▼ ▲ ▼

 誰もいない渡り廊下に、かつん、と靴の音がした。振り返れば土足厳禁だというのにローファーを履いた伏黒くんがいた。彼は有名だ。主に、不良として。

「姉と対立するのやめてもらっていいですか?」

 数々の伝説を持つ彼が姉を気にかけていることが意外だった。私は自分の履いている上履きに目を落とす。クラスのいじめっ子が上履きに画鋲を入れようとした時、津美紀ちゃんはそんなのいけないんだよ、と相手を諌めた。被害に遭ったのは私ではないし、津美紀ちゃんの言っていることはまったく正しいのだが、そうやって誰彼構わず干渉していく姿に酷く辟易したのを覚えている。

「私は津美紀ちゃんみたいな綺麗事言う子が苦手なだけ。対立してるつもりはないよ」

 仮に対立していると言ったら、伏黒くんはここで私をいじめるだろうか。伏黒くんの表情はさらに曇った。

「俺だってあいつの綺麗事にはうんざりしますよ」
「じゃあ同じなんじゃん。何で好くの?」

 至って純粋な疑問だった。学校の頂点に立っている伏黒恵ともあろう者が、何故正反対の津美紀ちゃんに構うのか。私が答えを見つけられなかったのは多分、私の家庭が正常だからだ。愛を保とうと、必死になることがないからだ。と、後に私は気付くことになる。

「姉弟だからです。むしろ俺は俺みたいな人の方が苦手だ」

 彼がしていることは家族を大事にするという酷く高潔なことなのに、何故だかとても苦しそうに見えた。自分を苦手だと言ったからだろうか。自分を嫌いでいるのは辛いことだ。多分、伏黒くんは津美紀ちゃんのような綺麗事を言う人間が正しいとわかっていてもそうはなれないのだろう。

「じゃあ私が嫌いなんだ」

 独り言のように呟くと、伏黒くんの答えはすぐに返ってきた。

「そうです、って最初に言いませんでしたっけ」

 私は女だから伏黒くんに手を上げられないのではない。手を上げる価値もないのだ。伏黒くんは、私を嫌いだから。別に苦手なクラスメイトの弟に嫌われたところでどうってことないのだけど、今回は何故だか堪えた。この短い会話の中で、伏黒くんに同情してしまったからかもしれなかった。善人の姉を持つことへ、もしくは歪な家族の形を維持しようとしていることへ。

「ふうん」

 私は言って、歩き出した。伏黒くんは追うことをしなかった。津美紀ちゃんに意地悪をしているわけではないので、そうされる筋合いもない。伏黒くんの視線をじっと、背中に感じた。