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 観客席の様子は意外に目に入る。特に知り合いともなれば、目が勝手に探してしまうものだ。

 見知った顔を見つけて、佐久早は眉を顰めた。うちわを掲げているのはいい。だがその内容が、どうも妙なのだ。

「イエスって何だよ。俺そんなこと言ってないだろ」

 試合から一日経ち、お互いの近所である喫茶店に入った時のこと。名前がいたので、佐久早は向かいに腰掛けた。話す内容は昨日のうちわである。「頑張れ」や「ビーム出して」ならわかる(佐久早は死んでもビームを出さないが)。「イエス」とは一体何なのだ。佐久早はイエスにまつわる何かを言った覚えもない。

 名前は張り切った様子でテーブルに身を乗り出した。はずみでカップの中のコーヒーが揺れる。

「これはイエスノー枕のイエスだよ。今夜いいってこと!」
「公共の場に下ネタを持ち込むな」

 佐久早は思わず苦言を呈した。名前はそういうところがある。好きに全力、というか。佐久早を好きだと隠さないのは別にいいのだが(あまりよくもないが)プライベートな情報を、仮にも若い女があらわにするべきではない。

「簡単にセックス事情を明かすな」

 佐久早がコーヒーを飲んでいる間、名前は座ったままじっとしていた。何だろうと思い視線をやれば、驚いたような顔をしている。

「断らないんだ」
「生憎俺にはノーうちわがないからな」

 堂々とセックスを迫る名前と、苦言を呈しつつもはっきりとは断らない佐久早。この二人はセックスフレンドになってしまうのだろうか。それとも、色々なものを飛び越えて正式な恋人に収まるのだろうか。二人とも決定打は出さないから、それはまだわからない。