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 シグマさんは多忙だ。多忙なくせに、副支配人である私との時間を必ずとる。別に業務についての話を事細かくしているわけではない。今日は何があった、疲れたなどの話を茶を飲みながらするだけだ。私達はビジネスパートナーではなく、友達なのではないかと思わされる。今日も、私の執務室にシグマさんはやってきた。

「今日は客の質がいいな。現場の人員にとってもいいことだ」

 本当はのんびりしている時間などないはずだ。シグマさんは相当私のことを信頼しているのだろうか。そう思えば、悪い気はしない。私はティーセットで紅茶を入れ、シグマさんの元に出した。シグマさんは優雅な手つきで一口飲んだ。生憎私はシグマさんのような仕事の効率性など持ち合わせていないため、今日も書類仕事に追われる身である。仕事片手に聞く形でも、シグマさんは文句の一つも言わずに話し続けた。

「ところで君」

 シグマさんが言葉を切る。私はちょうど重要な書類を仕上げているところで、シグマさんの言葉は殆ど聞いていなかった。カジノに入ってから一年足らずで仕事が早い、とシグマさんにも褒められたものだ。

「スパイだろう」

 私の手が止まりかける。異例の出世。まるで綿密に準備してきたかのような仕事捌き。シグマさんが気付くのもありえない話ではなかった。ただ、シグマさんはカジノで頭がいっぱいだから――私のことなど、気に留めないだろうと思っていたのだ。まさか、そこまで見られているとは。私は顔を上げたいのを我慢した。今ならまだ、嘘を貫き通せるかもしれない。シグマさんが証拠を掴んでいるなら私はすぐに処刑されてしまうだろうが、白を切ることもできるかもしれない。スパイであるくせに、私の胸は痛んだ。

 シグマさんが身を乗り出す。私は死を覚悟した。

「逃げずに私の元へいてくれないか」

 私は呆気にとられて、思わずシグマさんを見た。シグマさんは真剣で、縋るような表情をしていた。私はシグマさんを見誤っていた。シグマさんとはある日突然生まれ、記憶も家族も持たない男なのだ。私が思っているよりも脆い。スパイであるとわかっていても、私に縋るほかないのだ。

 私はペンを置き、暫く答えに悩んだ。シグマさんが嘘を言っているわけではないということは、わかってしまった。

「任務が終わるまでは」

 そう絞り出すと、シグマさんは安堵したような表情を浮かべた。