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「……え」

最寄り駅の改札へと向かおうとした私は、そこに見えた人物に立ち止まった。通り行く人々より頭一つ分高い視界から私を見下ろしていたのは、高校卒業と同時にアルゼンチンに飛び立った男・及川徹だったのである。

「何でいんの」
「たまたま日本に来ただけ」
「たまたま日本に来た人が何で私の最寄り駅にいるのかを聞きたいんだけど」

そう尋ねると及川は質問に答えることなく、「お前今日ヒマ?」と言った。質問に質問で返すな。

「……別に、一駅先の本屋に行くだけだけど」
「じゃあヒマだな。ついてこい」

私に拒否権はなく――拒否することもできたのかもしれないが私は素直に人一人分の距離を空けて及川について行った。及川が乗った地下鉄は快速で、私が行く予定だった本屋を簡単に通り過ぎる。一体どこへ行くのだろうと窓の外を見てみると、太陽の光を反射して輝く海が見えた。海に見入っている私を叩き起こすように及川が「降りるよ」と言うので、私は慌てて立ち上がった。

駅から十分程歩いてやってきたのは、東京湾のとある海辺だった。宮城の海と違い、波は穏やかに揺れている。及川は私に海を見せて一体何がしたかったのだろう。及川を見ると、及川は前を向いたまま口を開いた。

「海に行こうって、話してただろ」

その瞬間に私の中で高校時代の思い出が弾けた。高校三年の夏、受験が終わったら海に行きたいねと話していた。私達がまだ、若いカップルだった頃の話だ。

「うん。そうだったね」

私は頷いて前を見た。高校時代の私達が思い描いていたのはこんな人工的な海辺で一枚も服を脱がないまま立って海を眺めることではなかったかもしれないけど、確かに今私は海にいる。波の音を聞いていると、心が少しずつあの頃に戻って行くようだった。

「多分さ、私達が付き合えたのって奇跡みたいなもんだったよね」

及川の方を見ずに、私はふと思ったことを呟く。人気者の及川と私が付き合えたのが奇跡だった。結局最後はすっきりしない形で終わってしまうくらいの相性だった私達が付き合えていたのも、奇跡だった。及川は私の言葉には触れずに、軽い調子で口を開いた。

「お前、最後の方俺のことあんま好きじゃなかっただろ」

思わず私は及川の方を見る。及川は私の方に目線をやることなく、「お前の考えてることなんてわかるんだよ」と言った。確かに、だから及川は別れ際素直に身を引いたのかもしれなかった。

「好かれてないのわかってたし、結局なあなあで別れて不完全燃焼のままアルゼンチン行って、何かやり返してやりたいって思ってるくらいなのにお前のこと誘ってるんだ」

自嘲めいた言葉なのに、及川が言うと気が悪くならないから不思議だった。及川はこういう奴だと元から分かっていたからかもしれない。及川の面倒くさい所も含めて好きになったつもりで、最終的には苦く思っていた。

「多分、俺はお前以外となんてやれないんだよ」

あまりにも情けない言葉を、及川は普通の調子で言う。その意図が掴めなくて私が窺うように及川を見た時、及川は海に向かって叫んだ。

「あーもうこんなクサい台詞絶対言わねーっ!」

先程自嘲するようなことを言ったかと思えば、今度は吹っ切れたように叫んでいる。及川の心情が分からなくて戸惑う私を置いて、及川は楽しそうな表情すら見せた。

「そういうことだから。スッキリできてよかったよ。じゃ」
「待って、及川。私と結婚しよう」

及川は今度こそ意味が分からないという表情で振り返った。だが意味が分からないと言いたいのはこちらの方だ。いきなり海に連れてきて、私に未練があるようなことを言って、それで何事もなかったように帰るつもりなのか。及川は、私が黙ってそれを受け入れると思っているのだろうか。

「それさっき言ってたことと真逆だって気付いてる?」
「うん。女にちゃらちゃらした及川はあんまり好きじゃなかったけど、私でしか勃たない及川は結婚したいと思った」
「お前でしか勃たないなんて言ってねーし。つーかどんな性癖してんだよ」

そう言う及川は気付いているだろうか。自分自身が、先程とはまた違った明るい表情をしていることに。及川は私の方へ歩み寄ると、照れくささを我慢するような表情で言った。

「じゃ、結婚するってことでオッケー?」
「うん、よろしく」

及川と私はキスをするでもなく、ただ向かい合った。海は私の背中側にあってもう私からは見えなかった。でももう海を見なくても大丈夫だと、穏やかな心で思った。