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 一年前にダイエット用に買ったスポーツウエアを引っ張り出し、お気に入りのナイキのシューズを履いた。ここが東京ならば今の私は皇居ランナーにでも見えていることだろう。残念ながら健康への意識はこのところ下がり気味であり、毎日走るなんてことはしていない。今日外へ出るのは、犬の散歩のためだ。

 半年前我が家にやってきたポメラニアン――マリーの散歩は、パート勤務の母が毎日二回担当していた。しかし在宅勤務で余裕ができ、何か朝活できないかと目論んだ私がマリーの散歩を請け負ったのである。家を出るとマリーは一目散に走り出した。この調子なら、散歩中ランニングをしていても大丈夫そうだ。

 若いだけあり、マリーは私の足にきちんとついてきた。時折マーキングなどで立ち止まることはあったが、それでも十分運動にはなっている。今もマリーが立ち止まっているため、私はその場で足踏みをしてリズムを整えていた。

「マリー、まだ?」

 あまりにも長すぎる。これは大だろうかと思いながら振り返ると、私は驚きで言葉を失った。マリーが、同じくスポーツウエアを着た男性に噛みついているのである。

「こらっ、マリー、ダメ!」

 私は必死の思いでリードを引っ張った。幸いマリーはすぐに離れたが、男性の足にはくっきりとマリーが噛みついた跡がついている。そしてその男性は、私の近所に住む高校生、影山飛雄君なのだった。若者が少ないこの地区で、私達はお互いを知っていると思う。特に飛雄君に至っては、幼い頃からスポーツができることで有名だ。今はバレーで全国にも出ているという。飛雄君に怪我をさせてしまったなんて、私はどう償えばいいのだろう。病院、慰謝料、損害賠償。そんな言葉が頭を駆け巡る。我に返って腕時計を見ると、時刻は在宅勤務が始まる十五分前になろうとしていた。とにかく謝って、賠償は後でさせてもらわなくてはならない。

「あの、うちの犬が本当にごめんなさい! 怪我は……大丈夫じゃないですよね。私の携帯番号教えるので、後で必ず連絡してください!」

 飛雄君は「いや大丈夫っスよ」などと言っていたが、菌でも入っていたら困る。とりあえず後で賠償することにして、私は来た道を戻った。


 二十数年間生きてきた中で、人に損害賠償するのは初めてだ。場合によってはそれでも済まないかもしれない。私は落ち着かない思いで仕事を終えた。飛雄君はもう病院に行っただろうか。部活があるだろうから、診察は夜になる可能性もある。結局その日一日待ったが、飛雄君からの連絡は来なかった。

「もしもし? 昨日犬が散歩中に噛みついてしまった、苗字です。その節は本当に申し訳ありませんでした。飛雄君いらっしゃいますか?」

 結局私は町内会の名簿で飛雄君の家の電話番号を調べ、電話することにした。いつまでも処刑を待つ罪人のような気持ちでいるのは御免だ。バレーができなくなった損害賠償をチーム全体から要求されたとしても、私は喜んでそれを払おう。

「もしもし」
「飛雄君? その後どうですか?」

 電話に出た飛雄君の声は至って冷静だった。怒っているのか、私を責める気があるのかわからない。心臓の脈拍を感じながら次の言葉を待つと、飛雄君は平然とした様子で言った。

「最近は試合に勝てたりして、なかなかいい感じです」
「あなたの近況ではなくて、ケガの調子を聞いているんです」

 私は思わず拍子抜けした。今のは病院での様子を聞いているのだ。友達同士の挨拶ではない。

「ああ、ほっといたら治りました」
「病院に行っていないんですか!?」
「別に行くほどのケガでもないと思って。それより、あなたはどうですか?」

 段々、飛雄君と私との間にずれを感じる。私はマリーの罪を償うために連絡先を渡したのだ。これではまるで、私が犬をダシにナンパしたみたいだと思った。

「私はあなたに損害賠償をするために連絡先を渡したんです」
「そうなんスか。てっきり、俺に気があるのかと」

 そんなわけないでしょうと言いかけて思いとどまる。私は加害者だ。飛雄君の前に強気で出るわけにはいかない。

「違います」
「じゃあ俺のこと好きじゃないんスか」

 飛雄君が当然のようにそう言うものだから、私は必死で「そういった質問はやめてください!」と叫んだ。