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それは警備企画課にて一仕事終えた後のことだった。あと三十分後に迫る全体会議のため、降谷さんと私は会議会場へと向かった。今回の会議の主題は黒の組織に潜入している降谷さんについてであったし、降谷さんが毎度雑用を頼む相手と言えば私しかいない。仕事に限れば風見さんも降谷さんによく頼みごとをされるが、コーヒーの買い出しからお茶の用意まで頼まれるのは私くらいだろう。その度に私はお茶くみ係ではありませんと伝えたくなるのだが、仕事を終えた後の「お前ならいい嫁になれる」と言う降谷さんの顔を見ると毎度毎度許してしまうのだった。今回は資料の準備や会場のセットというところだろうか。毎度のことに溜息を吐きながらも面倒とは思えないまま、私は降谷さんに続いて大会議室に入った。はずだった。

「あれ……?」

そこに広がっていたのはまるで家具量販店の一角のような、いかにも生活感のある部屋だったのである。堅い木のテーブルとイスの波を予想していた私は呆気に取られた。大会議室に入ったことはなかったが、まさかこんなリビングルームのような場所なのだろうか。すると、それまで黙っていた降谷さんが素早くこちらを向いた。

まさか、馬鹿なことを考えていたことがバレたのだろうか。身を縮こまらせる私を降谷さんは一瞥すると、「部屋を確認する」と言って私の背後のドアへと歩み寄った。果たして警察庁の中にこんな部屋があるのかはわからないが、あるとすれば私達が部屋を間違えている可能性だ。この部屋の表札には一体何と書いてあるのだろう。期待を込めて降谷さんを見るが、降谷さんはドアの前から動かない。取手を持って、微動だにしない。私が「降谷さん?」と声を掛けようとした時、降谷さんはぽつりと言った。

「開かない」

これに反論してしまったのが私の悪い癖である。

「まっさかあ」

常識的に考えて降谷さんが開けられないドアを私が開けられるはずもないのに、私はドアへと歩み寄ると取手に手を掛けた。そして引いてみる。開かない。押してみる。勿論開かない。降谷さんから蔑まれるような目で「何やってるんだ」と言われたのは私がこの動作を七回は繰り返した時のことである。

「開かないって、出られないってことですか降谷さん!?」
「それは試してみなければわからないだろう!」

降谷さんも内心焦っているようで、その不安をかき消すかのように別の出口を探して走る。勿論私も他のドアはないかと探したが、外に通じているらしいものは今しがた入ってきたドア一つだけだった。

私達は先程のドアの前に集まり、向かい合って床を見る。私達が今置かれた絶望的な状況。大事な会議を前にして、部屋に閉じ込められる。さらに気味が悪いのは、ここが警察庁にはありもしないような生活感ある部屋だったことだ。降谷さんでも脱出不可能なら、私にできるはずもない。絶望して項垂れていると、件のドアに紙が挟まれているのを見つけた。興味本位に引いてみた私は、その内容に絶句する。

「なっ……」

思わず声を出してしまったのがいけなかったらしい。顔を上げた降谷さんが、私の手の中にある紙の存在に気付いた。

「おい、何だそれ。見せてみろ」
「いやっ、いいです! 降谷さんには関係ないことです!」

私は必死に腕を伸ばし抵抗するが、腕のリーチは降谷さんの方が長い。これはまずいと動きをつけてみると、じゃれあっているカップルのようでなんだか恥ずかしくなってくる。しかし、降谷さんは逆にお怒りのようだ。

「早く見せろ、っ!」

最後はほぼ抱きかかえられるようにして捕まった。しかも、私の後ろからそのまま紙を読むものだから私は心臓が止まる思いだった。現在の体勢と、紙の内容に、である。

「……」

私達はまた二人で沈黙していた。そうなるのもわかる。何しろ書かれている内容が内容なのだ。だが、この体勢のまま固まらないでほしい。私の願いなど知らずに、降谷さんは私越しに紙を凝視していた。

「あの、降谷さん……」

私が声を掛けると同時に、降谷さんは紙をくしゃくしゃに丸めると私から離れた。限界まで紙を丸める降谷さんの表情は、前髪に隠れてよく見えない。

「馬鹿げている。他の脱出方法を探すぞ」
「降谷さん……!」

私の中の緊張は消え去り、代わりにやってきたのは降谷さんへの安心感だった。恥ずかしながら、この時になって初めて私は自分が期待していたことを知った。こんな時に何を考えているのだろう。私達がすべきことは、早くこの部屋を出て会議室へ向かうことだ。


再び、今度は徹底的に、出口の捜索が行われた。今まで見ていなかった床も確かめ、家具も動かしてみる。公安の腕の見せ所とも言える状況に私もやる気がみなぎっていた。しかし無情にも、出口らしいものは見つからなかった。

「降谷さん……」

私は再びドアの前に佇む降谷さんの背中に声を掛ける。会議まで時間は迫っているし、他に方法はない。今は嘘でも試してみるべきだと思うのだ。しかし降谷さんは、こちらに背を向けたまま言った。

「絶対に駄目だ。その紙の通りにすることは、僕が許さない」

私は情けなく下を向く。降谷さんが私を気遣ってくれていることはわかる。私は女だし、降谷さんのために恋人の枠を長らく空けてもいた。だが、今回の会議に重いものがかかっている降谷さんが、任務であれば簡単に女も抱いてきた降谷さんが、ここで遠慮する必要はないのだ。

「降谷さん」

追い打ちのように私が呼ぶと、降谷さんの手がピクリと動いた。その時。

「ホー……こういう仕組みになっているのか」

背後からどこかで聞いたことのある声が聞こえた。私が振り向くよりも先に、降谷さんが勢いをつけてそちらを振り向く。そして、恨みのこもった声で言った。

「赤井秀一……!」

驚く私を後ろへやり、降谷さんは赤井さんに詰め寄る。

「どうしてここにいる!? どうやって来た!? 不法入国か!?」

降谷さんの剣幕もよそに、赤井さんは至って冷静に答える。

「本部でエレベーターに乗り込んだら何故かこの部屋にいてな。君達がいるとなると、ここは日本なのか? だとしたら、不法入国かもしれんな」

丁寧に答えすぎたがゆえに、逆に降谷さんの怒りに触れてしまったらしい。降谷さんは今にも掴みかかりそうな勢いだ。もっとも、降谷さんは赤井さんが何と答えようとも怒るのだろうけれど。場を取り直すように、私は赤井さんに尋ねる。

「あの、赤井さんはどこから来たんですか? 赤井さんが入ってきた場所から出られないでしょうか」
「それが不思議でな。この部屋に入った後、数歩歩いてから振り返ったらもう消えていた」
「つまり手掛かりなしってことか……」

悔しそうに言った降谷さんに、赤井さんはとある物を指差す。

「手掛かりなら君が持っているんじゃないのか?」

赤井さんが指差したものは、降谷さんが握りしめている紙きれだった。既に降谷さんがくちゃくちゃに丸めており、この通りにはしないという話だったはずだ。

「セックスしないと出られない部屋だそうだ! だがお前には関係ない! こいつと僕でセックスをする!」
「はぁっ!?」

その言葉に反応したのは私だった。今まで仕方ないと思いつつ降谷さんと赤井さんの喧嘩を聞いていたはずが、いきなり私の名前が出てきたのだ。喧嘩をするのは自由だが、私を巻き込まないでほしい。

「降谷さん何言ってるんですか。セックスはしないんじゃなかったんですか!」
「こうなったら話は別だ!」
「それただ感情が昂ってるだけじゃないですか!」

有り体に言えば、降谷さんとセックスできることは嬉しい。本当ならきちんとお付き合いをしてからそういう事に及びたかったけれど、一回するだけでも十分満足だ。だがそれは私が勝手に抱いていた妄想のようなもので、こうして現実となるとどうも受け入れがたい。それも、こんな勢いに任せるような流れで。

「さっきと言ってることまるっきり逆ですよ!」

諦めの悪い私に、降谷さんはきっぱりと言い放った。

「お前は俺が好きなんだろ!」

私は思わず目を見開いて降谷さんを見る。降谷さんは少し居心地が悪そうで、でも言い切ってやったという表情をしていた。

「信じられない! 普通そんなこと大声で言います!?」
「事実だ」

ぎゃあぎゃあと騒ぐ私達を赤井さんが静かに見守っていた。そして、私達が口を閉じた隙を見計らったかのように口を開いた。

「この部屋はセックスをすれば出られるんだったな。なら、俺と彼女でも問題はないんじゃないのか?」

思ってもみなかった展開に口を開いていると、私が何か言うより先に降谷さんが啖呵を切った。

「こいつがお前に抱かれると思うなよ!」
「降谷さん、私まだ何も言ってないんですけど……」

私が誰なら体を許せるか決めるのは私だ。だがそれすら降谷さんに把握されているようで少し擽ったくなる。実際、私が赤井さんに抱かれてもいいかというと違うのだけど。そんな私を見透かしたように赤井さんは私の方を見て言った。

「仮に俺が駄目だとしよう。ならば降谷君とは、君はしてもいいと思っているのか?」

赤井さんの目が私を射抜く。降谷さんもまたこちらを見る。先程とは違う、きちんと私に選択肢のある丁寧な問いかけに私は何も言えなくなっていた。無理やりにでも私は降谷さんとセックスをするのだと決めつけてくれたら、まだ反抗できたのに。私は何も決めないで済んだのに。赤井さんはずるい人だ。でも、最後に選択を私に委ねる降谷さんはもっと、ずるい人だ。

「……降谷さんと、します」

そう言い切った私に、赤井さんは優しい声で「よくやった」と言った。