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 押してダメなら引いてみろ、とは恋愛においてよく言われる言葉である。実際、その効果はあるのだと思う。私は試しに佐久早と話すのをやめ、別の男子とばかり絡んだ。根が明るい性格の男子とは盛り上がることも多く、私達は大層楽しそうに見えたことだろう。佐久早は何も言わず一人で過ごしていた。もしかしたら落ち込んでいるのかもしれない。これで私を自分のものにしたい、と思ったら上々である。私は弾むような足取りで渡り廊下を歩いた。人が落ち込んでいるのにご機嫌でいるのは性格が悪いかもしれない。だが、佐久早と付き合えるかもしれないのだ。

 その時、不意に足音がして私の体は後ろから抱きとめられた。身動きすらできず、腰の力すらも失って私は彼に体を預ける。ふと香る柔軟剤の匂いが相手は佐久早だと告げていた。

「どこにも行くな」

 言う声は切羽詰まっている。私は佐久早を付き合う方向へ追いやるのではなく、精神的に追い詰めてしまったのだと気付いた。

「佐久早、ここ道……」

 渡り廊下はいつ人が来るかわからない。そうでなくても、校舎から見えてしまっているだろう。佐久早は意にも介さず、私の耳の横に顔をやった。

「俺を離すなよ」

 そう言う佐久早はまるで捨てられる子供のようだ。佐久早に抱きしめられていてはその後まともに歩けなくなりそうだ。とにかく離してほしくて、私は話を合わせる。

「わかった、わかったから」
「本当だな」

 佐久早の力が強まる。縋られているようだと思った。

「本当!」

 すると佐久早は私を離し、校舎へ戻って行った。未だ高揚が冷めないまま、私はその姿を見守る。佐久早にあれほど効果があるとは思わなかった。というか、結局約束をしただけで付き合うことはできなかった。でもいいか、と思えるほど、佐久早の気持ちは私に伝わってきたのだった。