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 飛雄が酔い潰れるのは珍しいことだった。余程気が乗ったのか、何か懸念があるのかだろう。どちらにしろ私が深く追求する必要はないと結論づけて、そっと飛雄に布団を被せた。私生活でさえストイックで甘えを見せない飛雄のことだ。こうしていると、飛雄に頼られているかのような気持ちになってしまう。

 暫く飛雄の顔を眺めた後、私はそっとベッドから立ち上がった。正確には、立ち上がろうとした。ベッドから数センチ浮いている私の服の裾を、寝ているとは思えない力で飛雄が掴むのだ。

「何? 飛雄」

 私は努めて優しい声を出す。今の飛雄は子供のようだった。飛雄は掠れた声で私の名前を呼んだ後、目を確かに開く。

「結婚しよう」

 一度思考が真っ白になって、その後押し寄せるように感情が沸き上がった。私は両手で顔を覆う。付き合って数年、同棲して一年が経った。年齢を考えてそろそろ、と思いつつも何かと鈍感な飛雄が結婚を意識しているとは思わなかった。私は三十代になっても恋人でいることすら覚悟していたのだ。

「うん。ありがとう……飛雄」

 二人で手を握り合い、暫く余韻に浸っていた。

 翌日飛雄は起きるのが早かった。酒で睡眠の質が落ちていたのだろう。朝食を作る飛雄に、私は寝巻きのまま近寄る。

「ねえ……昨日はありがとう」
「あ? こっちこそ」

 飛雄は平然とパンを並べている。照れているのだろうか。婚約二日目にしては、どうも私達にはムードが足りない気がした。

「それで、区役所にはいつ行く?」

 私が飛雄を覗き込むと、飛雄は不思議そうな顔で私を見返した。

「区役所? 何か用あんのか?」

 こんな時までとぼけるつもりだろうか。私は声を大にして言った。

「ほら! 昨日の! 結婚しようって言ったじゃん!」

 もはや私達の間に雰囲気というものはなかった。必死になる私に対し、飛雄は若干引いた様子だ。

「一応俺からプロポーズする気でいたんだが……女からプロポーズって恥ずかしくねぇのか?」

 私の中にあったのは失望より怒りだった。飛雄はプロポーズの件を忘れているのだ。その上で煽りまでしている。大体、重要な話は酔っている時にするべきではないのだ。

「もう知らない! 飛雄なんか三十路でフラれればいい!」
「おい待てそれどういうことだ! 返事してやるからこっち来い!」

 再びベッドへ潜り込んだ私を追って、飛雄はソースまみれの手でこちらへ来た。残念ながら私の理想のプロポーズにはまだまだ遠い。