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 東京に住んで数年経つが、有名人と鉢合わせるとは思わなかった。その有名人が地元の、さらに言えば高校時代の隣人だとは夢にも思わなかった。

「苗字」

 絶句する私を前に、影山は当時と変わらない様子で言う。だがここは宮城ではなくて東京だし、影山はすっかり有名人だ。つい先日までオリンピックで全世界に映ったのを忘れてしまったのだろうか。

「そういえば卒業前にジュースの金お前から借りて結局返せなかったの返したいんだが――」
「用があるならこっちにして!」

 影山が呑気に話している間にも周囲の人が騒めいている。たかがジュース代などどうでもいいし、数年越しに取り立てるほど強欲なわけでもない。とにかくこの場を逃れたかった私は影山を人のいない方に連れてきた。

「悪い、苗字。ずっと借りたままだった」
「いいよそんなの」

 それより私が気になるのは人に見られていないかどうかである。周囲に人がいないことを確認して私は安堵のため息を吐いた。目の前の影山はお金のことだからなどと並べ、借りを返そうとする様子である。そこまで必死なら今ジュース代を払えばいいものを、影山はご飯を奢ることで借りを返そうとしているらしかった。

「どっか行きたい店あるか?」
「レストランでもどこでもいいけど、個室! 絶対個室にして!」

 今はオリンピックが終わったばかりなのだ。週刊誌にでも撮られたら困る。私の必死の訴えに、何故か影山は緩んだ頬を押さえていた。

「苗字、そんなに俺とヤりてえって思ってくれてたのか」

 私は数秒遅れて影山が何を言っているのか理解した。男女が個室に通されれば、何でもし放題である。レストランの後に個室のホテルにでも行けば、勿論体を重ねることになるだろう。影山はそれを連想したのだ。だが私は有名人の影山のせいで目立ちたくないだけだし、影山をそういう風に思ったこともない。

「調子乗るな! 借り返してもらうだけだから!」

 思ったことがないはずなのに、今の影山の発言のせいで自然と意識してしまった。私は個室レストランで、本当にただの同級生でいられるだろうか。