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「名前、携帯貸してくれへん」

 とある日曜日、急に街で鉢合わせたかと思うと治はそんなことを言った。何でも取引先と連絡を取る必要があるのだが、治のスマートフォンの通信量は一定ラインを超えてしまったらしい。現在のニュースと取引先の詳細な情報を調べてから電話するのでは時間がないという。治も月末だからと油断していたのだろうか。外出先で急に連絡が必要になったのだから仕方ない。

「貸したるわ。私はそこのカフェで待っとるからゆっくり電話してええで。その代わりカフェ代は治持ちな」
「ほんま助かる」

 私のスマートフォンを手に人の少ない方へ消えてゆく治の背中を見ながら、私はこの貸しはおにぎり宮の無料券でもよかったなと思った。

「ありがとな」

 無事話がついたのか、治は私にスマートフォンを返し支払いをしてから駅へと向かう。急いでいるようだったので話しかけはしなかったが、治の表情を見るにいい方向へ向かっているのではないだろうか。その数日後、私はいつものようにおにぎり宮へ向かった。

「こないだはほんまにありがとな」
「もうええって。貸しは返してもらったやん。それよりも治の仕事が絶好調そうでよかったわ」

 私は店内を見回す。以前は私のような昔の知り合いか固定の常連客が多かったが、今は誰でも入りやすい人気店となっている。治の成功を喜ぶ私を、治は穏やかな顔付きで見下ろした。

「よかったんは名前の方やろ。結婚してないとはいえ、今はそういう偏見持ってる奴の方が少ないし。俺が叔父さんなんて似合わんけどな」
「は? 何が?」

 結婚に偏見、叔父さん。治は一体何の話をしているのだろう。治を見上げると、治も不思議そうな顔で話を続けた。

「だって名前、妊娠したらとか赤ちゃんのサイトめっちゃブクマしてたやん。できたんとちゃうん?」
「いや、それ友達の出産祝い何がええか考えてただけや」

 私達の間に沈黙が訪れる。しばらくの間の後、治は手で顔を覆った。

「……あかん、俺もうその気で言うてもうた。よかったなって」
「誰に?」

 私の子供を祝う言葉を向けるのは私以外に一人しかいない。そうわかっていつつも、私は祈るような気持ちで聞いた。案の定、治は慣れ親しんだ名前を呼んだ。

「侑や」
「ああ……そう」

 再び私達の間に沈黙が訪れる。侑の喧しさ、面倒臭さは私達がよく知っている。いきなり身に覚えのない祝い事をされては、侑は怒り狂うだろう。子供を作ったわけでもないのに、お前は一体誰との子を妊娠しているのだと。悪い予感を的中させるように、私のスマートフォンに一件の通知が入った。「外出ろや」その言葉は、仮にも他の客のいる飲食店で揉め事をするわけにはいかないという侑の心遣いが表れている。

「……行ってくる」

 私が言うと、治は先の展開を読んだように「すまん」と言った。


 店を出ると、扉のすぐ横に侑が立っていた。スマートフォン片手に壁にもたれているさまは我が恋人ながら格好いいと思う。問題は、侑が嵐の前の静けさのような表情で私を睨んでいることだ。

「……侑、これは」
「何呑気にこんな所来とるんや」

 早く誤解を解かなければいけないと思うのに、侑はそれを許してくれない。私が意を決して口を開いた時、侑は急に私の肩を抱いた。

「妊婦が酒飲むような所来たらあかんやろが!」
「……は?」
「お前の体はもうお前一人のもんとちゃうんやぞ! この爆イケDNA背負っとる覚悟せえ!」

 私は呆気に取られて侑を見る。侑は、怒ってはいないのだろうか。それどころか随分浮かれた表情をしている。「まずは挨拶しに兵庫帰って、それから式と結婚発表の準備やな……俺の豚どんな風に鳴くやろか」そう言う侑は随分と楽しそうだ。俺以外の誰の子を孕んだ、何故一番に俺に言わなかった、そういった言葉を投げかけられると思っていた私は拍子抜けした。

「侑、ちゃうねん。あれは治の勘違いなんや」
「治? 確かに治は爆イケDNAやないな」
「違くて、私は妊娠なんかしてへん」

 そう言った瞬間、侑の表情がぴたりと固まった。

「え……ほんまに? マジで言っとる?」
「大マジや。ていうか下腹触んのやめや」

 私は下腹を這っていた侑の手を払った。

「私が友達の出産祝い選ぶのにそういうサイトブクマしてたら、治が勘違いしただけや」

 侑はきっかり三秒経った後、長いため息を吐いた。脱力した様子に、激昂するのではなくてよかったと私は密かに安心していた。侑は地面にしゃがみ込み、頭を垂れたまま話す。

「本当に俺の子ができたかと思ったやん」
「それは、悪かったと思っとる」
「でも、俺は自分に子供ができたらちゃんと嬉しいんやなって、実感した」

 そう言う侑を私は思わず見下ろした。結婚はまだ先、子供はあまり可愛いと思えない、侑が以前そう話していたのを覚えている。侑との未来を夢見ていた私が少なからず気落ちしたのは確かだ。だが先程までの侑は、世間一般の父親のように、いやそれ以上に喜んでいた。侑は私を見上げ、珍しく窺うような視線で語りかける。

「ていうことで、俺と改めて付き合ってくれませんか?」

 胸の底から熱いものが込み上げる。結婚しようとか、今すぐに子供を作ろうと言われたわけではない。それでもこの仕切り直しは、確かに侑と、侑との未来が変わったことを示す一言だった。

「そんなん、当たり前やん」

 私は侑の手を取って立たせた。もう何年も一緒にいるくせにどこか恥ずかしい雰囲気になった私達は誤魔化すように店内に入る。その様子を見て笑った治に、何故お前が私のブックマークを見ているのだと侑が怒ったのは別の話だ。