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「あ! いたいた苗字さん!」

 定時を迎えると共にフロアに現れた人影を見て、名前は顔を顰めた。古森は全く気にしない様子で軽い笑みを浮かべている。「お疲れ様でーす」と宣う口からは、到底名前への配慮が感じ取れなかった。

「それやめてっていつも言ってるじゃないですか!」
「え? 今日は練習が会社の定時前に終わったから」
「何故来たのかを聞いているんじゃないんです」

 名前と共にエレベーターに乗り込み、一階のボタンを押す。庫内にしばらくの静寂が訪れたものの、一階に着くとまた古森は名前に話しかけた。社内で堂々と会いに来る古森も、エレベーターの中で私語をしないという常識は弁えているようだった。

「今日は練習が結構上手く行ったんですよ。コーチにも褒められたりして」
「そういうのは直接言いに来なくていいです」

 名前の心からの願いだ。何の間違いか古森に気に入られた名前は、社内の有名人につきまとわれることですっかり古森と付き合っているという認識になっていた。いくら名前が否定しても、プロアスリートである古森に狙われている事実は変わらない。自然と社内のメンバーは名前に対して一歩引くようになった。恨みを込めて古森を睨むと、古森は屈託のない笑みを浮かべていた。

「ラインなら言ってもいいんだ?」

 心の奥底で古森のバレーには興味があることを見透かされた気がして、名前は奥歯を噛み締める。古森に口で勝とうなど無謀なことだったのだ。

「嘘嘘、俺ちゃんと苗字さんに報告しに行くから」

 名前の恥ずかしいという感情すら見越してフォローをしてくれる。道理で古森が人気であるはずだと思った。名前もチームの練習を目にした日から、古森のバレーには惹かれている。だが一人の男性として好いているわけではなかった。

「言っておきますけど、上げませんからね」

 名前の家の中には入れないというのに、古森は時間さえ合えば名前と帰り道を共にしたがる。名前には無駄にしか思えないのだが、古森には意味のあることらしい。「マンションの人に牽制できんじゃん」と笑う顔からは、名前がマンションの人とほぼ交流していないことを知っているようには見えなかった。古森への気持ちはないのに、会社でもプライベートでも布石を打たれ名前はいい迷惑である。最後に抗議をするように古森を睨むと、古森は忽然表情を消した。

「苗字さんが俺を好きだと言えば済むことなんですよ」

 名前の体が動きを止める。だが、すぐに古森は何事もなかったかのように手を振って「また明日」と去って行った。明日はチームの練習が長いと言っていたはずだけど、どうやって会うつもりなのだろうか。