけだ。選手用出入り口の近くまで行くと、ちょうど木兎君達が出てくるところだった。
「お前はいい加減我慢を覚えろ」
「やーだね! 苗字さん前にして我慢なんかできないし!」
「ぼっくんのは匂わせレベルやないからなぁ」
年の近い選手達に囲まれ、木兎君はまるで子供のように言う。
「俺わかんねぇんだけどさぁ! 何で結婚した選手は堂々とインスタ載せたり嫁の話できるのに彼女は隠さなきゃいけねぇの?」
「そもそも彼女でもないやろ」
宮選手がそう突っ込んだところで私は姿を現した。途端に木兎君の目が輝き、私の方へ駆け寄る。
「なあなあ苗字さん結婚しない!? そしたら匂わせオッケーだから!」
「今も十分しとるやろ」という宮選手の言葉を聞きながら私は苦笑いをしてみせた。木兎君の私と結婚したい理由は周りに堂々と自分達の仲を示せるからであるらしい。何故そこまで好かれているのかは、よく分からないが。
「結婚の前に、まず毎回観客席に向かって私の名前叫ぶのやめてくれないかな」
「じゃあそれやめたら結婚はオッケーってこと!?」
まるで聞く耳を持たない木兎君に何故かこちらが折れそうになる。だが、木兎君と結婚することに対しそれほど嫌じゃないと思っているのも事実だ。大体、私は毎回木兎君に名前を呼ばれるのを知っていて観戦に来ているのだ。嫌なら来なければいいのにと言われたら私はひとたまりもない。それでも毎回来る理由に気付かないほど木兎君が鈍感で、よかった。



「俺、苗字さんのこと好きなの! 付き合ってくんない!」
 突然の告白に驚かなかったと言えば嘘になる。だが、木兎君はわかりやすく私を気にかけていたし、終わりの見えない話を延々私に語りかけたりしていた。好きなのかな、という予感が事実に変わったというだけだ。ただ、ここまで潔い言い方をされるとは思わなかったが。周りに人はいないとはいえ、木兎君の声は辺り一体に響き渡っていた。
「ありがとう。私は――」
 答えを告げようとした時、私の声を遮って木兎君が「あ!」と言った。またしても耳が割れそうな大声だ。怯む私をよそに、木兎君は焦った様子で口を開く。
「メンタルのことで赤葦に言われてたんだった! 付き合ってもいいか、赤葦に許可とんねーと」
「え?」
 戸惑う私の腕を掴み、木兎君は早足で体育館に向かった。まだ部活が始まる前とはいえ、体育館には既にバレー部の面々が揃っている。何故ここにいるのだという視線をひしひしと受けながら、早く解放してくれと木兎君に願った。
「赤葦ー! この子と付き合っていいー?」
 木兎君は大きな声を出し、私を掴んでいる手を上にあげる。挙手した形になった私は、必然的に体育館の注目を集めた。あれが赤葦君だろうか、見定めるような目が私を捉える。私は今すぐ消え入りたくなった。
「ダメです、木兎さん。今は春高前でしょう。恋愛に現を抜かしてバレーに身が入らなくなったらどうするんですか」
「ちぇっ。まあ赤葦が言うんなら仕方ねーな!」
 木兎君は残念そうな顔をして私の手を離す。ようやく解放された右手には木兎君の体温が残っていた。
「ごめん、俺苗字さんとは付き合えねーや!」
 木兎君は両手を合わせ、私に頭を下げる。木兎君がバレー部から許可を取らないと男女交際ができないというのはわかったが、何故私がフラれている風になっているのだろう。最初に告白してきたのは木兎君だし、私はまだ答えすら言わせてもらっていない。付き合ってほしいと言ったのはそっちではないか、と責めたくなるが、それではまるで木兎君と付き合いたくてごねているみたいだ。私はぎこちない笑顔を作って「いいよ」と受け入れることにした。
「ごめん、春高終わったら絶対付き合うから!」
 告白してきたのは木兎君だというのに、何故か私の気持ちも付き合いたいという方向で固められている。訂正しようかと思ったがそっちの方がややこしくなりそうで、私は大人しく頷くに留めた。



「お前さぁ、何で俺のこと嫌いにならないの?」
唐突に投げかけられた言葉に、私は思わず顔を上げた。目の前のやたら顔が整っているこの男は、一体何という傲慢さと狡猾さでこの言葉を吐いたのだろうか。
「それは……私が素直で性格のいい女の子だから」
ぷは、と笑い出す音がして、及川の目は小さく細められた。
「普段好き好き言ってるくせにこういう時は言わないのかよ」
「じゃあもう言わない! 封印する!」
馬鹿にされた気がして私が顔を背けると、及川が宥めるような声を出しながら私の頬に手を添えた。
「嘘。やだよ。ちゃんと俺のこと好きって言って」
縋るように及川を見ると、視線の先で及川は優しく笑っていた。自然と顔が近付いて、私達は触れるだけのキスをした。こうして及川は私の感情を知ったまま、私の手からひらりとすり抜けていくのだ。



 春高会場にて、一人の選手が場を震わせた。プレーではなく言葉で周りを圧倒したのは、我が鴎台の小さな巨人・星海光来だ。前にも似たようなことはあったものの、大会の規模が違うだけに心打たれた人も多いのではないか。周囲がすっかり星海に注目する中、私が目を引かれたのは昼神だった。
「すみませんね、ちょっと拗らせてるもんで」
 星海のコンプレックスを知らずに話しかけてしまったアナウンサーを救う一言。もし私があの女性アナウンサーで、カメラも回っている中悪手を選んで選手の気を損ねたらどれだけ心苦しいだろうか。それを颯爽と助けてくれる昼神は、ヒーローのように見えたに違いない。私は昼神と合流しながら、感心したように言った。
「さっきのアナウンサーのお姉さん絶対に昼神に惚れてた! 自分が困ってるところ助けられたら好きになっちゃうよ」
 あのアナウンサーにとって昼神は印象に残り続けると思うのだ。少なくとも例の瞬間救われたのは確かだろう。私だったら、年下とわかっていても惚れてしまう。
「じゃあ苗字は困ってる時に助けたら好きになってくれるの?」
 照れたり得意げになったりせず、平気で核心に触れるのが昼神らしい。好きになってくれるのかと問いつつ、私に気があるわけではないのだろう。
「それは違う。昼神のことはもう好きになってる」
「そっか〜単純だな〜」
 私もまた照れは持ち合わせていなかったので単調に返した。昼神も何てことないように頷いている。私の気持ちなどとうに知られているのだ。至って普段通りの私達を見て、隣を歩いていた星海が悪態をつくように言った。
「何で気まずい空気にならねえんだよ」
 その一言に私達が笑っていると、「笑うところじゃねぇよ」と返されてしまう。星海から見れば、昼神も私も似たようなものなのかもしれないと思うと少し興奮した。



 ハンドクリームをわざと大量に出してお裾分けするというのはインターネットで見た男を落とすテクニックの一つである。友人達とその話題で盛り上がった私達は、早速実践してみようということになった。私に白羽の矢が立ったのは、偏に私が言い出しっぺであるからかもしれない。早速用意をして仲の良い男子の元へ行こうとすると、この季節にハンドクリームをたっぷりと出した私を不審に思ったのだろう、隣の白布が口を挟んだ。
「お前ハンドクリームお裾分けって言って手握ろうとしてるだろ」
「え」
 意表を突かれて私は動きを止める。白布は呆れた表情を隠しもせずに続けた。
「わざとらしいんだよ。そんなんやらなくてもちょっと触るだけで落ちる男はいる」
 果たして本当にそうだろうか。世の中そんなに純情な男子ばかりではないと思うし、私が試そうとしていた男友達などはまさに女慣れしているタイプだ。白布は一体何を根拠に言っているのだろうか。試しに私は白布の手に触れた。そう言う白布はどちらなのだろうか。私に触れられると、白布はわかりやすく体を跳ねさせた。
「なっ、お前いきなり何してんだよ!」
「へー、白布ってこれだけでときめいちゃうタイプ?」
 私は意地悪に尋ねる。てっきりいつも通りの憎まれ口が返ってくると思っていた。しかし白布は口に手の甲を当て、絞り出すように言った。
「気付くんなら別のことに気付けよ……」
「え?」
 別のこととは一体何だろうか。私が考えようとすると、白布は遮るように大声を出した。
「とにかく! これでもう試せただろ! ハンドクリームお裾分けなんて小賢しい真似二度とするな」
 何か言い返してやりたい気分になったけど、白布があまりにも必死なので私は負けてやることにした。



「えっ!? 後ろ女の子? じゃあ譲っちゃう、可愛いから」
 自動販売機の前から退く先輩を見て、私は曖昧な笑みを浮かべた。
 昼休み、学食の自動販売機が混み合うのはいつものことだ。私の前に並んでいたのは軽そうな男子の先輩だった。ようやく先輩の番が来たのだが、後ろに並んでいるのが私であることを確認すると先輩は去って行ってしまった。少し先の自動販売機で買うつもりなのだろう。レディーファーストは有難いが、少し居心地の悪さも感じる。素直に自動販売機に小銭を入れようとした時、後ろから舌打ちの音が聞こえた。振り返ると、クラスメイトの白布が険悪な表情で先輩達を睨んでいた。
「女だってわかった瞬間に目の色変えやがって」
 白布はああいった軟派な男とは相いれないのだろう。自分の順番も早くなってよかったではないかと言いたいところだが、白布は相変わらず恨めしげな表情を浮かべていた。
「牛島先輩以外でもそんな顔するんだね」
 白布は虚をつかれたように目を丸くした。白布が牛島先輩を敬愛しているのは見ていればわかることである。白布の大会を見に行った時、ウシワカだと噂をする他校の生徒に対し白布は顔を顰めて威嚇していた。ちょうど今の白布のように。白布が敵意をむき出しにするのは、牛島先輩が絡む時だけだと思っていた。
「俺が牛島さんを好きみたいな言い方するな」
 返された言葉に唖然とする。それではまるで、私を好きだと言っているみたいだ。
「白布、私のこと好きなの?」
 思ったままに口にすると、白布は自分の発した言葉の意味を漸く理解したかのように口を開けたり閉めたりした。
「お前っ……こんな時ばっか察しよくなりやがって……つーか何冷静になってんだよ!」
 白布の方こそ彼らしくない取り乱しようである。私はこれから先も白布が顔を赤くして必死に取り繕う姿を見ることはないだろう。仄かに香る色恋の気配よりも目の前の白布の方が気になって、私は笑って白布を観察した。白布はそんな私の様子がさらに気に入らないようだった。



 事あるごとに研磨の家へ押しかける私に対し、研磨はいつも話を聞いてくれる。ゲームをやっていることが殆どなのでその姿勢が親身かと言うと微妙なところだが、後になって結構話を覚えていたりするものだ。今回は彼氏と別れたのだが、長く付き合っていたこともあり生々しい話にも発展した。研磨にそういったことを話すことが恥ずかしいという感情は始めからなかった。だがやはり研磨の方に照れはあるのか、研磨は生返事を寄越すばかりだった。
「まあ研磨は童貞だしね」
 その一言で私が話を締め括ろうとすると、予想だにしない言葉が返ってくる。
「童貞じゃないけど」
「ウソいつ卒業したの!?」
 私から見て研磨に彼女がいた期間はなかったはずである。恋愛に積極的な方でもないし、運動部とはいえクラスでは地味な部類に入るだろう。とにかく、彼女がいたら私の耳に入るはずなのだ。今まで何もなかったということは、正式に付き合っている相手ではないということなのだろう。裏切られたという気持ちばかりが先行して、私の元彼の話はどうでもよくなっていた。
「高一の頃だけど」
 研磨は平坦な声で話す。高一、高一の頃に研磨は一線を越えたのだ。
「一緒に処女童貞捨てようって約束したのに!」
「そんな約束してない」
「うわーん私の研磨がぁ……」
 私が一方的に思っていた約束を持ち出すと研磨は知らぬ存ぜぬと言う。大袈裟に反応してみせる私を見て、研磨はこの日初めて表情を変えた。
「……むかつく、そういうこと言うくらいならおれとしてくれればよかったのに」
「えっ、今からする!?」
 研磨の一言に対して私は的外れなことを言ったのだろう。研磨はふて腐れたような声で「初めての話」と言った。
「それはもう無理じゃん」
「だからもうどうしようもないよ、諦めて」
 そう言われると私の心に靄が立ち込める。研磨の方が私とセックスしたいはずなのに、これでは私が縋っているようではないか。
「何で私が研磨を好きな風なの! 研磨が私のこと好きなんだから!」
「はいはい」
 研磨は適当に私をあしらってゲームに戻ってしまった。私達は振り出しへと戻る。しかしこの部屋にはもう童貞も処女もいないのだと思うと、何故か不思議な気持ちがした。


初恋は小学六年の時だと言ったら笑われてしまうだろうか。説明は省くが、とにかく俺は"普通"とは対極の位置にいたと思う。多くの者が初恋を経験するであろう幼少期、そして中学に通う現在に至ってもだ。だだっ広い家の居間を見渡しながらそう思った。こんな広い家に住めていいことなど一つもない。せいぜい自室がきちんと充てがわれ、父と顔を合わせる時間が少なくて済むくらいだ。ならば、何故現在俺は居間になどいるのか。
その答えは、軽い足音と共にやってきた。
「あ、焦凍君? お邪魔してます」
顔全体を使ってふにゃりと笑う。それに釣られて、自分も顔が緩むのがわかった。
彼女、苗字名前はプロヒーローエンデヴァーのマネージャー、兼俺の好きな人である。数年前に新規のマネージャーとして我が家に訪れた彼女に、俺は一目惚れをしていた。気付けば彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ。彼女に会えるとなれば父がいるとわかっていても部屋の外へ出る。きっとこれが恋なのだろうということは誰かに聞かずともわかった。今日はもう仕事終わりなのだろう。コートを片手に持つ彼女の元へ、手を伸ばす。
「あ!」
その瞬間、彼女のスマートフォンが小さく音を立てた。
「戻らなきゃ。エンデヴァーさんと緊急の案件」
彼女はそう言って困ったように微笑んだ。もう仕事は終わったはずだろうに呼び戻すなとか、そうやって人の扱いが雑なところがむかつくとか、言いたいことは山程ある。だけれどもそれを言わないのは、彼女自身が父を敬愛していると知っているからだ。
「そう、ですか」
別れの言葉は言わなかった。また、と言えるほど近しい間柄ではないからだ。廊下を急ぐ彼女の背中を見守りながら、先程触れることのなかった右腕を彼女へ伸ばす。ああ、届かない。



ふと顔を上げた時に感じる視線。他の人間には感じさせない、オレと話す時の名前の目つきの色っぽさ。それらに気付いていないわけではなかった。気付いていた上で、それがどういう意味か考えるのが面倒だから思考停止していただけだ。考えたところで、その先にあるのはさらに面倒くさいことなのだろうけれど。
「ヒュースは私のこと、好きじゃない……?」
目の前でオレを見上げる名前にオレは至って平常心で答えた。
「好きとはどういうことなのか分からない」
幼少期から恋の類はしていない。兵士として、剣の腕を磨いてきたのみだ。ここが敵国のアジトでオレが捕虜だということを差し引いても、オレと名前の間に恋のようなものはない気がした。
「好きとはお前が向けているような感情のことを言うのか?」
試しに尋ねてみれば、名前は困惑した様子で言葉を紡げずにいる。ほら見たことか。名前とて「好き」が何なのか分からないのではないか。
「ならばない。オレはお前のようにしつこく誰かにつきまとったりしない」
「どういうことが好きなのかは人それぞれじゃん! ヒュースだって私のこと好きかもしれないじゃん!」
何と往生際の悪い女だろうか。顔を赤くして必死にオレに語りかける名前から視線を逸らし、これで終わりだとばかりに呟く。
「そもそもオレは恋愛感情を理解できない。誰かを好きになるなどありえん」
「でもヒュース、私がヒュースのことを好きだってことには気付いてたんだよね……?」
オレは思わず顔を上げる。確かに、名前から特別な感情が向けられているのには気付いていた。恋と言われた時、真っ先にその感情を思い出した。だからと言って、オレが好きを理解しているとは限らないではないか。
「うるさい。たまたまだ」
「それじゃあもしかして、ヒュースも私のこと好きかも!」
「どうしてそこまで飛躍する! オレはまだお前のことなど何とも思っていない!」
むきになって叫ぶと、驚いた様子の名前と目が合った。何が「まだ」なのだろう。オレは自分で墓穴を掘ったことを悟った。名前の瞳が期待に輝く。ああ、やってしまった。まったく、名前の前だとすぐに調子を狂わされる。これは一体何だと言うのだろう。



一体何をやっているのだろう。ヒュースは少し前を歩く名前を見て息を吐いた。今は玉狛支部から本部へと向かう途中、ちょうど路地道を通っている最中である。本来ならばレイジか林藤が車で送るのだが、今日は二人の都合がつかないため徒歩で行くことになった。敵国の捕虜を、縛りもせずに連れて行くとはいい度胸である。かといって、今ここで暴れてもヒュースにとっては悪い方に働くのでそうする気はないが。
散歩気分の名前に呆れながら後ろを歩いていた時、ちょうど隣の塀に猫が顔を出した。その猫は随分人懐っこいらしく、名前の方に顔を寄せている。
「猫!」
はしゃぐ名前を冷ややかな目で見ていた時、猫が顔を前に出してキスをした。猫の口と名前の口を合わせたのである。
「きゃー! 猫ちゃんとちゅーしちゃった!」
名前はいよいよ興奮が収まらないという様子だ。このまま名前のペースに合わせては、本部に着くのが遅くなってしまう。
「おい、早く行け」
そう言うと、名前は仕方なしに「ばいばい、猫ちゃん」と言って歩き始めた。ヒュースもまた名前の後を追う。が、どうも名前とキスをしたあの猫が気になり、猫の横で止まると猫の方を見た。その瞬間、猫の顔が拡大された。
「な……!」
何をしたのだ、この猫は。ヒュースは思わず口元を抑えた。ほんの一瞬、猫の顔が近付き、口元に湿ったものが触れた。それだけならただ口を洗えば済むが、何故自分はこんなにも動揺しているのか。頭によぎるのは、先程名前がこの猫とキスをしていた場面だ。こんなの、ただ動物に舐められただけなのに。名前と間接キスをしてしまったと思うだなんて、どうにかしている。名前と間接キスをしたことに動揺しているのは、もっとどうにかしている。
「ヒュース、どうしたのー? 置いてくよ?」
もう随分先でそう言った名前を見た瞬間また先程の場面が思い出されて、ヒュースは「うるさい!」と叫んだのだった。



 五条がいなくなったベッドは広かった。世のラブホテル全てが五条のような一九○超えの男性が収まるサイズではなかったけれど、私が孤独を感じるには十分だった。五条は事を済ませたらすぐに服を着て出て行ってしまう。私といるところを見られたくないようで、一緒に外を歩くことすらしなかった。ただ、相手としては求められている。所詮私はセックスフレンドなのだ。五条ほどの男ならいくらでも女が寄ってくるだろうから綺麗な人でも選べばいいのに、五条はわざと私を選んでいる。私が五条を好きであることを知って、体だけの関係を選んだのだ。
 重い体を引きずって部屋を出、ホテルを後にする。今日は一回しかしていないというのに体は疲れていた。素直に家に帰る気も起きず、ふらふらと街を歩く。私は通る人の中に見知った顔を見つけた。
「何をしているんです」
 知らないふりをしようかと思ったが、声をかけられてはそうもいかなかった。七海は私を見つけると、私の手を引いて近くにあるカフェに入った。余程今の私は見ていられなかったのだろう。私からはラブホテルのボディソープの匂いが強く香っていただろうが、七海は何も触れずに一緒にいてくれた。
「私の存在意義って何だと思う?」
 唐突に尋ねると、七海はまた難しそうな顔をする。
「暇潰しかな」
 私は自嘲めいた笑い声を漏らした。五条にとっても、あるいは今の七海にとっても私は暇潰しでしかないのかもしれない。七海はため息を吐くと、呆れた様子で顔を上げた。
「暇潰しでも、十分人に必要とされていることになるでしょう」
 私は目を瞠る。七海は伝票を持って、「私は先に出ます」と言った。私は七海にお礼を言うことも忘れてテラス席から外の通りを眺めていた。
 七海が出て数分経った頃だろうか。唐突に、私の前に立ち止まる人がいた。お店に入ろうとしているのではない。明らかに私に用があるのだ。顔を上げると、そこにいたのは五条だった。
「俺がつけた傷、他の男に慰めてもらって楽しい?」
 私は呆気に取られて何も言えなくなった。五条は私に傷をつけている自覚があったのだ。私に対する独占欲のようなものも持ち合わせていたのだ。それでいて、私に対する態度を変えない。私が何か口に出す前に五条は去ってしまった。残された私はただ、五条がいた方を眺めていた。



「なんでおまえは、俺が好きなんだ」
声に出してからしまったと思った。案の定名前はきょとんとした顔をして俺を見返していた。
「そんなの、強くて格好良くて、男らしいからに決まってるじゃないですか」
当然のように語られる言葉に、ああやめてくれと思った。そんなこと何度も聞いている。その度に今度こそは諦めてくれと思って、また同じことを繰り返されると名前の飽きなさに頭を抱えたくなった。俺は罪人だ。母親を殺した。弟妹を守れなかった。人を愛す資格はない。愛される資格は、もっとない。だから俺は、一生恋人も伴侶も作らないと決めているのに、何で目の前のおまえごときにそれを揺るがされなければいけないのだ。
俺はもう一度名前を見る。贔屓目なしでもその辺の女よりは綺麗で、男を立てられる性格をしていて、一途な名前。男ならいくらでもいるだろうに、この罪人で女を作らないと決めている俺に惚れてしまった、可哀想な名前。同情するくせに一緒にはなろうとしない俺は狡い。名前の気持ちに対する責任の取り方なら知っている。だけど、今日もその勇気が出ない俺を、どうか許してくれ。



不死川さんに告白されたのは、鬼殺隊が無惨を倒して間もない頃だった。部下として不死川さんの後ばかり着いて回っていた私は、その時初めて私達が男女であるということを思い出した。確かに不死川さんは着替えや睡眠の時に物凄く気を使ってくれたし、ただの上下関係だと思っていたのは私だけだったのかもしれない。その上下関係にしたって、不死川さんに抱く感情が大きすぎてもはや名目は何でもよくなっている。私達はただの上司と部下と言われればその通りだし、恋愛感情があるのではないかと言われたらそのような気もする。要は私達は膨大な時間を共にし、お互いに少なからぬ感情を抱いているということだ。
そんな不死川さんからの告白は衝撃でもあったのだが、私は胸の内が一気に恋愛色に染まるということはなく冷静に不死川さんを吟味していた。今まで男っ気もなく鬼ばかり追いかけ回していた私だが、それなりに将来に夢はある。男なら誰でもいいというわけではない。不死川さんは男女関係なく私が最も気を許している人物と言えるだろう。だが、私は目を細めて手を頬に当てるのだった。
「不死川さんって政府非公認組織の所属ですよね……職歴なしでこれからどうするかも謎ですし……結婚相手としてあまりにもアレじゃないですか……?」
今まで不死川さんは最高の上司でありバディだった。しかし今は先を見据えて隣にいる相手を選ぶ場面なのだ。案の定不死川さんは額に青筋を立て、私を睨んでいた。
「それはお前も同じだろうが。つべこべ言わず同じ墓に入りやがれ」
「凄く嫌なプロポーズ……」
気付けば告白ではなくプロポーズになっているが、それよりも結婚を申し込む文言としてはあまりにも物騒な言葉の方が気になる。結局それが不死川さんらしさであり、私はオーケーしてしまうのだろう。私が仕方ないとばかりに息を吐くと、また不死川さんの額に青筋が立つのが分かった。



「彼氏でも作れよォ」
 風柱邸の縁側にて、実弥は頬杖をつきながら気怠そうに言った。しかし、その言葉が実弥の熟考の末に出した言葉だということはわかっている。
 実弥は私のことが好きだ。多分家族のように愛してもいるだろう。だからこそ、自分と私を結びつけることを許さなかった。私の気持ちを知って、実弥が振り向かない限り私が悲しむとわかっていてもなお、実弥は頑なにそっぽを向き続けるのだ。
 実弥が私に振り向かない理由は――というか、実弥の全ての行動に通じる理由は、自分が家族を守れなかった、殺してしまった罪人だと思っているからなのだろう。そんなことくらい、私は一緒に背負えると言いたいのだけど、実弥は自分以外に過去を分かつことを許さない。自分が幸せになることは、許さない。鬼殺隊が解散した今なら実弥の考えも変わったかもしれないと思ったけれども、生きている限り実弥の考えは変わらないようだった。
「私が他の人と幸せになることが、実弥の幸せなの?」
「そうだ」
「私は幸せになったとしても、実弥はどうなるの?」
「んな事、お前が考えることじゃねェよォ」
 私が無理を言って、実弥の隣で実弥を支え続けたところで実弥は一生自意識に苦しめられる。だとしたら、実弥の数少ない望みを叶えてあげるのが私にできることなのかもしれない。
「わかった。今までありがとう、実弥」
「幸せにしてもらえよ」
 二人で話したのはそれが最後だった。お見合いを何度か受けたことで私の婚約は順調に決まり、婚礼を挙げた。式に参加した実弥は遠くの方で笑っていた。私は下町に家を借り、子供にも恵まれて六十年の生涯を閉じた。それが、前世での話だ。
 実弥は私と玄弥、それから寿美、貞子、弘、こと、就也に囲まれ、困惑したように見回している。
「兄ちゃんの望みは全部叶えたよ」
「名前さんは他の男と結婚したし、生まれ変わってからは俺達も家族で幸せに暮らしてる」
「次は俺達の望みを叶えてもらう番だ。兄貴も幸せになってくれよ」
 実弥はまつ毛を震わせながら大きく目を見開いた。最後に目が合ったのは、私だった。
「幸せになっていいんだよ、実弥」
 実弥は目元を隠すかのように俯いた。そして唇を噛み、小さく笑った。



藤の花の家にその人はいた。鬼殺隊の一員同士偶然任務地が重なったというわけではなく、私が勝手に時透君の後をついて回り、結果同じ任務に派遣され、一仕事終えた私達は近くの家で休んでいるのだった。時透君は相変わらず無口で、私のことなど構わずに歩く。私も時透君に相手にされていないことに構わず、時透君に話しかけ続ける。たまに口を止め時透君のように空を眺めていることもあるけれど、大抵何か次に話したいことが出てくる。今回はそれがたまたま、恋愛の話だった。
「私、前に振られたんだよね。刀を振るうなんて女らしくないって」
試しに目線を空から時透君の背中に移動させてみるが、相変わらず時透君が振り向いて反応してくれるようなことはない。無言のまま二歩、三歩と歩いていると、時透君が背中越しに口を開いた。
「そんなこと好きな人に言っていいわけ」
あくまで時透君らしい無感情な声ではあったが、それは少しの呆れを含んでいた。思えば、私は時透君に呆れられてばかりだ。
「自分から弱み晒してちゃいつ付け込まれるかわからないよ」
珍しく饒舌に語った時透君の背中に、私は言葉を返す。
「別にいいもん。そうしたらこの時透君への長い片思い生活も終わるわけだし」
誰かにつけ込まれ結ばれることになったら、私は時透君への片思いを卒業することになる。時透君を差し置いてまで好きになれる人が出来るのかはわからないけれど、そうなったらそうなったで私は幸せである気がする。時透君は、少しは寂しいと思ってくれるだろうか。それとも清々した気持ちになるのだろうか。私の気持ちに応えるかのように、時透君が振り返った。
「じゃあ言うけどさ」
その顔が、時透君には珍しく愉しそうに見えることに私は目を丸くする。
「僕は、強い女の子は好きだよ」
時透君が喋って、私が黙り込む。普段とまるで立場が逆だと、回らない頭の隅で考えていた。



 キメツ学園でバレンタイン当日にお菓子の持ち込みを禁止する規則ができた。理由はよくわからないが、去年バレンタインにやらかした生徒がいるらしい。何にしても傍迷惑な話である。教師である冨岡先生へのアピールチャンスは少ない。バレンタインは堂々と好意を示せる貴重な一日だというのに。
 私は禁止だと知りつつも諦めきれない心でチョコを作った。友達には最悪放課後渡せばいい。問題なのは、冨岡先生だ。冨岡先生とは、学校でしか会えない。私は迷った末一番手をかけたラッピングの包みを鞄に忍ばせた。
 翌朝、校門で冨岡先生が目を光らせていた。朝から堂々とチョコを交換する者がいないか監視しているのだ。この様子では渡せそうにない。私はホームルーム後冨岡先生の所へと行くと、そっと包みを差し出した。
「冨岡先生に、です」
 冨岡先生は断るだろうか。それとも、自分へわざわざ作ってきてくれたのだからと目を瞑るだろうか。冨岡先生はどちらでもなく、包みを受け取った。
「没収する」
 私のバレンタインが終わる音がする。ふらりとその場を立ち去ろうとする私に、冨岡先生が声をかけた。
「放課後職員室へ来い」
 ああ、これは説教コースだ。私は恋を叶えられないだけでなく説教すら受けてしまうのか。放課後、泣きたい思いで職員室に入ると、冨岡先生は怒った様子もなく私のあげた包みを差し出した。
「先生、これ……」
「いいから早く受け取れ。用は終わりだ」
 私はよくわからないまま他の先生から隠すように包みをしまい、職員室を出る。一体どういうことだろう。チョコを食べるわけにはいかないが、折角くれた手前説教をするのも憚られたのだろうか。私は不思議に思いながら包みを開ける。すると「美味しかった」というメモ書きと、購買で売っているパンが入っていた。私は呆然としてそれらを見た。今日はホワイトデーではないけれど、堂々とお返しをするわけにはいかない冨岡先生の策だろうか。いずれにせよ、チョコのお返しがパンというのは少し変な話だ。私は購買でパンを買っている冨岡先生を想像し、少し笑ってしまった。今年のバレンタインは、どうやら成功のようだ。




「総督でも性欲とかあるんですね……」
 総督に押し倒され、私は目を瞬いた。総督が私を相手にしたことにではない。総督にも世の男子と同じように欲があることに、私は驚いていた。
 考えてみれば、総督だって男だ。攘夷四天王と祭り上げられているものの、中身は普通の青年だろう。だが私は戦の補助をするあまり、総督のプライベートな部分を知らなかった。鬼兵隊総督としての高杉晋助しか、知らなかったのである。総督を一人の人間として見ていないような発言に気分を害したのかもしれない。総督は不本意そうな表情で、「は?」と言った。
「言っとくが俺は溜まったから抱くんじゃねェからな」
 その言葉に今日二回目の衝撃を受ける。男が女を抱く理由など、性欲だけだと思っていた。そりゃあ愛の末に行為をするということもあるのかもしれないが、男ばかりの戦場にいては感覚が鈍るというものだ。
「それじゃあ、何で抱くんですか?」
 総督は「何でって……」と言葉を濁したが、私の心底不思議そうな表情を見て察してもらうのは不可能だと悟ったのだろう。私から目を逸らし、誤魔化すように頭を掻いた。
「気持ち以外に、何がいるんだよ」
 三回目の驚きは、今日のどれよりも素晴らしいものだった。私は興奮した胸に手を当てる。心臓が脈打つ音が煩い。総督の詩的な言葉がまた私を煽る。
「総督、私も総督が好きです」
「わかってらァ。さっさと始めんぞ」
 照れ隠しだろうか。私の方を見ようとしない総督に、私はくすりと笑ったのだった。



「キスしてください」
そう言うと、目を細めた降谷さんがこちらを向いた。半分は予想通りで半分は想定外だ。憧れの降谷さんと付き合えて浮かれてばかりだった頃の私は、決してこんなお願いできなかっただろう。それが今や堂々と――会議室へと続く廊下を歩きながらおねだりすらしている。降谷さんならきっと勤務態度が不真面目だと諌めるに違いない。だけど、私達の仲も深まったものだと感動してくれるかもしれない。そんなことを考えていた私の頭に、降谷さんの手刀が落ちる音がした。
「ダメだ」
「えー、なんで」
答えはわかりきっているがコミュニケーションの一つとして尋ねる。すると、降谷さんは瞼を閉じて言った。
「したらお前、これからの会議に集中できなくなるだろうが」
それは勿論、そうなのだけど。
「……ふ、降谷さん、」
感動で何も言えない私を置いて降谷さんは先を歩く。
「早く行かないと置いていくぞ」
「あ、待ってください!」
降谷さんと付き合って早三ヶ月。私達の思いは、互いに通じ合っているようだ。



初めはただの憧れだった。容姿・実力共に優れ、みんなの期待に常に応える赤井さんに惚れるなという方が難しいだろう。上司として、人間として彼に抱いていた好意は、いつのまにか恋愛のそれへと変わって行った。彼を取り巻く女性の大多数と同じく、私は彼に恋をしている。赤井さんはとっくにそれを承知済みだろう。彼は、気付かないふりはしない。気付いたことを気付かせたまま私を野放しにする。この状態もそろそろ終わりなのかもしれなかった。告白をされなければ振ることもできない。しかし、赤井さんにだってこの奇妙な関係性を拒絶する権利はある。
「名前」
赤井さんはゆっくり私の名前を呼んだ。寒い冬の日だった。彼は自分の車に寄りかかり、煙草の煙を丁寧に吐き出していた。
「お前は俺が好きなんだろう」
遂に、この時が来た。私の体は固まりながらも頭は冷静だった。ややあって、私はぎこちなく頷く。
「好きに、なってしまいました」
迷惑だとわかっているのに。どこへ行っても女の熱視線が付き纏うなんて嫌になるだろうし、ましてや私は職場内の人間だ。俯いている私の元に、また煙を吐き出す音がした。
「じゃあ責任を取らないとな」
思わず顔を上げた私に赤井さんが微笑みかける。はっきりとした言葉で言わないのは、きっとまた期待と動揺に振り回される私を見て楽しんでいるのだろう。



自分が幼いと気付いたのは霊術院を卒業して少しの頃だった。それまでは名実共に子供であったし、学生ということもあり何も気にしたことはなかった。しかし周りが段々と成長してゆく中、私だけはいつまで経っても変わらないままだ。月のように丸い顔と大きめの目が子供らしさを際立たせているのだろうか。平均より十センチも低い身長も相まって、私はすっかり「ちっちゃい子」として扱われていた。それが腹立たしいわけではないが、やはり大人びた女性には憧れる。特に十番隊副隊長、松本乱菊のような女性には。
書類を届けにきた彼女の残り香に包まれながら、私は思わず「いいなぁ」と呟いた。
「何がだい?」
そんな独り言も聞かれてしまったのだろう、いつも通り湖の水面のように静かな目で藍染隊長はこちらを見た。
「乱菊さんみたいに綺麗で、色気のある女性には到底なれないなぁと思って……私は幼稚で子供っぽいので」
自虐はあまり好きではない。言う方も言われた方も良い気分にはならないし、相手に否定してもらうために言っているように感じるからだ。
「そんなことはないと思うけどね」
案の定、藍染隊長は穏やかに言った。きっと藍染隊長ならばどんな自虐も否定してくれるのだろう。そんな優しさが彼にはある。
「すみません、気を遣わせてしまって」
私は曖昧に微笑むと乱菊さんの置いて行った書類を手に取った。自虐などするからこうなるのだ。とにかく早く空気を変えたくて仕事に取りかかったが、その手はすぐに止まることになる。
「僕は君を抱きたいと思っている」
咄嗟に顔を向けた先で、藍染隊長はいつものように穏やかな笑みを浮かべていた。それが本気なのか、からかいなのか。どちらも藍染隊長らしくないことは確かだ。呆気に取られる私に、藍染隊長は柔らかく微笑んだ。
「少なくとも、僕は子供にそんな感情を抱かない」
そう言ってまた業務に戻る。藍染隊長が私に好意を持っているのかもわからなければ、直接交際や同衾を誘われたわけではないから断ることもできない。この胸の高揚と戸惑いさえも全て藍染隊長の手中なのだろう。頬に熱が集まるのを感じながら、藍染隊長が私を見ていないことを祈った。