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 目の前で得意げな顔をしている五条さんを見て、私はどうしたものかと思った。

 私がケーキ屋で働き出したのは大学在学時のことだ。当時は単なるアルバイトだったが、愛想をまいていればいいこの仕事を気に入り、卒業後も社員として続けている。

 そんな中、常連の五条という客を知った。彼は誰にでも軽々しい態度で接したが、私にだけ違うのではないかと思ったのは五条さんが赤い薔薇の花束を持ってきてからだった。丁重にお断りしたものの、五条さんのアタックは続く。ここはおしゃべりをする場所ではないから、と言えば、彼は店のものを買い占めてしまった。そして今日は、ケーキを購入後ポイントカード代わりに婚姻届を出している。ハンコを押そうとしていた私は、手を振り下ろせずに固まった。

「押せません」
「ダメ?」

 五条さんの甘い声がする。マスクの後ろで瞳が潤んでいるのが見えそうだ。隣から、店長の厳しい視線が飛んだ。五条さんは太客だから丁寧に扱えと言われているのだ。私は内心でため息をつき、どうにかやり過ごす術を考えた。

「ポイントカード百枚貯まったらいいですよ」
「ああ、そう」

 五条さんは素直に引き下がった。諦めてくれるかと思ったものの、今度は小さな紙を取り出す。それが小切手だと気付いて、私は目を丸くした。

「今度うちの職場でパーティーするから、ケーキ三百個個発注。種類はなんでもいいよ」

 ポイントは五百円に一つつくのだから、すぐに貯まってしまうに決まっている。目の色を変える店長とついていけない私を置いて、五条さんはハンコを置いた。

「今度からハンコ『五条』に変えてね」

 見れば、それは実印ともとれるような荘厳なつくりのハンコだった。とてもポイントカードに押すようなものではない。店で使うハンコは可愛いデザインのものに変えるとして、今度何かの契約をする時このハンコを使ってお金を借りてしまおうか。いや、そんなことをしたらお金を人質にして五条さんに迫られかねない。結局、私はこのハンコを大事に保管するほかなさそうだ。

 何故か負けた気になりながら、私は慌てるスタッフ達を遠巻きに見ていた。