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「苗字さーん!」

 仕事でチームの体育館へ出向くと、一際大きな白髪から大きく手を振られた。またか、という目をするのは共に体育館を訪れている本社の社員である。私は木兎選手の方へ近寄って手を掴むと、「お?」と言っている彼を隅の方へ誘導した。

「なに? 苗字さん、どったの?」

 そう言う顔は何も察せていない様子である。私は一つため息を吐くと、低い声で話し始めた。

「私と木兎選手が付き合ってるんじゃないかって、噂になってるんです」

 原因は全て木兎選手だった。仕事で私が木兎選手を担当してからというものの、やたらと絡んでくるようになった。先程のように大勢の前で名前を呼ばれるのはまだいい方である。選手が本社を訪れた時には、用もないのに「苗字さんいる?」と他の社員の前で呼び出されたりもした。私がいくら否定しようと木兎選手がその倍の人数の前で手を振るものだから、噂には到底追いつけない。私は木兎選手と付き合っているどころか、「プロ選手と交際してそれを社内で隠しもしない人」扱いされていた。ところが木兎選手は何故責められているのかわかっていないという様子である。

「何で? 噂になったらいけないの?」
「困るんです!」

 私が拳を握って訴えかけると、木兎選手は顎に手をやりながら「ふーん、困るのかぁ……」と考え込んだ様子でいた。

「あ、そうだ! いいこと思いついた!」

 木兎選手はポケットの中を漁ると、太めの指輪を取り出した。結婚はしていないだろうから、プレー以外の時はおしゃれでつけている指輪というところだろう。木兎選手はそれを私の左手の薬指にはめた。

「は?」

 抗議する間もなく、木兎選手は私の左手を掲げて体育館中に響き渡る声で叫ぶ。

「俺と苗字さん、付き合ってまーす!」
「ちょっと、何やってるんですか!?」

 私は慌てて左手を下ろし薬指を隠した。既に本社の社員の目はこちらを向いている。だというのに、木兎選手はまるで焦った様子がない。むしろ楽しそうでもある。

「俺達付き合えばいーじゃん。事実になれば、噂ではなくなんだろ!?」

 私は開いた口が塞がらないという様子で木兎選手を見た。言いたいことは山程ある。まず私に合意を取っていないとか、噂を本物にしたところで社内恋愛であることは変わりないとか、色々だ。だが咄嗟に口から出てくるのは、至極どうでもいいことなのだった。

「木兎選手、左手の薬指は交際じゃなくて結婚なんですよ」
「あ、そうだっけ? まあ結婚はそのうちすればいいってことで」

 これで万事解決とばかりに木兎選手は笑っている。私はもうどうでもよくなった気持ちで目を伏せた。