インディゴシティ

薄暗い室内で刃物が壁に突き刺さる。
手元で操る医療用の刃物、メスをクルクルと回しながら壁に貼りつけた写真の顔へ、正確に投げては当てた。

「やあ、お姫様。まだ出掛けないのかな?」

ソファーに腰掛けるストロベリーブロンドの髪を流す背に向かって声をかけた。背もたれに腕を置き、愉快そうに喉を震わせている。

「かくれんぼの鬼はあっちだよ。こっちから出て行ったら意味ないじゃん」
「その口振りだとまた僕に行かせる気だね」
「だってあの女のことすきでしょ?」
「ん?どうだろう。僕にはその概念は乏しいから…でも。そうだね。嫌いではないよ」
「じゃあ上手くナンパが成功するように祈ってあげるよ」

札を取り出し、それを手渡すと美しい彫刻のような男の顔が歪んだ。









午前11時某所にて―――
初夏の陽気に包まれた都心部のとあるテラス席にて、脚を組み珈琲カップを片手に待ち合わせをする黒髪の長い髪をハーフアップにして、ティーシャツに黒のパンツ、軽めのジャケットを着用して、周囲の女性客や店員までもが恍惚の溜息を溢していた。そんな中心部に今から乗り込まなければならないと思うと、胃が痛い。近くのガラス張りのショーウィンドウに向き直り、前髪を整え細部までの身なりを確認した。一応青のグラデーションのワンピースにオフホワイトのカーディガン。髪型はハーフアップにまとめた、鶴丸が。ガラスに映る自分の姿は美しかなかった。いや、まあ……美人に生まれて来て今世は勝組だな、と噛みしめた。
鞄の紐を掴みなおし小走りでその話題の中へと飛び込んだ。

『お待たせ、傑さん』
「もうチェックはいいの?」
『見てたんですね』
「見るつもりはなかったんだけど、可愛かったから。私の為にお洒落して、時間を割く君を想像したら年甲斐もなく胸が躍るよ」
『口説き文句にも年々厚みが出てきましたね。あ、アールグレイのアイスティーで。ガムシロはください』

店員からメニューを貰う前に注文し、引っ込むのを確認してから椅子に座った。頬にかかる髪を耳にかけて、肌を滑るやわい暑さに息をついた。

「才ちゃんは打ち返すのが雑になってきたよね。悟にもそんな感じなの?」
『あの人にまともな返しなんて贅沢では?』
「ああ、なるほど。相変わらず互いに岩塩投げつけてる感じなんだ」
『昨日は隕石投げてきましたけどね』
「ええ?なにがあったの」

店員が飲み物を傍らに置いてくれるので、会釈をしてからガムシロの蓋を開けて中身を垂らす。重たい砂糖水が鮮やかな焦げ茶の中で主張してくる。ストローで氷と共にかき混ぜてカランカランと鳴らしながら、口をつけて吸い込む。喉に通る冷たさと同時に舌を刺激する香りの高い茶葉が鼻から抜けていった。

『何一つ分かち合えませんが、境界線を踏まれたので投げつけただけです』
「誰にだって譲れないものくらいあるよね。わかるよ、私も反発しているから」
『ああ、説得力ありますね。現在進行形で駄々こねてますもんね』
「鋭い言葉は年々精度高くない?」
『だって私、傑さんに怒ってますし』

ストローを指先でいじりながら氷が溶けて融解する。顔をあげると傑さんはくしゃっと表情を崩して笑っていた。そういう顔をもっとしていればよかったのに。ストローを唇で挟みちゅっと吸い出した。

『私はいつまで、傑さんに“おかえり”を言えないままなんですかね』
「うん、それは。私も言われたいな」

言ってとは言わない卑怯さが傑さんらしかった。もう戻らないんだね。来た道を振り返ることが出来ないように。人間は進むことが出来ても戻ることは出来ない。まるで猫みたいに。立ち止まることは出来るのにね。

『そう言えば今日は胡散臭い服装じゃないんですね』
「したら浮くでしょ。流石に。時と場合は弁えているんだよ。口説きたい女性と出掛けるなら、相手に合わせないとね」
『あー、はいはい。相変わらずですね。カッコイイカッコイイ』
「本当に躱すのが上達してるね」

拍手をして雑な反応をすれば、傑さんは軽く受け流すだけ。ここが五条さんと対応が違うんだよね。でもその分気が抜けない。マウントを取りに来るわけじゃないのに、会話の流れは握ろうとしてくる。ある程度の譲歩をする分、引き合いに出せば必ず捥ぎ取ろうとするから傑さんとの会話はやや疲れる。けど、決して不快な思いは抱かない。

『傑さんが婚約者だったらよかったのに』
「それは光栄だね。今からでもそうするかい?」
『まさか。簡単に破棄出来そうでいいなって思っただけですよ』
「破棄しない方向にはならないの?」
『なるわけないです。互いを縛り上げるものは毒と同じ。棄てるべきモノですよ。あれはもっと尊ぶべきものなんですから』

結露が表面に浮き出て下へと落下する。指先に触れた雫は肌を濡らして蒸発してしまう。
神聖なもの。誰にも脅かされてはならないもの。だってあれは……いつまでも色褪せることがない。恋い焦がれるような、消えない特別な想いが詰め込まれた宝石箱のようなものだから。その気持ちだけは大事にしたい。

「女の子だね」
『はい。ちゃんと女の子ですよ。知らなかったんですか?』
「いいや、私は君が誰よりもかわいい人であることを知っているつもりだよ」

滑りおちた髪が頬にかかり、そのひと房に触れ、傑さんの指が耳にかかり眸に日差しの眩しさが取り戻された。

「さて、そろそろ退席しようか」

伝票を片手に傑さんが立ち上がる。差し出される腕に椅子を引きその腕に手を添えて歩き出す。会計を済ませて喧噪する街中を迷わない足取りで人気の少ない路地へと進み、太陽さえ隠れてしまう薄暗い空間に辿り着いてから、太刀を取り出し振り返った。

「随分と持て囃されているみたいだね」
『そうですね。休みの日まで熱烈でそろそろ胸やけしそうです』

会話中に仕掛けられる攻撃を太刀で弾き、軽く祓い落としただけで煙と化してしまう。
この襲撃は校内での類ではない。でも昨日の殺傷能力も感じない。明らかに違う種類の策略を感じる。後ろへ視線をやれば傑さんは腕を組んだまま立っていた。彼の周りだけ呪霊が寄りついていないし、呪霊が回避すらしている。これは、

「余所見はするものではないよ」

その隙を狙って攻撃をされるが、半歩後ろへ避け左手の甲で打撃を与えれば蒸発した。私だけを的確に狙っている動きからして、操っているのか。背後から突進してきた呪霊を避けながら鷲掴む。右手に呪力を込めて肉体を解体すれば、消滅と共に見覚えのある札が手の中に残った。漸く切れた糸の先が見えた気がして、思わず笑ってしまった。
残りの呪霊に目を向けたじろぎ逃亡しようとしている姿に、太刀を頭上へ掲げて一気に振り下ろす。斬撃が空気を裂きながら周囲にいた呪霊を一掃した。
太刀をしまい札をひらひらと手で扱っていると傑さんに声をかけられる。

「態と巻き込んだろ?」

乱れた髪を解くように傑さんが背後に周り髪へ手を伸ばし直される。

『日にちを指定したのは傑さんなのに?』
「そう言われると困るね」
『それに巻き込んだのはそっちだよね』

傑さんは直し終えたと肩を叩く。振り返れば笑みを浮かべたままだ。あの心底胡散臭い顔をして。
その顔を見て私は盛大に息を吐き出し、腕を組む。すると傑さんは両手を上げて降参の意思を示した。

「情報提供?喜んで」
『ふふふ』

笑い声を漏らす私へ手を差しだす。その手に迷いながらも指先だけ載せると全体を包み込まれ連れ出される。再び症状施設が密集する地帯へと戻っていった。









「私も教師?の真似事に興味があってね。素質があったから教えただけだよ」
『教えただけって、被害が拡大してますけど?その事は聞かなかったんですか?』
「気になる?自分が導いたことで道を踏み外したとしても、それは他人が勝手に決めた枠内だろ?そんなものの評価や物差しなんて、気にする必要があるかい?」
『すみません。失言でした。未来を敢えて潰させるような選択肢なんて初めから知っていたら選ばせません。私なら』
「そこが私と君の違いだよ。君は優しいからね」

目の前に陳列しているタオルを手に取り、悩まし気な顔をする傑さん。その反対側でマグカップを手にする。そう言えば鶴丸のカップ欠けたんだよね。新調したいな。棚に沿って歩き出す。

『質問を変えます。その生徒は誰ですか?』
「直球勝負?遊ばなくていいのかい?」
『じゃあ呪霊操術って札、を使用して何が出来ますか?』
「それも直球だね。ふむ、まあそっちならいいかな。呪霊操術と言っても多種多様なやり方がある。それは刻まれた呪術式が一つとは限らないからだと言える。私の場合は呪霊を降伏させ取り込むことが出来る。私の生徒の場合は、降伏が出来ても身の内に保つことは出来ない。そういう身体じゃない。だからストック出来る場所を探った結果が札ってことだよ」
『じゃあ札で呪霊を操っているのではなく、初めから札に呪霊を保管しているってことですか』
「そういうことだね。だからさっき才ちゃんが呪霊を破壊した時札が出て来ただろ?あれがそうだね」
『じゃあ帳を張ったのは呪術者本人か』
「もしかして質問じゃなくて、答え合わせだったのかな」
『帳の張り方なんて傑さんから教わるしかないじゃないですか』

どっちの色がいいか、尋ねられ水色と桃色の二択に水色を指すと両方籠に入れた。何で聞いたんだと思いながら、私もカップを手に取り尋ねた。すると顎に指を置き悩みながらカップルで使用するハートがデザインされているカップを勧められたので、右手に持っていた温度で色が変わるデザインカップをセレクトした。

「君相手に化かし合うのが荒唐無稽に思えて来た」
『騙す相手を見極めないからそういう事になるんですよ』
「わかったよ。これ以上の関与はしない。今回は。あとこっちの方が彼は好きだと思うよ」

眼前に青い鳥が描かれているカップをふたつ出される。上を見上げると傑さんが友人のような顔をする。確かにかわいいし、セット商品の方が個々よりいいけど。なんで、と疑問を口にする前に傑さんが答えた。

「あの鳥類は君とのお揃いを欲しがると思ってね」
『そうですかね?』
「そうだよ。あれはしつこい」
『しつこさで言えば傑さんもいい勝負のような気も』
「ええ?そんなに?猿を救うも猿を殺すも変わらないなら、私の手を取ってもいいじゃない」

カップを持つその手を払い、同じ商品をふたつ棚から選び直してから会計へ進んだ。

『うそつき』

利用する点は一緒じゃない。私からすればどちらにも加担したくないよ。
コードを読み取る中、後ろから追加される商品。傑さんが財布を緩めるからカップ代だけ手渡した。

「ごめん」

何の言葉も返さずに分けられた荷物を持たせて、先に歩き出す。フローリングの上をヒールでカツカツと音を鳴らして踏む。周囲の視線を払い落しながら人の混雑する中を進み。後ろから追いかけてくる音を聞きながら、立ち止まった。それはまるで呼び止められたかのように、視線を奪われるものだった。木目の漆塗りに、翡翠を合わせたその一膳の箸に誘われるように触れた。亭主に声をかけられ一点ものだと囁かれる。それを聞き流しながら唇が震えた。ああ、喉まで出かかって空気と共に溶けて消えてしまった。

『これを包んでください』

亭主に箸を手渡し、予定のない浪費をしてしまう。後ろから追いついた傑さんに「買うの?」と声をかけられる。

「珍しいね。箸を買うなんて。食に関心がないのに」
『まあ、その、小説の参考にしようかと』
「箸が?」
『箸を用意する恋人とか、まあ、いますよ』
「いるかな。箸を贈る恋人」
『いるんだよ』

うるせぇな、と囁くと傑さんは口を閉じる。亭主から紙袋を受け取り左手に持つと、右手を取られ引かれる。次は、と声をかけられ、雑貨屋だと答えて買い物を続けた。



弐部の夏油回でした。あとはもうあんまり登場しないかも、です。主人公は夏油さんに対して友人のような、感覚を所持しています。それは恋愛感情ではありません。夏油さんもまた、恋愛に近い感情はありますが、でも少し違うかな。きっと普通にくっつく話の方が受けがいいでしょうね。ごめんなさい。アンケート読みました。本当に嬉しかったです。ありがとうございます。書くのは勇気がいりましたよね?本当に嬉しかったです。この連載があなたにとって続きが待ち遠し作品であることがとても嬉しいです。こちらこありがとうございました。お礼を込めて更新させて頂きました。

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