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 それは切迫した仕事の中の逃げ口のような雑談だった。

「結婚したら何がしたい?」

 デリケートとも言える話題に触れられるのは、今デスクには私達二人しかおらず、私達が結婚に近くないからだろう。少なくとも結婚の気配がある人にその話題は出せない。赤葦君が答える前に、私は明るい声を出した。

「私は旦那さんに毎朝コーヒー淹れてあげたい!」

 赤葦君はモニターに視線を注いだまま、しかし手は止めて言う。

「それ、結婚しなくてもできるのでは」

 私は赤葦君の言葉を待つ。赤葦君はいい意味で変わっている。今だって、結婚したらしたいことを「結婚しなくてもできる」などと言う人はいないだろう。そんなことを言ったら、新婚旅行だって何だって結婚しなくてもできるのだ。

「苗字さんは仕事前毎朝コーヒー淹れてますよね。それを俺にも作れば再現できます」

 私は手を止め、顔を上げる。

「赤葦君にコーヒー作ってどうするの?」
「俺が嬉しくなります」

 私は思わず笑った。それでは赤葦君がただコーヒーを淹れてほしいだけではないか。そう思いつつも、何故かやってあげたくなる後輩力のようなものが赤葦君にはある。

 とはいえ赤葦君は先輩に給仕させないくらいの常識はあるようで、その後は自分で用意していた。あの日の会話はほんの冗談だったのだ。だが赤葦君のマグカップを見てみると、その色は変化を表していた。

「赤葦君ってコーヒーじゃなくてお茶派じゃなかったっけ」
「結婚生活には、お互いの価値観のすり合わせが必要なので」

 そう言って笑ってみせた赤葦君に、私は多分翻弄されている。