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「お会計お願いします」

 カウンターの前に立った人物を見た時、見間違いかと思った。雰囲気は変わっているものの、彼女は治が高校時代付き合っていた恋人・名前に相違なかったのだ。治は頭が名前に支配されるのを感じながら機械的に業務をこなした。何故名前が治の店に来たのだろう。ただの偶然? それとも治がいることを知った上で? どちらにしろ、彼女はもう去ってしまう。次会える保証はない。お釣りを渡した後、去ろうとする彼女に向かって治は咄嗟に「あの!」と叫んだ。

「あの……うち、ポイントカードやってます。よかったら」

 差し出したのは、メモ帳に印鑑を一つ押しただけの粗末な紙である。到底飲食店が使うポイントカードには見えない。治が彼女を引き止めるために作った咄嗟の機転であることは明らかだった。

「十個貯まったら、店主の家にご招待します」

 治は必死の表情を彼女へ向ける。彼女は治をじっと見た後、笑った。


「で、あの時握ったんが鮭やったから鮭むすびになったんか」

 現在治の部屋で名前が掲げているのは印刷会社に発注した本物のポイントカードだ。あの日治が言った通りスタンプ欄は十個しかなく、一枚で鮭むすびと交換できるようになっている。定位置と化したソファで寛ぐ名前を横目に治がキッチンから声を出した。

「仕方ないやろ。あの時家に鮭しかあらへんかったし、色々必死やったし。ていうかお前は何ノコノコ男の家上がっとんねん。十年ぶりやったんやぞ?」

 名前は小さく笑う。治が言っているのは、名前がスタンプを十個貯めた後のことだ。「店主の家へ招待する」の言葉通り、名前は治の部屋――現在名前と治が同棲している部屋に招かれた。治の目論見はわかっていた。数年ぶりに名前と復縁しようというのだ。必死な治の様子を見て、満更でもなかった名前は治の家へ上がった。治は名前の行動を責めたが、名前とて誰の家にでも上がるわけではない。少なからず治に気があってしたことだ。

「別にー、稲荷崎一のチャラ男が随分大人しなったなぁと思てただけやし」
「それは大人の落ち着きを得たんや」

 キッチンで料理を作る治は随分所帯じみたものだと思う。銀髪の頃は、ミステリアスささえまとっていたというのに。

「折角ポイント貯めて家上がったのにセックスなしは落ち込んだわー、女として見られてないんかって」
「だから言ったやろ、必死やったって」

 名前はおにぎり宮のポイントカードを手で弄ぶ。おにぎり宮の最初のポイントカードは名前の財布に大事にしまわれている。治も名前を特別扱いしてか、あのメモ帳の走り書き以降のポイントカードを作らなかった。

「私もおにぎり宮に通っとんのにポイントカード貰えなくて損しとる気がする」

 名前が呟くと、治はまな板から顔を上げないまま言った。

「鮭とセックス、どっちがええ」
「鮭」

 名前が即答すると、治がプライドを折られたとばかりに噛み付く。

「さっきと言ってること逆やんか!」

 名前は高らかな笑い声を上げた。今はもう、ポイントを貯めなくても治とセックスできる。そう考えたら二人の始まりである鮭むすびも悪くない気がしたのだ。