▼ ▲ ▼

 苗字さんが辞めると人伝に聞いた。受験を控えた夏の終わり、部員が辞めるのは珍しくないことだ。ましてやマネージャーは後輩が入ってきていた。苗字さんが辞めることはさして不自然ではなかった。後釜まで残しているのだ。誰も苗字さんを咎める者はいない。それでも一人、俺は裏切られた気持ちでいた。苗字さんと一緒にいることが当たり前だと、心のどこかで思っていたのだ。

「本当に辞めるんですか」

 俺は後片付けをする苗字さんの背中に語りかけた。例の後輩マネージャーは先に着替えに行かせたようだった。苗字さんは背中を向けたまま何も答えない。もしかしたらそれが答えなのかもしれなかった。

「俺が好きだって言ってもですか」

 遂に俺は隠されたカードを切る。駆け引きのようなことをするつもりはなかった。そんなことは不得手な俺の、必死の交渉材料だ。もはや交渉などではない。ただ俺が縋り付いているだけだ。

 苗字さんはゆっくりと振り向き、普段通りの冷静な顔を見せた。

「今辞める覚悟が決まったよ」

 俺の心が揺らぐ。何か苗字さんにしてしまったのか。苗字さんは辞めるつもりがなかったのか。

「本当に部活のマネージャーを引き止めたいなら、部内恋愛なんて言っちゃダメ」

 俺は漸く自分が暗黙の了解を破っていたことに気付いた。良くも悪くも自分に厳しい苗字さんならば、部内恋愛を自分に許さないことくらいわかっていたはずなのに。だから今まで俺は苗字さんに告白しなかったのではないか。

「じゃあ……苗字さんがマネージャーを辞めたらただの先輩として俺と付き合ってくれますか」

 もはや本来の目的すら見失っている。俺は苗字さんと関われればそれでいいのだ。なりふり構わない俺の見苦しさすら気にせず、苗字さんはまた作業に戻った。

「それはわからないな」

 今日、俺はマネージャーとしての苗字さんも女としての苗字さんも欲張った。その結果どちらも失ったのではないかという気がした。今更考えても、もうどうしようもないが。着替え終わった選手達の話し声が頭の奥で響いていた。