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彼のことを初めて見たのは入学式の日だった。あのエンデヴァーの息子がこの中学にいると新入生の間では大きく話題になったものだ。一目見ようと集まった群衆の外側に私はいた。勿論彼の顔をはっきり見ることなんてできなかったけれど、その特徴的な白と赤の頭が印象に残った。後になってから、彼は轟焦凍君というのだと知った。

二年になってからは轟君と廊下ですれ違うことが増えた。といってもそれは単純に移動教室が増えただけで、私と轟君が仲良くなったりはしていない。むしろ何者をも寄せ付けぬような彼の視線には遠くからでも緊張が走った。

轟君と話ができないまま丸二年、そろそろ受験を考えないとなあなんて思っていた時私は轟君と同じクラスになった。しかも隣の席だ。私は轟君と名簿順が近いこの苗字に感謝を捧げた。しかしだからと言って気軽に轟君に話しかけられるわけでもなく、私は「よろしくね」の挨拶すら交わさないまま中学の最期の年を浪費していた。他の大勢がそうであるように私はヒーロー科志望ではないし、それなりの高校の普通科に行ってそれなりに楽しく過ごせれば満足だ。

お隣さんということすら忘れてしまいそうになるほどの希薄な関係の中、話しかけてきたのは意外にも轟君の方だった。

「……悪い、教科書見せてくんねえか」

私は目を瞬いた。完璧主義だと思われた轟君が教科書を忘れてしまうことも、いつも眼光を放っていた轟君がこんなに申し訳なさそうな表情をすることも予想外だったのだ。何も言わない私を轟君は不思議そうに見た。私はふと笑って、轟君との机の間に教科書を広げる。

「いいよ」
「悪い」

それが私の轟君に対しての印象が変わった日だった。言い換えれば、「エンデヴァーの息子」から「轟焦凍」へと変化を遂げた日だった。私はずっと隣の彼のことを、彼本人として見ていなかったのだ。

その日から私が無意識に作っていた轟君に対する壁のようなものが溶けてなくなった気がした。朝席に着く時は挨拶を交わすし、どちらかに何かあった時は助け合うし、休み時間にはくだらない話をする。私達の関係はすっかり友達と言っていいものになっていた。だからこそ私の中の恋心はより現実味を増した。

憧れの人が友達になって、本来それは失せるべきものなのかもしれない。けれど二人の距離が近付いたら、時々静かに笑う轟君をこの目で見てしまったら、もう私は恋だと認めざるを得ないのだ。

私がそんなことを考えているなんてつゆ知らず、轟君は今日も私の隣に座っている。私と轟君が仲良くなってから一年が経った。つまり、私達は卒業へと近付いていた。この一年色々なことがあった。といっても変わりばえのしない日常を毎日過ごしていただけなのだけれど、その隣に轟君がいたことを嬉しく思う。もしかしたら、というよりも確信を持って、私は轟君から見ても友達の位置にはいると思う。ならば最後くらい我儘を言ってはいいのではないだろうか。私の中の欲が疼いた。最後の最後に彼の第二ボタンが欲しい、と。

三年間、本気の恋愛的な意味では一年間、私は轟君のことが好きだったのだ。どうせ卒業した後は私は地元の普通科へ、轟君は雄英のヒーロー科へ進学する。会うことはない。ならば思い出の一つくらい貰ったっていいはずだ。

「轟君」

卒業式の日、誰よりも早く私は轟君に声を掛けた。流石に式より前にボタンを貰うことはできないが、まだミーハーな女子の集まってこないタイミングで声を掛けられるのはこの名簿順のなせる技だろう。

心なしかいつもより涼やかな轟君の顔がこちらを向くと、私はこの三年間で一番の勇気を出して言った。

「第二ボタン、ちょうだい」

轟君は一度大きく目を見開くと体の動きを止めた。大方その意味を考えているのだろうか。別にバレたっていい。私と轟君は、もう会うことはないのだから。
永遠にも感じた沈黙が終わり、轟君は自分の制服に手を掛けた。

「わかった」
「……ありがとう!」

クラスで仲が良かった自信はある。友達だとも思われていると思う。しかし、第二ボタンをくれるかどうかは賭けだった。その賭けに私は成功した。

「本当にありがとう。思い出として大事にするね」

轟君が力任せに引きちぎった第二ボタンを手に載せ、私は涙すら浮かべながら言った。

「ああ」

轟君のその言葉を聞くと私は走り去った。どこでもいいから、どこか別の場所へ。これ以上あの場にいるのは耐えられなかったのだ。これが人生最後だというのにまったく何をやっているのだろう。そう思いつつも、これが中学三年の私の精一杯だった。


あれ以降、轟君の第二ボタンは私の部屋に飾られている。部屋に入るたびに必ず目を奪われるそれは今日も太陽の光を受けて輝いている。きっと私はこの先何度でも轟君のことを思い出すのだろう。早速届いた高校の制服を横目にベッドへダイブすると、突然スマートフォンが鳴った。そこに表示されていたのは「轟焦凍」の文字だ。

「悪いけど、今から学校来れるか」

理由も何も書かれていない、用件だけのメッセージ。早鐘を打つ心臓に彼と連絡先を交換した時の緊張を思い出す。

「わかった」

それだけ返事をして、私は部屋を飛び出した。幸い私の家から学校は遠くないから、あまり轟君を待たせることはないだろう。見慣れた学校と一緒に、校門の前に佇む轟君が視界に飛び込んできた。

「悪いな、急に呼び出して」
「ううん……」

何の用? そう聞けないのは、胸の内に僅かな期待と緊張があるからだ。中学の間に間違えて轟君のペンを持って帰っていたとか、考えられることはいくらでもある。でもあの第二ボタンに対する答えを今からくれるのではないかと、私は心のどこかで期待している。轟君をまっすぐに見つめると、彼はゆっくり口を開いた。

「卒業式にあげたボタン、返してくんねえか」
「え……?」

つまり私は今、振られているのだろうか。期待していた第二ボタンの答えはイエスではなくノーだった。項垂れる私をよそに、轟君は何でもないように言った。

「高校の説明会に制服が必要になった」

その言葉にまた私の思考が止まる。思わず轟君の顔を見ると、彼はきまりが悪そうに地面を見ていた。

「だから、一回あげといて悪いけど返してくんねえか。必要だったらまたやるから」

その言葉を脳内で理解すると共に私の顔に笑みが広がる。この格好のつかなさとか、私が欲しいと言えばまたくれる優しさが轟君らしいというか、なんというか。笑っている私を轟君は「何だよ」と言って見た。

第二ボタンが必要なら最初から「第二ボタンを持って来て」と呼び出せばいいのに、というかこの話もわざわざ会ってしなくてもメッセージアプリで済ませてよかったのに、とは寂しいから言わない。結局私はこうしてまた轟君に会えて、次回の約束まで取り付けている。それが嬉しくて心が踊るのを感じた。轟君の説明会の前の日も、高校に入ってからも、それから先も、きっとずっと私は轟君に会えるのではないかという気がした。