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 佐久早は座椅子の前の位置を気に入っている。乗り降りで人の動きが激しくないし、人に触れる面積がまだ少ない気がする。しかし、座椅子の前に立っているからと言って、決して座りたいわけではないのだ。電車の椅子は汚い。前に座っていた人が電車に乗る前何をしていたかもわからないのだ。部活をしている健全な男子という立場上からも、佐久早は座ることを遠慮したかった。

「どうぞ」

 そういうわけで、佐久早は隣に立っていた女性に席を譲った。女性と言っても、彼女は同じ制服を着た女子だった。何度か廊下で顔を見たことがある。「どうぞ」だなんて、キザだと噂でも立てられたら面倒だ。でも彼女の不安そうな瞳は、どことなく気の弱さを感じさせた。彼女は多分、そうやって面白半分に人の噂を立てる方ではない。

 彼女は席に座った後、じっと膝の一点を見ていた。次の次が学校の最寄りであり、佐久早は彼女の後を追うようにして学校への道を辿った。女子はこんなに歩幅が狭いのだ、と思いながら。

「佐久早くん、痴漢から助けてくれてありがとう」

 彼女に呼び出されたのはそれから数日経った時のことだった。当時からは想像もつかない、晴れやかな表情をしている。まるで佐久早に惚れてしまったかのようだ。佐久早はと言えば、座椅子に座りたくなかったから譲っただけである。彼女にどう見えているかわからないが、佐久早は王子様などではない。痴漢に気付かず、彼女を痴漢した男と並んで電車に揺られていた男などただの間抜けだろう。

「いや、俺はそんなつもりなかったっていうか……痴漢されてたならそう言ってくれれば」
「くれれば?」

 彼女の瞳は期待を宿していた。これは本当に惚れられているかもしれない、と思いながら、佐久早自身押されているのを感じる。強引に来る女子は苦手なのだが、彼女の本来の姿はそうでないことを知っているから、どうも冷たくあしらえない。

「もっと早く助けられた、かも」

 自分で言いながら、これでは彼女の王子様妄想を増強するだけだと思った。現に彼女は、いよいよ佐久早を好きになったような顔をしている。でもそう言うしかないではないか。どこからどこまでが自分の良心なのかわからなくなってきた。もしかして、彼女に惚れられるのが心地いいと思っていたりして。思いついた可能性に、自分のことながら勘弁してくれと思った。