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 喧嘩をしてしまった。発端は普段なら見過ごせるくらい小さな事だった。だが私達はお互いに仕事で疲れていて、飛雄に対する不満も少なからず溜まっていた。今回の出来事はコップに張った水を溢れさせる最後の一滴だったのだ。飛雄のマンションから数百メートル走ったところで、何をしているのだろうと思った。これが大学生くらいの女の子であれば若さにかまけた衝動と言えなくもないが、私達はアラサーである。飛雄のマンションがある高級住宅街で、私は一人浮いていた。随分頭も冷静になったことだし帰ろうか。飛雄はぬけぬけと自宅に戻ってくる私を何と言うだろうか。踵を返そうとした時、後ろから勢いをつけて抱き止められる。不審者だと叫ぼうとした時慣れた匂いを感じ取って息を呑んだ。

「飛雄?」

 振り向けば、飛雄が必死の表情で私を抱きしめている。私は振り解くこともできず路上に立ち尽くした。今は昼間で、ここは人通りもある歩道だ。いい年の男女が抱き合っていたら訝しまれてしまう。しかも今回は些細な原因だったのだし、放っておけば戻ってくる性格だということは飛雄もわかっているはずだ。耐えられなくなって抜け出そうとすると、飛雄が私のブラウスに向かって息を吐いた。

「お前は俺から離れるな」

 また王様節だと、からかってやろうかと思った。しかしそれは一番の禁忌であることに思い至った。飛雄は中学時代チームメイトに拒絶された。その記憶が、今も飛雄の心に根を張っているのだ。私が飛雄との恋愛を楽しんでいる間、飛雄はずっと置いていかれることに怯えていたのではないか。私は急に飛雄が小さな男の子に見えた。

「私は飛雄のチームメイトじゃないし、私達がやってるのはバレーじゃない」

 自転車で傍を通り過ぎた主婦が何事かと私達を見た。沿道に植えられた桜の葉が私達に心地よい影を落としていた。私は飛雄の輪郭をそっと撫でた。

「恋をしよう、飛雄」

 飛雄が顔を上げる。その瞳と目が合った瞬間、飛雄はずっと人間関係という敵と戦っていたのだと思った。恋も人間関係には違いないのだが、恋人は些細なことでは見限ったりしない。こうして家を飛び出してしまうくらいのことはあっても、相手の全てを受け止めてあげられるのは親か恋人だけなのだ。

「ああ、俺、お前が好きだ」
「私も好きだよ」

 私達の間に渦巻いていた影が一つ消える。私達の恋は、今始まったのだと思った。