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 視界に靄がかかっていて、頭の奥で何ともつかない音楽が鳴っている。睡眠不足の典型的な症状である。昨晩は締め切り当日で、朝――現在に至るまで働き通しだ。その前日は、四時間寝られたかわからない。とにかく今わかるのは、俺が今限界であるということだ。仮眠室へ行こう、と思った。夜勤がある仕事でもないのに仮眠室を備えたこの会社は、暗にブラックであることを示している。もう慣れたからいいけど、と無意識に足を動かした。

 自分がまっすぐ歩けているかもわからない廊下の途中で、苗字さんに会った。苗字さん。俺の好きな人。普通なら挨拶をして終わりなのだけど、今日の俺は違っていた。働かない頭は、普段押し込めている感情を簡単に放ってしまうのである。

「苗字さん、好きです」

 苗字さんは驚いた顔をした。多分、普通の時に見たら可愛いと思っていたと思う。自分から告白したくせに早く苗字さんとの会話を終わらせたくて、俺は「返事は寝た後で」と足早に去った。


 返事は寝た後で。私は赤葦さんを呆然と見つめていた。今し方告白されたことを考えたら、それは男女の意味なのだろう。つまり、セックスをした後で考えると。赤葦さんはもう少し順序というものを大事にしそうだから、その価値観は意外だった。でも、最初にしてもいいと思うくらい、私は赤葦さんに惹かれている。

「……何でついてくるんですか?」

 赤葦さんの後について行くと、赤葦さんが怪訝そうな顔で言った。何でも何も、赤葦さんに誘われたからだ。

「寝るんじゃ……」

 私は結構な覚悟を持って言ったのだが、赤葦さんはランチに誘われたような調子で「まあいいか」と言った。そして私の手を引き、仮眠室へ入る。まさか会社の仮眠室でする気だろうか。私は赤葦さんを止めようとするが、赤葦さんは私を抱えたままぐっすりと寝入ってしまった。何だこれ。世間体を考えたら早く脱出した方がいいのだろうけど、私はなんとなくそのままでいた。