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※夢主が北さんの嫁です
※ハッピーエンドではありません

兵庫へ帰ると言ったら、ちょうどいいと言わんばかりに治は俺に頼み事をしてきた。何でも、北さんから受け取るものがあるのだという。そんなのは郵便でやれと言いたくなるが、治への借りが片手で足りないくらいにはある俺は仕方なく北さんの家へと行った。北さんが結婚した時に場所は教えてもらったが、実際に訪れるのは初めてだ。低い建物の合間を歩いて目的地へと辿り着くと、俺は「北」と書かれた表札横のインターホンを押した。

「はい……って侑君やん。どないしたん?」
「久しぶりです。治に北さんから受け取るもんがあるって、頼まれまして」

出迎えてくれたのは北さんの嫁・名前さんだ。彼女は同じ稲荷崎の先輩であるので俺もよく知っている。北さんと名前さんが結婚すると聞いた時は感慨深かったものだ。

「え、信介なら今出かけとるわ。まだ帰らんのとちゃうかな」
「ほんまですか……」

人を使うくらいならちゃんとセッティングしておけと心の中で治に文句を言いながら、俺の目は自然と名前さんの腹に注がれた。もう誰が見ても分かるくらい、目立ってきている。

「……お腹の子、順調なんですか」
「ああ、予定日は再来週なんやけどね。さっきも私の腹蹴ったわ」

そう言ってお腹を撫でる名前さんはお手本のような妊婦だった。北さんと名前さんの間に子供が産まれる、それだけで時の流れを感じる。誰ももう、高校時代にはいないのだ。

「そんじゃあまた夕方来ますわ。名前さんも体に気いつけて」
「ありがとお」

治への恨みも自然と消えたのは、名前さんの優しい愛情に触れたからだろうか。とりあえず俺は、一度実家に帰ることにして北さんが帰ってくるであろう夕方にまた来ることを決めた。幸い俺の実家と北さんの家はあまり離れていないし、こうしてゆっくり北さんや名前さんと話せる機会はもうないのかもしれない。俺は実家で土産話をたっぷりとした後、北さんの家へと舞い戻った。インターホンを押すが、返事はない。聞こえていないのだろうか。もう一度押しても、電気はついているのに声が返ってくることはなかった。おかしいと思ってよく見てみると、玄関の扉が半分開いているではないか。俺はしばらく葛藤した後、北さんの家へ入ることに決めた。北さんなら人の家に勝手に入るなと言うだろうが、玄関の扉を開けていたのはアンタだ。

靴を脱いで、廊下を覚束ない足取りで進む。いきなり北さんに見つかるのは避けたいからまずは名前さんに会いたいけど、名前さんはどこにいるのだろうか。俺が一歩踏み出した時、不意に唸り声のようなものが聞こえた。俺は咄嗟にその部屋を探し、床に蹲っている名前さんの元へ駆け寄る。

「どうしたんですか、名前さん、どっか痛むんですか」
「う、産まれそうなの……」

何ということだ。これが急病なら救急車を呼べばよかったものの、今直面しているのはお産らしい。

「北さんは、北さんはどこ行ったんですか」

俺は焦っているのを自覚しながら祈るような気持ちで聞いた。北さんでも、両親でも義父母でもいい。誰か頼れる人はいないのか。予定日は再来週ではなかったのか。

「信介は今日帰り遅なるって連絡あって……あかん、産まれてまう」

俺は鈍い頭を必死に回転させて今何をすべきか考えた。まず北さんに連絡。既読がつく気配はない。名前さんの母子手帳を拝見させてもらって病院に連絡。病院までは自力で来いって? 近くのタクシー会社に縋るように電話をかける。ここに来るまでに最低三十分はかかる。

「そこ、なんとかならへんのですかっ!」
「そう言われましても無理なものは無理で……」

もういいと電話を切って、俺は自分で名前さんを連れて行く決意をした。車の鍵は玄関にあった。北さんの車の運転も、まあ大丈夫だろう。定期的に運転するようにしていてよかった。

「名前さん、俺が絶対連れて行きますんで、大丈夫ですから」
「ん、頼むわ……」

出産経験もなければ結婚もしていない俺の言葉など何の励ましにもならないだろうに、名前さんは青い顔で頷いてくれた。俺が運転している間にも、後部座席から苦悶の声が聞こえる。ハンドルが汗で濡れる。俺はこれ以上なく切羽詰まりながら、慣れない車のハンドルを切った。これから名前さんはどうなるのだろう。嫁を貰う気なんかなく、遊んでばかりいたから出産の知識なんてまるでない。あるのは避妊の知識だけだ。ようやく病院が見えてきた頃、俺は馬鹿みたいにでかい声で叫んだ。

「名前さんっ! 着きました! 着きましたよ!」
「う、ううっ……」

名前さんはもう返事をする気力もなくなってしまったらしい。俺は名前さんを脇で支えながら受付を済ませて、名前さんを医者の元へと連れて行った。名前さんの腹の具合はかなり進行しているようで、分娩室に入るという。

「付き添いされますか? 立ち合い出産を希望のようですが」
「いや俺は……」

どう考えても俺が行くべきではないと思った。俺はたまたま家にいたから名前さんを病院に連れてきただけの言わば運び屋だし、じきに北さんが来るだろう。名前さんだって大事な出産の様子を俺に見られたくないはずだ。俺が断ろうとした時、名前さんが不意に口を開いた。

「侑君、来て……」

その言葉で自分の中の何かが動いた。北さんが来るまで、北さんが来たら絶対に交代すると決めて、俺は看護師に向き合う。

「立ち合いします」

名前さんが個室に運ばれ、時間を置いて俺も入室を勧められた。部屋には既に熱気と名前さんの唸り声が充満していて、中心で名前さんが苦しそうにしていた。

「名前さん……」

俺は分娩台横の椅子に座る。立ち合いとはこんな近くで見られるものだったのか。多分この椅子に座っても殆どの男が何をしていいか分からずに困惑していると思う。俺もその一人だ。俺は名前さんの旦那でもないのだから、もっと何をしていいのか分からない。

「ほら、手握ってあげて!」

そんな事情も知らない中年看護婦に言われて俺は名前さんの手を握ってみた。途端に物凄い力で握り返される。名前さんは今、戦っているのだ。

「名前さん! 頑張って! 北さんの赤ちゃん産むんやろ!」
「うううーっ!」

正直俺はこれ以上に苦しんでいる人を見たことがない。俺も名前さんも熱に浮かされて、ただ口から出る言葉を叫び合った。時折聞こえる看護師の現状を伝える声で俺達はさらにヒートアップした。

「頭見えてきたよ!」

あと少し。俺が名前さんの手を握る力をさらに強めた時、突然分娩室の扉が開いて北さんが顔を出した。その表情は今までにないくらい焦っていた。

「北さん!」

俺は縋るように北さんを見た。名前さんの手を離しもしなかったし、ここで俺はお役御免だとか、出て行くべきだとも思わなかった。考える余裕がなかったのだ。北さんは素早く名前さんの横に回り、名前さんのもう片方の手を握った。

「名前、頑張り。あとちょっとや。一緒に赤ちゃん抱こう」

北さんも俺を追い出すことはしなかった。この出産という緊急事態を前に、俺達は一致団結したようだ。看護師、北さん、俺の熱狂的なかけ声が反響し、分娩室はまるで体育館のようになる。そんな状態が数時間は続いた後、名前さんはようやく赤子の全てを体の外に出した。

「生まれた……」

名前さんは憔悴しきっているようだったが、赤子を抱くと微笑んでみせた。次いで北さんが抱いて、北さんも涙を流してみせる。

「侑、ありがとうな」
「せや、侑君ありがとう」
「いや、俺は別に……」

ようやく産まれた我が子を手にしているのだからもっと祝ってやればいいのに、北さんは赤子を抱いてまでそんなことを言う。途端に俺は決まりが悪くなって、分娩室の椅子から立ち上がった。お祝いムードに包まれたこの分娩室の中で、恐らく俺だけが冷静だ。名前さんを最後に一目見て、俺は分娩室の外に出た。北さんと名前さんの子供、三二〇〇グラム。今日、俺が高校時代恋い慕っていた人は、母親になった。