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「フローターの苗字です」
「よろしくね、苗字さん」

 そう言った彼は、軽薄な笑みを浮かべていた。彼――南雲さんを特殊にしているのは、辺り一面が血の海であることだ。南雲さんともあろう者なら出血を少なく殺すこともできるだろうが、今日はその気分ではないらしい。南雲さんは殺害現場であろうことか読書を始めた。殺し屋として花が開かず五年、フローターを続けている私でも現場は息が詰まる。やはり殺し屋はねじが外れている人にしか務まらないのだ。私は目を細めた。

 私の職業適性は、殺し屋ではなくフローターにあるのだろう。三十分経てば、殺害現場は元の部屋に戻った。南雲さんは本に夢中の様子だ。ゴミ袋の中にある凶器に触れる。今なら、誰にも気付かれない。

 私が凶器のナイフを首に当てた時、素早く腕が捻り上げられた。誰かとは聞かなくともわかっている。こんなことができるのは南雲さんしかいない。

「ファンレターの君はもう少し賢かったけど」

 ひゅ、と息を飲んだ。殺し屋として私は南雲さんを尊敬していた。JCC時代からファンレターを送っていた。別に読まれていないだろうし、何を書いてもいいものだと思って、私は好きに書き散らしていた。ところが、南雲さんは読んでいたのだ。苗字を聞いてすぐに思い当たるくらい。

「君、これから死ぬ気でしょ」

 南雲さんは普段の軽薄な雰囲気を消して静謐な声を出した。そうだ、私のファンレターには常にそのようなことが書いてあった。殺し屋が自分に向いているのかわからない、自分が死ぬべきではないか。死にたい。そんなことを送れるほど南雲さんは私にとって大きな存在だった。南雲さんを生で見られた日に人生を終えようとするのもまた、自然なことだった。

「僕が楽に殺してあげようか?」

 南雲さんならそれができるのだろう。フローター活動中の事故などよくあることだ。私は自分を殺す相手として、南雲さんを誰よりも信頼できた。でも、今死にたいという気持ちはない。読まれていたという感動が、私の心を支配している。

「いえ、たった今希望を与えられてしまいました」

 情けなくもそう言うと、南雲さんは「そりゃ大変だ」と手を離した。支えを失った私の体が倒れ込む。南雲さんは、私を殺す罪悪感も、死にたい人を自分のせいで生かす罪悪感も抱いてはいないだろう。けれどそれでいい。たまに手紙で私の話を聞いてくれれば、私は満足なのだ。私は凶器をもう一度ゴミ袋に捨てた。今度は殺し屋としてそれを握れますように、と思いながら。