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 自分の記憶がなくなるまで飲んだのは初めてだった。普段はそれなりに節制しているのだが、今回は先輩の勧めだからと、言われるがままに飲んでしまったのだ。翌日が本社勤務なのが幸いだろうか。

「俺なんか失礼なことしませんでしたか?」

 俺は痛む頭を押さえ、先輩に問いかけた。対する先輩はけろりとしている。これが飲み会慣れしている人間としていない人間の差だろうか。

「してないよ」

 先輩はそう言ってタンブラーを開けた。中に入っているのは、どうやらただのお茶だ。先程味噌汁を買って飲んだ俺とは大違いである。

「佐久早は名前さんにキスせがんでたよな」

 すると、通りすがった同僚が言い放った。その言葉は爆弾に等しい。俺は自分がしたことだということも棚に上げ、名前さんに抗議した。

「してたじゃないですか!」

 名前さんは悪くないのに、名前さんにたてつく。名前さんは普段から俺をそう扱うように、まるで年下の男の子を宥めるような調子で言った。

「別に嫌じゃなかったから」

 その一言に俺は勢いをなくす。俺の怒りは鎮火され、代わりにもどかしいような気持ちがむくむくと湧き上がる。

「……そういうのは酔ってる時に言ってもらえませんか」

 酔っている時なら、まだ勢いに任せて何かあったかもしれないのに。いや、俺は名前さんを好きだとか思ったことはないのだけど。少なくとも今までは。

 名前さんはにっこりと微笑んだ顔を見せただけだった。それから、二人の言葉が気にかかる。俺はせがんだだけで、何もしてないのだろうか? 名前さんは受け入れはしなかったのか? 俺は声を顰め、それらしい緊張を持って尋ねた。

「あの、キスはしてないですよね?」

 名前さんは一度真面目な顔を作ったが、すぐに元の調子のいい表情に戻った。

「秘密」

 年下だからって、からかいやがって。煮えきれない思いを抱えた俺は、まるで恋する男子のようだ。