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【佐久早とマネ】
「キスしろ」
そう目の前の私に言い放った聖臣を見て、私は呆気に取られて立ち尽くした。
突っ込みたいことは山ほどある。まずここが男子バレー部の部室で、今は一応部活の最中だということだ。選手達の自主練習の時間なので必ず体育館にいなくてはならないわけではないが、それでも部室で男女の事をするのは憚られる。ましてや公私混同を嫌う聖臣のことだ。初めは、私と付き合ったことを誰にも言わなかった。古森君に問い詰められてようやく白状し、今は部内の数人が知る仲となっている。それも付き合ってほしいと言ったのは私の方で、聖臣はいつも私に「付き合ってやっている」という雰囲気だった。私のことが好きだとも、楽しいとも言わない。私達は本当にこれでいいのかと何度も疑ってしまったほどだ。それでいて聖臣は聖臣の前で緊張する私をいつも笑っていた。まるで他人事のように。恋愛感情があるのは、私だけだと思っていたのだ。
それが今やどうだろう。練習の合間に部室に堂々と居座り、私にキスを命令するまでになった。一体何が聖臣をこうさせたのかは分からないが、私にとっては嬉しいような、どこかやられた気分になるような、複雑な気持ちだ。私は備品のかごを抱えたまま数秒立ち止まると、聖臣の方へ近付いてキスをした。人並み外れた身長をしているくせに屈みすらしないのだから私の足腰に悪い。私が聖臣の顔から離れると、聖臣は不満そうな表情で私を見下ろした。
「……口じゃない」
「いいじゃん別に。そんなに口がよかったら聖臣からしてよ」
「お前からしろ」
女の子にキスをしてもらう性癖でもあるのか、聖臣は譲らない。私は仕方なく持っていたかごを床に置くと、聖臣の肩に手をついて口にキスをしたのだった。淡泊な聖臣らしく、これで欲に火がつくということはなく満足した様子で部室を出て行く。そんな所が子供のようで可愛いと思ってしまう自分がちょっと悔しい。かごを持ち直して部室を出ると、備品を必要としていた部員が私を呼んでいた。そうだ、今は聖臣の彼女ではなく男子バレー部のマネージャーなのだからみんなに尽くさなくては。小走りで駆ける私を見もせず、聖臣はコートに入ろうとしていた。



【佐久早と幼馴染】
「……俺は女に興味がない」
「よくわかんないけどそれセックスした後で言う?」
私は聖臣のベッドの上で裸の体を反転させた。夏用のタオルケットは聖臣に奪われてしまい身に纏うものはない。服を着ようにも、聖臣が床に投げ出した衣類は聖臣を越えなければ手が届かない。私は諦めて息を吐いた。今日は幼馴染の聖臣に用があって聖臣の部屋まで来た。普段は用を済ませたら早く帰れと言う聖臣が何も言わないのが気になって、ついつい長居をしたところこのザマである。幼馴染を拒みきれなかった私にも非はあるのだが、自分から誘っておいてその言い方はないと思う。
「聖臣がやろうって言うからやったんだけど」
私達はいつもこうだ。なんだかんだで我儘な聖臣の誘いをいつも私が断れずに受けてしまう。それが遊びや学校のことならよかったものの、今回はセックスときた。一つ言っておくが、私は処女ではない。処女なら大事な初めてを幼馴染の我儘で妥協したりしないだろう。聖臣がセックスに興味があると言うから、それなら私が相手になってあげるかという気持ちで乗じたのだ。
「俺がお前とならどこまでできるのか知りたかった」
「はぁ?」
「周りの奴等は大体不潔だけどお前は平気だから、お前とならセックスできるかと思った」
要は潔癖な自分が唯一心を許している私とならどこまでできるのかを試したかっただけらしい。結果としてセックスできているのだから、聖臣の作戦は大成功ではないだろうか。聖臣が他に心を許している人間は古森君くらいしか知らないけれど、その内心を開ける女の子に出会って存分にセックスを楽しんでほしい。
「できたじゃん。他の女の子ともすれば」
「お前じゃないとダメだ」
私がそこらの女の子だったら頬を赤くしてしまうような台詞を聖臣は無表情で語る。中身のない愛の言葉が腹立たしいとも思うのに、最中の聖臣の興奮した顔を思い出すとふと気が鎮まる。
「聖臣、私のこと好きなの?」
「そうかもな」
適当に言った台詞に適当な言葉が返ってきて、ああ面倒臭いことになってしまったと思った。これなら私のことが好きなのかなんて聞かなければよかった。それでもセックスしなければよかったとは思わない私ももう、聖臣のことが好きなのだろうか。



【佐久早と隣の席】
六限目の授業は教師の都合により自習だった。白いシャツを着た私達の間に吹くのは窓から入ってくる爽やかな風、ではなく冷房の風である。一日の疲労と夏の暑さにあてられて皆自習そっちのけで口を動かしていた。こういったことは真面目にやると思っていた私の隣人も暇を持て余していたようで、プリントを走るシャープペンの手を止めふと呟いた。
「俺、性欲はあるけど多分セックスはしないと思う」
今度シャープペンを止めることになるのは私である。普段クールで、下ネタなど言わないと思っていた佐久早君の口から直球の下ネタが来た。いやネタではなく真面目な話なのかもしれないけれど、そんな話を私にする意味とは何だろう。
「一応私女なんだけど、それ私に言う?」
「この前彼氏とヤったって話してただろ」
私は記憶を探り、合点が行った。教室にあまり人がいないからと女子内で彼氏の話で盛り上がっていた時、佐久早君もいたのだ。まさかそんな話まで聞かれていたとは思わなかったが、事実には違いない。彼氏ではなく元彼氏ではあるのだけど。
「聞きたくない話聞かせてごめん」
「いや、お前がフラれた話とか面白かった」
「そこは忘れてくれないかな!」
佐久早君はただの大人しい男子に見えて、意外と意地悪な所がある。佐久早君にとっては隣人の別れ話などちょうどいい暇潰しになったことだろう。
「何でみんなそんなにヤりたがるんだろうな。俺は他人とセックスとか無理だ。汚い」
「汚い所も受け入れられるくらい好きだからやるんじゃないかな」
「ふーん……」
議論を交わした末、いくら何でも下品な話すぎたと私達はプリントに戻る。しばらく私達の間にはシャーペンが紙と擦れる僅かな音だけが響いた。背後にはクラスメイトの賑やかな話し声が流れる。私がちょうど最後の大問にさしかかった時、隣から不意に「付き合う?」と聞こえた。声の方を見ると、手を止めた佐久早君がシャーペンを持ったままこちらを見ていた。
「どうしてもって言うなら、いいよ」
「何だそれ」
私の照れ隠しを佐久早君は鼻で笑う。このまま話はなかったことになるのだろうか。席替えはまだ先なのにそれは気まずいし、なんだか残念な気もする。佐久早君の本意を聞こうと私が口を開いた時、私に被せるように佐久早君が言った。
「じゃあ付き合うってことで」
それは私に本気だということなのか、それとも佐久早君の単なる気まぐれなのか、確かめようとした途端にチャイムが鳴って佐久早君は部活へと行ってしまった。残された私は一人、佐久早君の消えたドアばかりを見つめていた。



【佐久早と恋人】
「恋人はいらっしゃいますか?」
「いません」
試合終了後のインタビュー映像に夢中になる私の隣に、「試合より真剣に観るのやめろ」と言って聖臣が並んだ。基本自分のプレーはフィードバック目的以外で観ない聖臣だが、今回ばかりは興が乗ったらしい。
「そこはお前が恋人だとか言ってくれないんだ」
「今いないって言ったばっかなのにそんなこと言っても信憑性ないだろ」
「ふーん……」
仮にも私達は同棲をしている恋人同士である。ここへ来たのは彼女への甘いフォローをするためてはなく、ただ単に私がインタビュー映像を観ているのが気に食わなかったのだろう。わざわざテレビ用の俺なんか見なくても、毎日お前用の俺を見てんだろとは数ヶ月前聖臣に言われた言葉である。
「じゃあ聖臣はもしかしたら浮気相手がいるかもしれないんだ」
そんなことはないと知りつつもからかい半分に口に出すと、聖臣は「そうは言ってない」と言った。聖臣のことは信じているけれど、芸能界などで知り合った女と浮気でもされたら私は気付けない。
「証明するものは?」
「俺の潔癖レーダー」
自らの潔癖を認める聖臣に私は思わず笑い出した。聖臣は極度の潔癖だ。性行為への嫌悪感も強く、私達はセックスに至るまでに一年近くかけた。そうしてようやく聖臣が肌を触れ合わせることを許した唯一の人物が私なのだから、そう簡単に浮気できるものでもないだろう。
「聖臣、もしかして私以外じゃ勃たない?」
悪戯に笑って聖臣を覗き込むと、「調子乗んな」と聖臣に頭を小突かれた。実際に聖臣が私以外で勃つのか勃たないのかはわからないけれど、セックスをできるのは私だけだから、まあいいか。



【佐久早と初詣】
「ねえ、初詣行こうよ!」
「断る」
 出不精な幼馴染の体を揺らすものの、聖臣はこたつに入ったままぴくりとも動こうとしなかった。
「別にそんな大きい神社じゃないから人も集まらないし。ウイルスが気になるならしめ縄に触らなければいいじゃん」
「そういうことじゃねえ」
 潔癖の聖臣は明治神宮のように大勢の参拝客が集まるところを想像しているのかもしれない。だが私が行こうと誘っているのは近所の小さな神社だし、その行き帰りにどこか寄るということもない。聖臣だって、春高を控え願い事はあるのではないのだろうか。
「願い事叶えなくていいの?」
 私が言うと、聖臣は怠そうにこちらを向いてマスクを下げた。
「……別に一緒に初詣に行かなくたって、春高は観に来てくれんだろ」
「行くよ?」
「次のインターハイも来てくれるだろ」
「勿論」
「ならもう用はない」
 そう言ってまた横になってしまった聖臣に私は首を傾げる。
「別に私が聖臣の試合を観に行くことは初詣に関係ないじゃん! それとも聖臣の願い事はないって言うの?」
「もう叶ってんだよ」
「ずるー!」
 いつも涼しい顔をして何でもこなすくせに、願いさえ叶えてしまう聖臣を私は羨ましく思った。だがその本意を、私はこの一年で知ることになる。



【佐久早とファーストキス】
「ファーストキスの味は、何味だと思う」
「はあ?」
 部活の帰り道、佐久早が突然似合わないことを言い出すものだから私は素っ頓狂な声を出した。佐久早が私を恋愛対象として見ているとは思えないが、他の誰かに恋でもしたのだろうか。私はポケットの中の飴玉を手で弄った。今日は生徒会に入っている部員が学校行事用に買っておいて余ったと言って大量の飴玉をくれたのだ。私は好きなソーダ味とコーラ味をいくつか貰った。ファーストキスはレモン味、と言うが実際何も食べていないのにレモンの味がするとは思えない。
「コーラ味、とか?」
 私は突っ込み待ちで大して面白くもないボケをした。佐久早のことだから突っ込みもせず呆れてみせるのだろう。でも滅多に食べることがないレモンよりも、多くの日本国民が飲むコーラの味の方がしそうなものではないだろうか。
「わかった」
 佐久早は突っ込むでも呆れるでもなくそう言って飴玉を一つ口に入れた。一体何がしたかったのだろう。話題に困ったにしても、佐久早がキスの話をするだなんて珍しい。
 そんなことを考えていると、突然佐久早に肩を掴まれ向かい合わせられる。佐久早は一体何をしようというのだろう。わけもわからないまま佐久早の手を見た私は、コーラ味の飴の袋が握られているのを見た。先程の質問は、つまりそういうことだったのか。理解すると同時に、レモンとは似つかない味がした。



【佐久早とすっぴん】
 長い間友人でいた佐久早と遂に一線を超えてしまった。それは別にいいのだが、問題は佐久早がこちらを責めるように見つめてくることである。
「まさかとは思うがそのまま寝るつもりじゃねえだろうな」
「な、佐久早が寝たら落とすって!」
 佐久早が言っているのは私がしたままの化粧のことだった。現在佐久早は下着を履き、自前の枕にもたれ寝る体勢に入っていた。私も佐久早に貸してもらったクッションの上に頭を載せているのだが、このまま寝るつもりはない。佐久早に素顔を見られるのが恥ずかしくて、佐久早が寝た後に洗面台を拝借しようとしているだけだ。
「絶対寝落ちするだろ。今落とせ」
 化粧をしたまま寝て肌にダメージを受けるのは私だというのに、佐久早は譲れないという様子で私を睨む。私も私で佐久早にすっぴんを見せるわけにはいかなかった。今回何かの過ちで体を重ねはしたが、佐久早とは本来淡い憧れを抱いていた人物なのである。無言の攻防が続くと、佐久早はなんてことないように言った。
「すっぴん恥ずかしがってたらこの先何もできねえぞ」
 その言葉に私の時が止まる。佐久早とは今晩きりだと思っていたが、佐久早は私とこの先を考えていてくれるのだろうか。少なくとも化粧を落とした顔を見せるような関係性の、何かを。
 居ても立っても居られなくなった私は逃げるように洗面台へ走った。
「化粧落としてくる!」
「最初からそうしろって言ってる」
 佐久早の家に来るのは今日が最後ではないのかもしれない。クレンジングを置いておいたら、佐久早は怒るだろうか。



【佐久早とお家デート】
 狭い部屋の中で、荒い息の音と水音が鳴り響く。今日、私は彼氏の佐久早君を部屋に招いた。彼氏を自室に入れるとはつまりそういうことであるけれど、潔癖な佐久早君に至ってはどうなるかわからない。私は少しの期待を込めて佐久早君の貴重なオフを貰うことにした。初めは学校にいる時と変わらないように二人で話をしていたが、次第に変化が訪れた。佐久早君が唐突にマスクを外したのは、部屋が暑くなったからではなかった。
 気付けば唇を重ね合わせ、舌まで入れられている始末である。嬉しい誤算に私は喜びを抑えられなかった。今まで私達は、プラトニックな付き合いをしてきた。それは私達が付き合ってまだ間もないことと、佐久早君が潔癖であることに由来するだろう。女としての魅力がない以前に、佐久早君はそういったことを忌み嫌っているのではないかと思っていた。けれど、佐久早君も中身は高校生の男子なのである。
 薄く目を開けると、目を伏せてこちらを見る佐久早君と目が合った。私の体の奥に火がつく。佐久早君も多分、その気になっている。私は今日処女を卒業してしまうのだろうか。自分から部屋に誘ったくせに、私は狩人に追われる兎のような気持ちになる。今日初めてキスをして、最後まで済ませてしまうというのはあまりにも早すぎないか。でも、佐久早君のオフは次いつあるかわからない。佐久早君の手が私の肩に触れそうになった時、唐突に佐久早君は立ち上がった。
「トイレ」
 私は呆気に取られる。この雰囲気の中、トイレに行くのだろうか。というか、佐久早君は今までトイレを我慢していたのか。
「言っとくけど、大じゃないから」
 その言葉に珍しく私の頭が素早く回る。この雰囲気を中断して行う、予め時間がかかるとわかっていること。佐久早君はトイレで欲を吐いてしまうつもりなのだ。恐らく、私とのことをゆっくり進めたいという思いから。私はトイレの場所を佐久早君に伝えることもせず、「待って」と佐久早君の手を引いた。
「二人で、しよ」
「お前……」
 佐久早君の目が見開かれる。緊張で私は唾を飲み込む。無言の攻防が続いた後、佐久早君は体の向きを変えて私に近付いた。たった数秒が永遠にも感じる。今日、佐久早君は避妊具を持ってきただろうか。



【佐久早と言質】
「佐久早君、明日の試合頑張ってね」
 放課後、部活に向かおうとする佐久早君にそう言えば、佐久早君は慣れた調子で「ああ」と答えた。スポーツバッグを持っているものの、佐久早君が席を離れる様子はない。彼は待っているのだ。私が何度も繰り返してきた、「好き」という言葉を。
 しかし私は笑みをたたえたまま佐久早君を見ていた。押して駄目なら引いてみろ。普段挨拶のように使っている「好き」を、今日は封印してみたのだ。たまたま明日に試合を控えているので、佐久早君にとってはより違和感が濃くなることだろう。
 普段クールな佐久早君もこの異変に気付いたようで、眉を顰めてこちらを見ている。言って、とは言わないのは佐久早君の追われる者としてのプライドだろう。
「今日は言わねえのか」
 佐久早君はその言葉が何であるかすら口に出さなかった。自分の口から出すには恥ずかしいと思っているのかもしれない。仕掛けた側のくせに動揺しながら、私は「言わないことにした」と言った。するとわかりやすく佐久早君の顔が曇った。
「……お前が言わねえと明日井闥山負けるかもよ」
 あくまで自分が不調になると言うのではなく、井闥山男子バレー部そのものが揺るがされると言いたいらしい。井闥山のバレー部の不調はイコール佐久早君の不調でもあると思うのだけど、佐久早君も随分な意地っ張りだ。井闥山という学校自体を人質に取って私に好きだと言わせようとしているのだからずるい。そのくせ、佐久早君は私に好きだとは絶対に言わないのだろう。本当に佐久早君が私を好きなのかどうかは、わからないけれど。
「佐久早君がいるから大丈夫だもん」
「そこまで言うなら観に来るんだろうな」
「行くよ、勿論」
 佐久早君は前に一回私が佐久早君の試合を観に行かなかったことを根に持っているらしい。その時は先約があっただけで応援したいという気持ちはあったのだけど、佐久早君は自分が試合をしている間に私が友達と遊んでいたのが気に食わなかったようだ。
「明日は絶対に行くから、安心して」
「井闥山の命運はお前にかかってんだからな」
「え、勝利の女神的な?」
「そこまでは言ってない」
 佐久早君はスポーツバッグを肩に掛け直すと、「明日試合で言わせてやる」と言った後教室を出て行った。



【佐久早と強要】
「おい、告白しろ」
 佐久早君にそう言われた時、私は少なからず動揺した。時や場所を問わず告白している私だが、佐久早君の方から告白をリクエストされるのはこれが初めてである。もしかして、遂に答えてくれる気になったのだろうか。佐久早君の顔を見上げて、私はその考えが間違っていたことに気が付いた。
 佐久早君は普段通りクールでありながら、どこか調子の悪そうな顔をしている。そういえば、ここ数日話しかけても返事が素っ気なかった。だから私は告白することを控えていたわけだが、これは重要なサインなのかもしれない。佐久早君の大事な何か――恐らくはバレーが、上手く行っていないのだ。
 気付いたところで、私がどうにかできるわけでもない。バレーに関して素人の私が佐久早君の悩みを解決できるわけではないし、何かコメントしようものならお門違いも甚だしいだろう。私にできることは、馬鹿みたいに好きだと伝えることだけなのである。
「好きだよ、佐久早君」
 私はいつもと変わらないことを心がけて佐久早君に告白した。
「ん」
「スランプに陥ってる佐久早君も好きだよ」
 これは怒られてしまうだろうか。少しの悪戯心を持って言ってみると、佐久早君は「当たり前のこと言うな」と私を睨んだ。
「今に見てろよ」
 その一週間後、佐久早君はグループ校との練習試合でかつてない得点数を叩き出した。



【佐久早と命令】
「いいか? お前は誰とも付き合うな」
 それが高校に入学する際佐久早に言われた言葉だった。幼い頃から佐久早の言いなりだった私は素直に佐久早に従った。幸い私は男子に人気がある方ではなかったので、佐久早の言いつけのせいで心苦しい思いをすることもなかった。佐久早は高校二年の秋になると、帰り道で私を振り返らないまま言った。
「そろそろいいだろ。付き合うか」
「いや、無理だよ」
 一体何がいいのだろう。私が当然のように断ると、佐久早は不機嫌な顔をしてこちらを見た。何を驚いているのだろう。佐久早は自分で言ったのではないか。
「誰とも付き合うなって言ったじゃん」
「俺はいいんだよ」
「何で?」
 そう尋ねると佐久早は悔しそうな顔をして言葉に詰まる。佐久早と私は昔馴染みであるだけで、特別な名前のつく関係性ではなかった。
「……俺だから」
 その言い分は随分苦しくないだろうか。自分で制限をしておきながら例外を認めろというのも変な話だ。却下だとばかりに私が歩き出すと、佐久早は私の後ろについて歩き始めた。
「そもそも付き合うなって言ったのも俺だからいいだろ。お前は俺の言うことには従うだろ」
「じゃあ誰とも付き合うなって言ったことの有効期限が切れたってこと? これからは私は自由に恋愛していいの?」
「違う。俺以外とは恋愛するな」
 ますます佐久早が何を考えているのかわからなくなった。佐久早は一体何のために私の恋愛を制限して、自分だけ例外をねじ込もうとしているのだろう。佐久早は眉を顰めながら「察しろ」と言った。今まで相手に何かを察してもらおうとしている人がこんなに堂々としているところを見たことがない。
「わかんないよ、言葉にしてくれないと」
 いつも明確な言葉で私の行く末を照らしてくれたのは佐久早だったではないか。こんな時ばかり言葉にしないのはずるい。理解させることは不可能だと悟ったのか、佐久早は頭に手をやって言った。
「好きなんだよ、お前のことが」
「ほんと? いつから? 何で?」
「だから言いたくなかったんだよ……」
 今度は佐久早が私を置いて歩き出す番だった。私は佐久早の背中を追いながら、佐久早の隣に顔を出す。
「仕方ないから付き合ってもいいよ」
 佐久早は私の頭を小突いた後、「生意気」と言った。多分、この瞬間から私達は付き合い始めた。



【佐久早と出られない部屋】
 気が付いたら知らない部屋にいた。これは夢なのだろうか。それにしては、感覚も思考もやけにはっきりしている気がする。部屋の中を歩き回っていると、「おい」と声がした。
「お前ここがどこかわかるか」
「全く……」
 背後にいたのはプロバレーチームMSBYの佐久早だった。佐久早と私は大学の同期だ。就職後たまたま大阪に配属され、卒業後も仲良くさせてもらっている。佐久早とそのチームメイトも含め飲むこともたまにある。佐久早は嫌そうな顔をしていたが。
 佐久早は部屋の中を歩き回ると、出口でも探すように壁に触れた。
「どうやら密室らしいな。ドアも見当たらねえ」
 佐久早は私より先に目が覚めていたのだろう。部屋の中は大方把握している様子だ。私も部屋を見回してみると、すぐ近くにメモのようなものを見つけた。
「何これ……?」
 中を広げた私は言葉を失う。すぐに佐久早に気付かれ、「何だ」とこちらに近寄ってきた。だがこのメモだけは見せるわけにはいかない。私は隠そうとするが、呆気なく佐久早に奪われてしまった。
 二人の間に沈黙が降りる。中に書かれているのは、「セックスしないと出られない部屋」だった。どこにもドアも窓もない以上、このメモ書きは正しいように思える。だが私と佐久早がセックスをするなんてこと、あるのだろうか。
 佐久早はメモ書きを握りしめると、また歩き出した。
「馬鹿らしい。さっさと別の出口探すぞ」
「うん……!」
 佐久早はメモ書きを真に受けていない。私は嬉しいような、少し気落ちするような気持ちで佐久早に続いた。佐久早とセックスすることに期待していないといえば嘘になるが、佐久早が私のことを簡単に抱くわけではないと知って嬉しかった。一番いいのは、ちゃんと出口を見つけて外に出ることだ。セックスはせずに。
 するとそこへ、新たな声がした。
「あっ臣くん! それに名前ちゃんやん! ここ何やねん!」
 前から現れたのは、佐久早のチームメイト・宮侑だった。宮君もこの部屋に閉じ込められてしまったのだろうか。佐久早は宮君を見るなり踵を返して私の腕を掴む。
「セックスすんぞ」
「え!? でもさっきしないって……」
「うるせえ。さっきと今じゃ話が別だ」
 恐らく佐久早の意思を変えたのは宮君の登場なのだろう。宮君はこの部屋の名前を知らないようだが、先程のメモ書きを見れば「それじゃあ俺と名前ちゃんで」などと言い出しかねない。軽い宮君なら十分ありえる話だ。だからと言って、宮君に何も言わず私と佐久早でセックスを済ませるというのはどうなのだろうか。私はすっかり佐久早の心情が理解できなくなっていた。



【佐久早と月】
「月が綺麗だな」
 朧げな街灯の並ぶ帰り道にて、隣の佐久早が発した言葉に私は息を呑んだ。かの言葉がアイラブユーの訳であるということは有名な話である。佐久早と私はただの部活仲間であるが、過ごしてきた時間が長いだけに恋愛感情が生まれてもおかしくない。今は二人きりの夜道で、告白にはもってこいのシチュエーションだ。考えても埒があかないので、私は恐る恐る佐久早に尋ねることにした。
「それって返事求められてる? イエスかノー的な」
 私の言いたいことを察したらしい。佐久早は心外だとでも言うように眉を顰めると、前を向いたまま言った。
「別にお前に告白なんかしてない。ただ思ったことを言っただけだ」
「そ、そうだよね……」
 それきり会話は途切れてしまう。これまでの道のりにも沈黙はあったはずなのに、無性に落ち着かなくなってしまって私は言葉を探した。
「珍しいね。佐久早がそんなこと言うなんて」
 佐久早はロマンチストとは対極にある人種だ。天文学など興味なさそうだし、宇宙って不潔、くらいのことを言いそうなものである。窺うように佐久早を覗き込むと、佐久早は顔色を変えずに言った。
「お前と見るから綺麗なんだろうが」
「やっぱり口説いてる!」
「口説いてない」
 私と佐久早の不毛な言い争いは続く。どちらにしろ、返事を求められないと佐久早の気持ちを知ったまま気まずいのは私の方だ。告り逃げなんてさせないからな。私は佐久早から告白の言葉を引きずり出そうと四苦八苦した。これではどちらが惚れているのかわかりやしない。



【佐久早とホワイトデー】
「ん」
 差し出された包みを見て、私は顔を引き攣らせた。今日は三月十四日、ホワイトデーだ。男子が女子にお返しをする日である。最近では、男子からの逆チョコも流行っていると聞く。ただのクラスメイトの佐久早からチョコを貰うならば、これは逆チョコなのだろうか。つまり、私のことが好きであると。
「気持ちは嬉しいけど……私は佐久早のことそういう風に見てないっていうか」
 告白された喜びを感じつつも、私は断り文句を並べた。正直チョコは食べたいが、告白を断ってチョコだけ受け取るというのもおかしな話だ。佐久早は顔を顰めて不快そうな表情を作った。
「何の勘違いだよ。俺をフラれた感じにするな」
「え?」
 私はバレンタインの記憶を掘り起こす。本命は作らなかったが、その場であげる人もいるかもしれないからと多めに作って行った。友チョコをあげ、義理チョコをあげ、席が近いからと佐久早にもあげた。私が顔を上げると同時に、佐久早は無理やり私の手にチョコを握らせる。
「ただのお返しだ」
「ご、ごめん……」
 私は恥ずかしさで消え入りたくなった。これでは勝手に告白と勘違いした痛い女だ。自意識過剰だと思われてしまうかもしれない。落ち着かずに手でチョコの袋を弄っていると、佐久早がマスクを直しながら言った。
「……もし俺が告白したら、フるわけ」
「え? 今のは咄嗟に考えたっていうか……」
 チョコも出された手前、チョコだけ受け取って返事は保留というわけにもいかない。早く返事をしようとして出したのがあの結論だったのだ。考え直せば別の答えも出るかもしれないが、佐久早がそんなことを気にするとは思わなかった。
「佐久早、私のこと好きなの?」
 佐久早を覗き込むと、佐久早は先程よりも大きく顔を歪めた。
「言っただろ、ただのお返しだって」
「ああ、まあ」
「それじゃチョコ渡したいだけだから」
 そう言って佐久早は去ってしまった。佐久早の言う通り、このチョコはただのお返しであるらしい。だが、佐久早が私のことを好きである場合でもホワイトデーに合わせて告白をせずにただのお返しを渡すということもあるのではないだろうか。微妙に答えになっていないような佐久早の言葉に違和感を抱きながら、私は佐久早が消えたのとは別方向に歩き出した。チョコが貰えたから、まあいいか。



【佐久早の誕生日】
「いや、色々考えたんだけどね? 聖臣って好き嫌いの振れ幅凄そうだし、かといって無難なタオルとかにしたくないし。やっぱりこれしかないかなって。プレゼントは私です!」
 期待と焦りの入り混じった表情で両手を広げる私を、聖臣は冷静な顔つきで見下ろした。少なくとも私の腕の中に飛び込む、ということはなさそうだ。予想はしていたが、ここまで薄い反応をされるとは思わなかった。
「……却下。うち親いるしお前んちもいるだろうしそもそも今日は練習が長い」
「そ、そっか……」
 聖臣の言葉を聞きながら、私の「プレゼントは私」という言葉は「体をプレゼントする」という意味で伝わったのだなと実感する。でなければ家に親がいるという話は出てこないだろう。別にその意味で伝わって困ることはないのだが、聖臣もきちんと意味を受け取ったと思うと気恥ずかしいものがある。聖臣は全く照れた様子も見せず、片手でマスクを調整した。
「どうしてもお前自身をプレゼントしたいんならいつも通りにしてろ」
「わ、私で聖臣の精神的支えになれるなら!」
「そこまでは言ってない」
 聖臣は平然とした顔で普段の私がプレゼントであるとのたまう。直接言葉にして言われたわけではないけれど、そう言っているのと同じだろう。彼女として好きでいてくれることはわかっていたはずだけれど、いざ事実として示されると胸が鳴る。これではいつもの私らしくないと思い直して、私は何も気付いていないフリをして聖臣にまとわりついた。聖臣は私の照れ隠しだと気付いているのかいないのか、普段より表情が和らいでいる気がした。



【佐久早と入学式】
「やる」
 入学式が終わって教室へ戻る列の中、目の前を歩く彼は退屈そうに言った。その手には新入生の胸元に飾られる造花がある。男の子だし、元から花は好きでもないのだろう。造花をつけなくてはいけない時間も終わったし、ゴミ箱に捨てるのも面倒だから近隣の人に押し付ける。彼にとってはそんな感覚だろうか。だが男が女に花を贈るというのは、それなりの意味を持つものだ。少なくとも高校生活での甘いひとときを夢見て入学した私には、小さなことではなかった。
「ありがとう」
 たどたどしく言って、私は胸元に二つ目の造花をつけた。それを確認すると、彼は満足したように去って行った。
「ねえ、今年はお花くれないの?」
 新学期が始まる朝、私は前の席の佐久早に話しかけた。佐久早とは二年連続同じクラスで、出席番号が前後だったのだ。仲良くしたいから花を贈ったのか花を贈ったから仲がいいのかはわからないが、私達はそれなりに上手くやれている。佐久早は眉を顰めた後、背もたれにもたれたまま前を向いた。
「うるせえ。ちょっと花やったくらいで舞い上がりやがって」
「いいじゃん別に! 嬉しかったんだから! それで今年はないの?」
「ねえ」
 当然ながら二年生に花はない。なおも私が不服そうにしていると、佐久早は呆れた様子でバッグからお菓子を取り出した。
「しょうがねえな。ほら」
 口内ケア用のミントガム一つ。ロマンスとは結びつかないような代物だけど、私は有り難く受け取ることにした。人から貰ったものは、なんとなく美味しく感じるものだ。
 三年になると私と佐久早のクラスは離れた。ついでに私と佐久早は付き合うことになった。付き合おうという話は二年の秋頃から出ていたのだけど、お互いの生活が落ち着くまで待っていたら冬を越してしまったのだ。佐久早の不在を心許なく思いながら始業式の一日を終える。部活がないのでそのまま帰ろうとする私を引き止めたのは、佐久早だった。
「やる」
 その言葉と共に差し出されたのは、透明な袋に入った一本の花だった。
「これ……」
 この花には見覚えがある。二年前、私達が入学式でつけていたのと同じ種類の花だ。
「大変だったんだからな、似たような花探すの」
 そう言いながらも佐久早は不満そうではない。窺うようにこちらを見ながら「これから、よろしく」と言うので、私は二年ぶりの言葉を繰り返した。
「よろしく」



【佐久早に報告】
「告白された」
 駅へと続く帰り道、部員達の背中を見ながらそう呟くと隣を歩く佐久早は数秒の間を空けてから言った。
「別に俺はお前の彼氏とかじゃねえけど」
「佐久早って彼女には告白されたらちゃんと報告してほしいタイプ?」
「話を逸らすな」
 鋭い言葉を投げかけられ、私は元の悩みに戻る。今回私に告白をしてきたのは、特に話したこともないクラスメイトだ。顔もクラスでの立ち位置も普通、という印象を受ける。特に悪いこともなければ、特に良いこともない。だからこそ私は答えあぐねていた。
「うーん、どうしようかな〜」
 生憎今の私には彼氏がいないので、断る理由もない。空を見上げると、隣から小さな声が返ってきた。
「そうやって俺を弄んで楽しいか」
「佐久早に告白されたわけじゃないよ?」
 今回のことに佐久早は何も関係ない。強いて言えばこうして話に乗ってもらっているくらいだけど、ただの部活仲間の恋愛事情を聞くのは嫌なのだろうか。いくら佐久早が彼女には告白されたら報告してほしいタイプとはいえ、私は佐久早の彼女でも何でもない。こうして迷っている姿が不快という意味だろうか。私の考え込む姿を見て、佐久早は見切りをつけたように歩き出した。
「もういい」
「あ、ちょっと! 結局これどう返事すればいいの!」
 佐久早の背中を追って歩いていたら、不思議と返事は断る方向に向かっていた。もしかしたら私には最初から付き合う気などなかったのかもしれない。少しの謎は残したが、結果的に佐久早は私を手助けしてくれた。これからも恋の悩みは佐久早に話そうと、私は密かに決意した。



【佐久早に計画される】
「私、もう諦めますね」
 長いこと佐久早を追い続けてきた名前の、最後の一言だった。隠しきれないくらい驚くのはどれだけ佐久早がいなそうと名前は好きでい続けると思っていたからなのだろう。佐久早は乾いた口で、「ああ」と言うのが精一杯だった。名前は踵を返して去ってしまう。その背中が、急に遠く感じた。
 元から自分のものでもなかったはずなのに、言いようもない喪失感に襲われる。どこか空虚な心を持て余しながら、自分は失恋したのだと気付いた。異性を失った痛みは失恋と言うほかないだろう。佐久早は名前のことを、好きだったのだ。うんざりするくらいアピールされていたのに、今になって気付くとは皮肉なものだ。
「で、何でそれを俺に言うんだよ」
 目の前の古森は、不服そうな顔をしてフライドポテトを一つ摘んだ。ちょうどいい時に古森に誘われ、佐久早に起こったことを話したのだ。古森に話したら、それは恋ではないと否定してもらえるかもしれないという希望は少なからずあった。だが対人関係の上手い古森から見ても、佐久早の気持ちはやはり恋であるらしかった。
「普通本人に言うだろ。諦めて一ヶ月以内なんてまだ未練あるんだからさ、俺も好きだって言って抱きしめてやれば一発だって。そのままヤレるかもよ」
「あいつで変なことを考えるな」
 途端に眉を寄せた佐久早に、古森は「わーお、本気だ」と言ってみせた。佐久早は親しい後輩を性的な目で見るのが嫌だっただけなのだが、世間一般的には嫉妬しているように映るのだろうか。
「あー、いっそ録音して聞かせてやりたいな。佐久早のお気持ち表明から見苦しい嫉妬まで全部」
「それをやったらお前との縁は切る」
「俺じゃなくて苗字に言えば全部解決だってのに……本当面倒くさい奴に好かれたもんだな」
 古森は呆れた調子で言う。すかさず佐久早が「俺が好いてるんじゃない、勝手にあっちが好きにさせたんだ」と言ったが無視だ。佐久早はドリンクをテーブルに置いて仕切り直す。
「これから苗字にもう一回振り向いてもらうための作戦を立てる」
「振り向いてもらうも何もまだあっち向ききってないから。絶対まだ好きだから」
 何でその方向に行くかなー、作戦も何もないんだけど。古森の声は佐久早の耳に入らない様子だ。とはいえ、色恋沙汰とはおよそ結びつかない所にいる佐久早が考えた作戦には興味がある。佐久早の話に身を乗り出した古森も、結局は共犯なのだった。



【佐久早に復讐される】
「俺のファーストキス返せよ」とは、小学生時代私が誤って佐久早と唇を合わせてしまった時に言われた言葉である。決して意図したものではないし、ファーストキスを失ったのは私も同じなのだけど、佐久早にとっては唇を奪われたということが大事らしかった。私は何か償う方法を探した。だが一度奪ってしまったものを元に戻すことはできない。人生で一度目の経験というものは、後から差し替えられるものではないからだ。追い詰められた私は佐久早に約束した。
「今は無理だけど、大きくなってファーストキスくらい大事なものができたら佐久早にあげるから」
 佐久早は仕方なく納得したようだった。この時の私は、いつかアルバイトを始めた日の初任給だとか、倍率の高いライブのチケットだとかを考えていた。だが思春期に入ってみれば、ファーストキスに匹敵するものは一つしかないのだ。女子なら尚更価値が高まるそれは、性行為の初体験だった。
「俺のファーストキス返せよ」
 十年越しに佐久早が同じ台詞を吐く。あの頃とは随分声が変わってしまった。佐久早も、私も、大人になってしまったのだと実感する。大人の責任の取り方はわかっている。服を脱ぐ私を佐久早は満足そうな目で見た。ファーストキスをした人と、まさかセックスまでするとは思わなかった。言葉だけ聞けば長く付き合いのある人と結ばれたロマンチックな話だろう。だが実際は罪を償っているだけである。佐久早が私の肩に手をかけると、私達は二度目のキスをした。



【佐久早と映画】
 控えめな喘ぎ声と息遣いの音が響く。今日、佐久早の家にやってきた私は映画を観ることにした。お家デートももう数回目になるし、佐久早とそういうこともしている。だが他人のセックスを見ることになると、自分達がやるのとはまた違う緊張感に包まれるのだった。
 私はそろりと佐久早を見る。佐久早は映画の濡れ場をどう見ているのだろうか。集中していないのは佐久早も同じのようで、佐久早はすぐに私の視線に気付いて「何だよ」と言った。
「いや、勃ってるかなと思って」
 誤魔化すにしても最低のことを私は言う。照れているかと思いきや、佐久早があまりにも普通だから反応に困ったのだ。恋愛経験がないわけではないが、男の人がどういうタイミングで勃起するかというのは今でも計りかねる。
「……慎みを覚えろ」
 佐久早は嫌そうな顔をして視線を前に戻した。ところがその先にあるのは濡れ場が映し出されているテレビである。名前も知らないアメリカの俳優達は、まさに盛りに差し掛かっている。佐久早は何も反応しないのだろうか。私は少し、そういう気分になってしまったのだけど。
 私はそっと佐久早のズボンに手を伸ばした。悟られないようにやっていたはずが、佐久早に気付かれ避けられる。すると私の中のスイッチが入ってしまい、私は佐久早の股間を触ろうと必死になった。とにかく反射神経のいい佐久早に触れようとするのはかなり体力を使うのだが、傍目にはじゃれているようにしか見えないだろう。
 数分の格闘の後、佐久早は遂に私の両手を捕まえた。とっくに濡れ場は終わり、テレビからは冷静な英語が聞こえてきた。
「観念しろ」
 佐久早ももう映画はどうでもいいのだろう。息一つ切らしていないのが流石だと思う。私は佐久早に捕まったまま、諦め悪く「勃った?」と聞いた。
「……映画では勃たなかったけど、今のお前でちょっと勃った」
 私は目を瞬いて佐久早を見た。俳優達が殆ど裸で交わっている映画には反応しないのに、一枚も脱いでいない私が聞くのは性的なのだろうか。佐久早のことがまるで理解できない。じゃれていた時だって、私は佐久早に触れることすらできなかったというのに。
「佐久早のレーダーがわからなさすぎる……」
「好みはわかりきってんだろうが」
 そう言って佐久早は私を見下ろす。この場合の好みは多分、私のことなのだろう。私が何も言えずに照れていると、佐久早がまた「勃った」と言った。



【佐久早に返事をされる】
 中庭に呼び出すと、佐久早は不機嫌であることを隠しもしない様子で口を開いた。
「話って何? 五分で済ませろ」
 いくら私達が気の置けない仲であるとはいえ、女の子に呼び出されてその態度はないのではないだろうか。異性を人気のない場所に呼び出す理由など一つだ。佐久早は私が中庭に呼び出してまで世間話をすると思っているのだろうか。
「佐久早ってほんと女心わかってないよね」
 私が口を尖らせると、佐久早は確信を得たという様子で目を細めた。
「それじゃあ告白だな。わかったから帰る」
「ちょっと! 返事してくれないと困るんだけど!」
 この際決まり文句を言う前に雰囲気もなく佐久早に要件を察されてしまったということはどうでもいい。私が伝えたいのは、どちらかと言うと「好き」ではなく「付き合ってください」の方なのだ。「好き」だけ了解されて帰られても、私としてはオーケーだったのかフラれたのか判断しかねる。私に言わせないなら言わせないで、せめて返事くらいはしてくれないだろうか。
 佐久早は校舎へ帰ろうとする足を止めると、面倒くさそうに振り返った。
「お前の告白ならオーケーだって言ってんだよ。じゃあ俺部活のミーティングあるから」
 そのまま去ってしまう背中を私は呆然と眺めた。この数ヶ月必死に考えた台詞もシチュエーションも全て不要だったのだ。佐久早は私が告白したという事実だけで、オーケーしてくれるのだから。
 ある意味普通に了承されるより衝撃的な返事を受け、私は棒立ちになる。私はこれだけ影響を受けているというのに、佐久早は平然とした顔でミーティングに出るのだろうか。そう考えると少し悔しくて、擽ったい気がした。



【佐久早にお願いをする】
 学生にとって避けては通れない道、定期考査がやってきた。自らの力を発揮する場だと意気込んでいる者もいるだろうが、私は逆である。前日に追い詰められ、テスト返却の日には泣くことになるこの行事を受け入れられてはいなかった。せめて計画的に勉強するようになる布石が欲しいものである。テスト範囲が発表された授業の終わり、私は隣の席の佐久早に頼み込んだ。
「次のテスト八○点以上取れたらなんでも私の言うこと聞いてください!」
 頭の上に佐久早のじとっとした視線が刺さるのがわかる。佐久早はいつも私が何か言うと、心の中で冷やかすように目を細めて黙り込んでいた。
「それ俺に何のメリットがあるんだよ」
「だって佐久早いつも私の点数見て馬鹿にしてくるじゃん」
 佐久早の言うことはもっともである。私がどんな点数を取ったところで佐久早には関係ない。だが、佐久早はテストの度に私の点数を見てせせら笑っていた。そのしっぺ返しだと思えば安いものではないだろうか。佐久早に笑われることが結構ショックだったことなど、佐久早は知らないだろう。佐久早はテスト範囲のプリントを見ながら平然と言った。
「それはお前を好きだからだろ」
 佐久早のからかいは悪意ではなかったのだ。私は信じられない気持ちで目を見開く。
「じゃあ点数悪くてもいいの?」
 佐久早はプリントから目を上げると、少し照れたような表情をした。
「それくらいでお前のこと好きなのやめねぇから」
「やったー!」
 私はテストのことも忘れ手放しで喜ぶ。点数が悪くても私への評価は変わらないと佐久早から言われたのだ。今の会話の流れで告白めいたものがあった気がしたが、それすらどうでもよかった。佐久早が返事を求めないなら私も気にする必要はないのだろう。私の気持ちを見抜いたかのように、「少しは気にしろよ」と佐久早が言う。それはテストのことなのだろうか。それとも、佐久早が私を好きなことなのだろうか。どちらにしろ今は考える気分にならなくて、私は誤魔化すように笑った。佐久早はそれを見て呆れたように目を細めた。




【佐久早とラブホテル】
 ラブホテルで一晩を過ごした朝、私は部屋に監禁されていた。正確には出させてもらえないと言うべきだろうか。私が一夜を共にした相手――佐久早は、扉を背にして立ち塞がっているのだ。
「寝たんだから付き合え。俺をヤリ捨てするつもりか?」
 思わず処女かと聞きたくなってしまうほどの面倒臭さである。佐久早が細かな性格をしているのは知っていたけれど、スムーズにラブホテルに誘うくらいだから恋愛にも慣れているのだろうと思っていた。佐久早はラブホテルに行ったら毎度付き合うのだろうか。
「佐久早、童貞なの?」
「悪いか」
 予想に反して今回が初めてであるということに驚く。昨晩の佐久早からは微塵もそのような雰囲気は感じられなかった。
「初めてなのに、ちゃんと付き合ってる人とじゃなくてよかったの」
「お前だからいいんだろうが」
 段々佐久早の言いたいことがわかってきた。佐久早は私を本気で好きなのだ。私となら初めてを捧げてもいいと思ってホテルに誘って、本気で私を口説こうとしている。その方法が部屋から出さないというのは些か乱暴な気もするが。佐久早は顰めっ面のまま続けた。
「俺はワンナイトなんてしないしラブホなんて不潔な場所行かない。全部お前だからだ」
「……最初からそう言ってくれればいいのに」
 何もホテルに連れ込んでセックスしなくとも、素直に愛を囁けばいいのだ。佐久早はそれができるではないか。回りくどい真似をせずに最初からそうしてくれれば、私だって考えたというものだ。
「お前に合わせたんだよ」
 言外に遊んでいると言われているようで顔を顰める。私は佐久早が思っているほど遊んでいないし、経験も豊富なわけではない。
「私が誰とでもホテル行くと思ってる?」
「そうなんだろ」
「違う。私は気になる人としかホテル行かないから」
 私はそう言ってそっぽを向いた。佐久早は驚いたような顔をしていたがこれ以上言ってやるつもりはない。精々自分で私の言葉の意味を考えてほしい。その上で佐久早が素直に告白してくるならもう一度考えてあげるというものだ。



【佐久早が欲情する】
 昼休みの空き教室にて、私達は密かに唇を重ねていた。それだけではない。舌を絡め、唾液を交換し、体ごと擦り合わせていた。しかし終わりはやってくる。昼休みの後半にミーティングを控え、佐久早は体を離した。
「じゃあ、俺行ってくるから」
 教室を出ようとする佐久早に次いで出口へ向かうと、私は「ダメ」と佐久早に止められた。
「少し経ってから来い」
「何で?」
 私は純粋に首を傾げる。おおっぴらにしていないとはいえ、既にクラスの数人は私達の仲を知っている。知らない人だって、同じ教室から出てくるところを見たら黙って察するだろう。それとも、佐久早は私と空き教室にいたことを知られたくないのだろうか。私の不安を察したのか、佐久早はもどかしそうに口を開いた。
「そんな顔他の男の前で見せるわけにはいかねぇだろ」
 そんな顔、と言われて私は自分の頬を押さえる。佐久早とキスをして、興奮しているのは自分でもわかっていた。今の私は余程浮かれた顔をしているのだろうか。
「私、どんな顔してる?」
「今すぐ挿れられたいって顔」
 佐久早のストレートな表現に思わず顔に熱が集まる。私は今そんなのぼせた顔をしているのだろうか。だが、佐久早の言葉に反論できないのも事実だ。私はここで終わることに物足りなさを覚えているのだから。
「……挿れてくれないんだから、しょうがないじゃん」
 言い訳のように言うと、佐久早は言質を取るように「言ったな」と言った。
「俺だって、ミーティングがなければ挿れたい」
 私は驚いて佐久早を見た。佐久早は学校での性行為など危険で不潔だと言うと思っていたのだ。だが、そもそも空き教室でキスをしている時点でそのしがらみもないのかもしれない。佐久早は一度私の手を握ると、離してからドアに手をかけた。
「とにかく、そのメス顔他の男に見せるなよ。一人でしててもいいから」
「なっ……」
 反論する隙も与えず佐久早は出て行ってしまった。残された私は、一人口を開けたり閉めたりする。今の私は、思った以上に動揺しているようだ。これは佐久早の言う通り当分出て行かない方がいいだろう。



【佐久早を出待ちする】
「……」
 無言の視線が交錯する。ファンの黄色い声が響く中、私と佐久早は激しい緊張に包まれていた。
「で、何で出待ちなんかしたんだよ」
 体育館から姿を消した直後、私は佐久早に携帯で呼び出された。佐久早に呼ばれたらすぐ行くのが私の役目である。近くのレストランの個室に入ると、私はきまり悪く身を縮めた。
「宮選手がファンならすぐ抱くって聞いて、私もファンになれば抱いてもらえるかなって」
 向かいで佐久早が深いため息をつくのが聞こえる。だが、私も本気なのだ。長い間佐久早を好きだと示し続けてきた。佐久早は少しもなびく様子はなかったが、こうして二人で話すくらいには仲良くなれたと思う。だが、私が目指すところはただの友達ではないのだ。佐久早と恋仲になりたい。そう思っていたはずが、あまりの望みのなさに一晩だけでもいいから共にしたいと思うようになっていた。目標を変えても佐久早の攻略難易度は相変わらずである。同じチームの宮選手はファンをすぐに抱くという噂を聞きつけ出待ちをしてみたが、結果は失敗に終わったようだ。
「まず俺は宮じゃねぇ。ファンは抱かない」
「はい……」
 自分の考えの浅さを注意されているようで、私は居た堪れなくなる。佐久早は怒りを堪えたような口調のまま続けた。
「それと俺は本気で好きなやつを付き合う前から抱いたりしない」
 佐久早は何を言っているのだろう。私の行動を咎めていたはずが、急に佐久早の恋愛観の話になって意図をつかみかねる。佐久早は私の様子を見て舌打ちを一つした。
「つまり、順序を踏ませろってことだ」
「順序……?」
 佐久早の言っていることは曖昧でよくわからない。佐久早は「クソ、お前に言わせるつもりだったのに……」と言ってから頭を掻いた。
「付き合おうって言ってんだよ」
 その一言に私は目を瞠る。
「いいの!?」
「いいから言ってんだろうが。あとうるさい」
 佐久早は照れからか苛ついた様子である。私はすっかり佐久早が素直な人間ではないということを忘れていた。確かに佐久早なら、遠回しな告白しかできないだろう。機嫌をよくした私に、佐久早は居心地が悪そうな顔をしていた。



【佐久早の都合のいい女になる】
「ねえ! どういうこと!」
 佐久早が朝練から帰ってくるなり、私は佐久早にまとわりついていた。というのも、隣のクラスの女子が佐久早に告白した際に佐久早は「付き合ってるみたいな奴がいるから」と断ったらしいのだ。佐久早が私を好きだと断言できるほど驕っているわけではないが、佐久早を一番つけ回しているのは私だと思う。年中アピールばかりしていた公開片思いもついに叶う日が来たのだろうか。佐久早は私に面倒くさそうな視線をやり、眉を顰めた。
「あーうるせぇ。お前のこと利用しただけだろ」
「でも佐久早の中では私が一番親しいんだ!?」
 期待を込めて佐久早を見ると、佐久早は舌打ちを一つする。大方飼い犬に餌を与えすぎて面倒なことになったと思っているのだろう。
「断るのにお前の存在が都合よかっただけだ」
「つまり、私は都合のいい女……!?」
 正妻ではないが、都合のいい女も恋愛対象であることは明らかである。世間の都合のいい女は、男とキスやセックスをしていることだろう。
「佐久早、私とキスとかできるの……?」
 てっきり、「うるせえ」とか「調子に乗んな」という言葉が返ってくると思っていた。佐久早の言う通り佐久早にとって私が一番恋愛に近かっただけで、佐久早が私に気を許しているわけではないのだ。ましてや潔癖な佐久早のことだ。そういったことは付き合って歳月が経たないとできないと思っていた。
「だったら何なんだよ」
 佐久早の言葉に私は言葉を失う。私ばかりが好きだと思っていた。いや、佐久早も好きではないのかもしれないのだけど、少なくともキスをしていい存在とは思われていたのだ。
「む、無理! 私佐久早とキスなんてできない!」
 すぐさま私はキャパシティを超え、本当にすると決まったわけでもないのに佐久早とのキスを拒否した。私に断られたところで佐久早は鼻を鳴らすだけだと思っていたが、佐久早は憤慨したような表情を見せた。
「お前のくせに俺を振ってんじゃねぇ」
 佐久早から下に見られているということがありありと伝わってくる。「じゃあどうすればいい?」と聞くと「キスするしかねぇだろ」と返されたので、私達は両思いかもわからないのにキスをするはめになった。



【佐久早と一学期の終わり】
 テストが終わり、終業式まで中身のないような授業が繰り返される。窓から吹き込む風は乾いており、少し前の湿り気が嘘のようだった。
「もうすぐ夏休みだね」
 テスト返し後、実質雑談の時間となった教室でぽつりと呟く。隣の席の佐久早は、「ああ」と同調してみせた。
「佐久早に会えるのもこれで最後かぁ」
「最後ではないだろ」
 佐久早の言う通りではあるが、終業式の日を境に一ヶ月以上会えなくなるのは事実である。運が良ければ顔を合わすことはあるだろうが、こうして毎日お喋りに興じることはなくなるだろう。私は佐久早の隣の席になってから、この無骨のようでいて気が合う男といることを結構楽しんでいた。まるで恋人同士のようで恥ずかしくて言えないが、佐久早と会えなくなるのが寂しいという感情を佐久早は感じ取ったのだろう。
「じゃあ今から体育館部活に入れば。夏休み毎日顔合わせるだろうし」
 私は思わず笑ってしまった。何と手段を選ばない男だろうか。確かに、体育館部活同士の付き合いとは密なのかもしれない。
「そこは男バレのマネージャーになれって言ってくれないんだ」
 他の体育館部活に入るより、同じ部活に入った方がより話す機会があるのではないのか。ふと思ったことを口にすると、佐久早はきまりが悪そうにそっぽを向いた。
「……部内恋愛はできないだろうが」
 小声で放たれた言葉からは、佐久早の照れがありありと伝わってくる。勿論私も冷静に分析などできないわけで、佐久早に負けじと照れていることだろう。努めて落ち着こうとしながら私は駆け引きの真似をする。
「そういう風に思ってくれてたんだ」
「お前も似たようなもんだろうが」
 相手の言動に恋愛の香を感じていたのはお互い様だったらしい。認めてしまえば随分楽になった気がした。
「じゃあさ、夏休みどこか行かない?」
 雰囲気に乗じて私が渾身の一撃を繰り出すと、佐久早は相変わらず素っ気ない口調で「人混み以外で」と言ったのだった。



【佐久早とジューンブライド】
「いいなぁ」と溢してしまったのは自然なことだった。テレビで始まったジューンブライド特集では、花嫁が幸せそうに微笑んでいる。かく言う私は聖臣と付き合って十年近く経つものの、一向に結婚の話は訪れなかった。聖臣に、その気がないのではないかということは薄々感じていた。面倒くさい彼女になりたくないとは思いつつも、私の焦りも少しは感じてほしいという思いから私は訂正することなく聖臣の言葉を待った。ここでフラれたらどうなるのだろう。聖臣と私の出来事は全てなかったことになるのだろうか。聖臣と結婚せず付き合い続けるのと、別の人と結婚して安定した暮らしを得るのではどちらが幸せかわかりやしない。聖臣は長い間をとった後、重い口を開いた。
「俺を幸せにするのは難しいぞ」
 やはり聖臣は結婚に消極的なのだろうか。聖臣の言葉に神経を研ぎ澄ませる私に、聖臣は続ける。
「まず衛生が保証されなきゃいけないし、俺が帰ったら必ず迎えに来てくれないと嫌だ」
 聖臣が結婚生活にそんな理想を持っていたなど知らなかった。驚いて聖臣を見る私と、聖臣の目が合った。
「必ずできるって約束できるか」
 私は夢見心地になりながらも、「約束する」と答えた。それを聞いた聖臣は「よし」と言ってテレビに視線を戻した。何が起こったかわからないけれど、私達は今婚約をしたのだろうか。結婚の話を振ったのは私であるのに、最終的に聖臣が持ちかけた風になった。まさか聖臣からプロポーズされるだなんて、思ってもいなかった。思わず顔を押さえる私の肩を聖臣はそっと抱く。私の夢は、あっさりと叶ってしまった。



【佐久早と相合い傘】
 天気予報は外れ、曇天からは想定外の雨が降っていた。普段ならば部活をして待てるのだろうが、よりによって今日は体育館にメンテナンスが入るそうだ。空を睨みつけて昇降口に立ち尽くす佐久早の隣に並び、私は傘を差し出す。
「入ってく?」
 すると佐久早は上を向いたまま言った。
「誤解されるから嫌だ」
「付き合ってるのに何が誤解なのさ!」
 そう、私と佐久早はれっきとした恋人同士である。お互いあまり主張するタイプではないとはいえ、仲のいい友人達には付き合っていることを話している。あまり噂が広まっていなかったとしても、相合い傘をしている光景を見たら誰でも察することだろう。佐久早を相合い傘に誘うには少なからず勇気が必要だったのだけど、それをふいにさせられた気分だ。責めるように佐久早を睨むと、佐久早は険のある表情で言った。
「相合い傘で浮かれてる奴だと思われたくない」
 確かに、佐久早は人前で恋人らしいことをするのを嫌うタイプである。今日は体育館部活がないので人も多い。佐久早が嫌がるのはそういった点かもしれない。だが、相合い傘をした人全てが浮かれているというわけではないのではないだろうか。
「私と相合い傘したら浮かれてくれるんだ?」
 からかうように佐久早を覗き込むと、佐久早は顔を逸らして「揚げ足をとるな」と言った。否定しないあたり真実であるらしい。佐久早には悪いが、私は何としてでも相合い傘をすることに決めた。



【佐久早とファン】
 佐久早は人と自分の試合を見ることを嫌った。偶然入った店で男子バレーの試合が放送されると、佐久早は嫌そうに眉を顰めるのだった。
「凄いね、女の子の声」
 私は佐久早を無視しテレビを見る。興味をそそられたのは、選手のプレーではなく観客の声だった。バレーは野球やサッカーと比べたらメジャーではないが、それでもしっかり女性ファンはいるようだ。もしかしたら今の私の状況も、佐久早のファンからしたら垂涎ものなのかもしれない。
「殆ど宮のファンだろ。俺には大していない」
「佐久早のサーブの時にも聞こえるけど」
 画面を指差して言うと、佐久早は女性ファンがいることが恥ずかしいのか「女ファンなんてみんな熱愛とか結婚で離れていくだろ」と言った。その言葉に思わず反論する。
「そんなことないよ! 何があっても佐久早を応援する人もいるよ! 好きな相手を全肯定するのがファンなんだから」
 変な言い方かもしれないが、佐久早は俗物的なものを避けてきた傾向がある。青春の殆どをバレーに費やし、好きなアイドルやキャラクターを応援していたことがないのだ。佐久早には「推し」の感覚がわからないのだろう。女性ファンの中には熱愛で掌を返す人もいるだろうが、まるで母親のような愛を持つ人もいる。佐久早に伝わったのか伝わっていないのか、佐久早は怠そうに「お前は?」と言った。
「勿論結婚しても応援するよ!」
「……そこは再起不能なくらいダメージ受けろよ」
 佐久早は独り言のように呟く。佐久早と私はただの友人であるが、好ましく思ってくれていることはわかっていた。それが人間としてなのか恋愛的な意味なのかわかりかねるので明確に反応したことはなかったが、佐久早は時折思わせぶりなことを言うのだ。今日は珍しく佐久早の攻撃が続いた。
「じゃあ俺が結婚してって言ったら頷くわけ」
「そ、それは……」
 本当は佐久早と恋愛関係になってもいいと思っているが、佐久早の本心が見えないだけに尻尾を振って飛びつく気にはなれない。まるで「好きな相手を全肯定するのがファン」という言葉を人質に取られているようだった。困り果てる私を見て、佐久早は笑う。
「嘘、付き合って」
 これならいいだろ、と佐久早は悪戯に笑った。ファンとしての尺度を試しているのか本気のお願いなのかはわからないが、佐久早はこういった冗談を言うタイプではないような気がした。私が頷くと、佐久早はテレビを遮るように顔を近付けた。



【佐久早と浴衣】
 このご時世により、イベントというイベントは全て中止になってしまった。人が多く集まる花火大会や夏祭りはその最たる例である。行き場のない若さを持て余しながら、私は椅子に寄りかかった。
「どこにも行けないから浴衣が勿体ないなぁ」
 私は去年私服で祭りに参加した。来年こそは浴衣でと、夏の終わりに浴衣を買ったのだ。その夏は来なかった。浴衣を着て出かけられる機会はどれくらい先になるかもわからない。
「だったら家で着ればいいだろ」
「一人だと虚しいじゃん」
「じゃあ俺ん家来れば」
 聖臣の一言により、私は浴衣で聖臣の家を訪れた。もう何度も通い慣れた光景だというのに、浴衣を着ているというだけで違った景色に見えた。聖臣のお母さんは私を見ると「名前ちゃん、美人になったねえ」と褒めてくれた。何故か聖臣が照れ臭そうにしていた。
 元々皆多忙な人だ。佐久早家にはお母さんしかいなかったので、私達は早々に切り上げた。単調な聖臣の部屋に浴衣で座ると、聖臣は何をするでもなく私の浴衣を見ていた。聖臣は私の浴衣なんかに興味がないと思っていたので少し意外だ。幼馴染の家といえど、私には十分なほど夏らしい体験ができた。
「ありがとうね、聖臣」
「別に」
 心なしか聖臣は今日機嫌がいい気がする。聖臣の顔色を窺いながら、私は「水着もあるんだけど」とそっと声に出した。聖臣は露骨に顔を顰めてから「誘ってんのか」と言った。
「水着も着るところがないなって話だよ」
「屋内で二人きりで水着っておかしいだろ」
 眉間に皺を寄せて視線を逸らす聖臣は少なからず私のことを異性として意識しているのだろうか。今日家に招いてくれたのは、幼馴染としての情だろうけれど。
「じゃあ元也も呼ぶ?」
「いい。元也は呼ぶな。俺だけで見る」
 試しに聞いてみれば一拍も置かずに返ってくるので、相変わらず恋愛感情があるのかないのかわからない幼馴染だと思った。