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「卒業、おめでとうございます。ボタンください」

 それは私にとって一種の賭けであり、諦めでもあった。私が青葉城西高校に入学し、及川徹という人に出会ってから、私はずっと及川さんを好きでいた。及川さんは私に想いを寄せられていることなんてとっくに気付いていたと思う。事実、及川さんは「私の気持ちを知っている」ということを隠さなかった。私は気付かれていることに気付いていたのである。知らないふりすらされなかった私の想いは、三年間宙ぶらりんのままだった。思い過ごしでなければ及川さんは私に好かれていることをいいように思っていたのではないのだろうかと思う。実際に、私と接する時の及川さんは私の気持ちを一方的に知っているというアドバンテージに立って楽しそうだった。私は永遠に相手にされないまま、及川さんの飼い犬になっていたのだ。

 それでも、最後に女として見られたいと思ってしまった。私の気持ちを後押ししたのは、及川さんが卒業後アルゼンチンに行くという情報だった。私はかなり早い段階で及川さんの口からそれを知らされた。「まだみんなにはあんまり言ってないんだけど、お前には言っとこうと思って」そう語る及川さんは、この不安定な関係性をアルゼンチンに行っても続けられると思っているのだろうか。私は思わない。地球の裏側との遠距離を続けられるほど、私達は正しい仲ではない。ならば、最後には潔く散ろうと思ったのだ。

 及川さんは何か言いたげな目で私を見下ろした後、「いいよ、あげる」と言って制服に手をかけた。及川さんのブレザーのボタンは殆どなくなっていて、一番下のボタンが唯一残されていた。第二ボタンは誰にあげたんですか、なんて聞ける仲ではなかった。

「ありがとうございます。これ、大事にします。じゃあ」

 最後の瞬間まで及川さんを見ていたいと思うのに、足は早くこの場を離れようとする。及川さんに背を向けようとした時、「ちょっと」と及川さんが私を引き留めた。

「俺、ボタンやったんだけど」
「……はい、ありがとうございます」
「なのにお前はもうこれっきりのつもりかよ」

 及川さんの言っている意味がわからなくて、私は及川さんを見上げる。及川さんはどこかむず痒そうな顔をして、「俺は付き合おうって意味だったんだけど」と言った。

「え……? あの……私と?」
「お前以外誰がいるのさ」

 私の頭が目まぐるしく回る。及川さんの言っていることが嘘ではないならば、これは別れではなく始まりらしい。

「でも、及川さん……アルゼンチン行くんですよね」
「遠距離でもできるだろ。たまには日本に帰ってくるし」

 及川さんが私に付き合う理由を並べているのが嘘のようだった。私は震える手を擦り合わせながら、卒業式後の賑やかな中庭の片隅で頷いた。

「……よろしくお願いします」
「ん。よろしく」

 その二日後に及川さんはアルゼンチンへと発った。私がした彼女らしいことといえば、新幹線の駅まで及川さんを送ったことだろうか。及川さんの友達、部活の仲間に交じって、私は控えめに手を振った。最後の瞬間に及川さんと目が合った気がした。

 その後のやりとりは基本チャットだった。たまにテレビ電話をすることもあったけれど、時差があり思うようにはいかなかった。及川さんが日本に帰ってくるのは年に一回だ。私は単身アルゼンチンに行く甲斐性なんてなかったから、私達が会えるのは年に一回だった。言葉のやりとりを交わし、年に一度だけ会う。そんな付き合いを何年か続け、私達は別れた。ある意味当然のことかもしれなかった。むしろ数年続いた方が奇跡だったのだ。別れ話をした後、私は及川さんから貰ったボタンを封筒に入れてアルゼンチンに送った。私の青春にようやく終わりが訪れたと思った。

 それから何人かの男と付き合い、大学を卒業して、私は東京の会社に就職した。及川さんのことを思い出すことは殆どないけれど、テレビでバレーをやっているとつい見てしまうのはあの頃からの癖だった。

 仕事を終えて改札に入ろうとした時、私はホームにありえない人物を見つける。

「及川さん……?」

 声に出してから、随分懐かしい響きだと思った。その男性は弾かれたように顔を上げて、私の方を見た。

「久しぶり」
「何やってるんですか?」
「チームの都合で日本に長くいてさ。ここに来たのはたまたま」

 数年ぶりに会う及川さんに、私はどうしたらいいのかわからなかった。何かに誘えば下心があると勘違いされそうだし、ただ通り過ぎるほど薄い仲でもない。私が立ち尽くしていると、「仕事終わり? じゃどっか寄ってこ」と及川さんが歩き出した。及川さんも何かを終えた帰りなのかもしれなかった。

 あまりに突然のことすぎて、私は半ば呆然としていた。及川さんと食べたステーキの味なんて殆ど覚えていなかった。及川さんは連絡を絶って以降何をしていたかやプロチームのことを流れるように話し、最後にまた会う約束をしていった。気付いたら次回の約束までしている。私は流されるままに準備をし、また出かけて行った。デートとも言える約束に進んで行くのは、「及川さんと会える機会を逃すなんてもったいない」というあの頃の意識が働いているのかもしれなかった。

「やっぱり日本食って美味しいね。国によっては酷いとこもあるよ」
「はあ……」

 レストランを出て、私達は夜の川沿いを歩く。今どこに向かっているんですかとは聞く気になれなかった。

「やっぱ日本が一番……って言っても俺はアルゼンチンチーム所属だけどさ、こう、やっぱり自分のルーツには思い入れがあるわけ」

 私は何が言いたいのかわからず及川さんを見る。私の数歩前を歩いていた及川さんは振り返ると、私の前に跪いた。

「結婚しよう。もう一回、俺のものになって」

 その言葉よりもまず、及川さんが跪いて差し出しているものに気を取られてしまう。及川さんが掲げているのはシルバーの指輪ではなく、数年前私が及川さんに返した制服のボタンだった。

「まだ、持ってたんですか」
「勿論。そもそも俺の制服の一部だし」

 及川さんは茶化すように言う。しかし、及川さんが真剣であることはわかっていた。一度遠距離恋愛をして、別れてしまった私達。及川さんが世界で活躍することはこの先も変わりない。私は明日も明後日も、及川さんの隣にいたいと思えるだろうか。

「……はい」

 私はそっと及川さんの手を包んだ。数年ぶりに触れるボタンは相変わらず硬く、ひんやりとしていた。それでも私にとっては、ダイヤモンドの指輪よりもずっと愛おしいものだった。

「よっしゃー!」

 及川さんは川に向かって叫ぶ。今は近所迷惑とか、そういうことはどうでもよかった。私は小さく笑って及川さんの隣に並ぶ。

「もしかしてこの間会ったのって偶然じゃなかったんですか? 及川さん誰か待ってる風でしたよね」
「あれはお前を待ち伏せしてたんだよ。情けないからお前と別れてからの俺については触れるな」

 及川さんに手を引かれて、久しぶりに手を繋ぐ。高校時代も、付き合ってからも、一番遠い場所にいたこの人が今日から一番近い場所にいるのだと思うと変な心地がした。