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苗字さんが辞めると人伝に聞いた。受験を控えた夏の終わり、部員が辞めるのは珍しくないことだ。ましてやマネージャーは後輩が入ってきていた。苗字さんが辞めることはさして不自然ではなかった。後釜まで残しているのだ。誰も苗字さんを咎める者はいない。それでも一人、俺は裏切られた気持ちでいた。苗字さんと一緒にいることが当たり前だと、心のどこかで思っていたのだ。
「本当に辞めるんですか」
俺は後片付けをする苗字さんの背中に語りかけた。例の後輩マネージャーは先に着替えに行かせたようだった。苗字さんは背中を向けたまま何も答えない。もしかしたらそれが答えなのかもしれなかった。
「俺が好きだって言ってもですか」
遂に俺は隠されたカードを切る。駆け引きのようなことをするつもりはなかった。そんなことは不得手な俺の、必死の交渉材料だ。もはや交渉などではない。ただ俺が縋り付いているだけだ。
苗字さんはゆっくりと振り向き、普段通りの冷静な顔を見せた。
「今辞める覚悟が決まったよ」
俺の心が揺らぐ。何か苗字さんにしてしまったのか。苗字さんは辞めるつもりがなかったのか。
「本当に部活のマネージャーを引き止めたいなら、部内恋愛なんて言っちゃダメ」
俺は漸く自分が暗黙の了解を破っていたことに気付いた。良くも悪くも自分に厳しい苗字さんならば、部内恋愛を自分に許さないことくらいわかっていたはずなのに。だから今まで俺は苗字さんに告白しなかったのではないか。
「じゃあ……苗字さんがマネージャーを辞めたらただの先輩として俺と付き合ってくれますか」
もはや本来の目的すら見失っている。俺は苗字さんと関われればそれでいいのだ。なりふり構わない俺の見苦しさすら気にせず、苗字さんはまた作業に戻った。
「それはわからないな」
今日、俺はマネージャーとしての苗字さんも女としての苗字さんも欲張った。その結果どちらも失ったのではないかという気がした。今更考えても、もうどうしようもないが。着替え終わった選手達の話し声が頭の奥で響いていた。
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