Dear



桜が散る中で、彼が何を言ったのか聞き取れなくて、聞き返すと、彼は柔らかく笑むだけで何も教えてくれなかった。待って、何ていったの、ねえ、なんて言ったの―――

『めぐみくんっ!』
「名前。今授業中なんだけど。珍しく僕が教鞭を取っているのに居眠りしてたの?」
『あ……す、みません』

目の前に五条先生がいて、私の頭を撫でてくる。珍しく室内での授業中に眠っていたようだ。恥ずかしい。穴があったら埋まりたい顔から先に埋まりたい。熱が籠る頬を隠すように襟元を引き上げると鼻先を突かれてしまった。

「何の夢見てたのか気になるから、あとで教室残ってね」

コクリ、と首を縦に振ると五条先生は再び授業と言って、説明を始めた。野薔薇ちゃんが消毒といって私の髪を撫でてくれる。

「で、伏黒のどんな夢みてたの?」
『ブフゥッ!??』
「はい、そこ。僕も気になっているのに真っ先に聴かない」
「うっさい変態目隠し。これは女子の戯れなのよ。さっさとあっちいけ」
「いや、授業中なんだけど」
「そう言えば伏黒の名前呼んでたね。俺も気になる。普段下の名前で呼ばないのに」
「そうそう。あたしも気になってたわ、そこ。あんた達まさかそういう関係とか?」
『ちがっ』
「煩い。黙れ。仮にも一応授業中なんだぞお前ら。質問攻めはあとにしろ」
「うん。恵が一番酷いことだけは僕に伝わったよ」

騒がしくなる室内で、私は恥ずかしさのあまり両手で顔を覆い机の上に突っ伏した。もうだめだ。死にたい。いや、今すぐにでも死のうかな。証拠隠滅しかないよ。もうやだ。
伏黒恵くんは、男女の枠組みという目で見たことはない。だってそれはあまりにも失礼な気がするから。彼は、私にとって特別な人ではあるけど、そういう感情を持ち合わせてはいない。だから線引きするみたいに伏黒くんと普段は呼んでいる。だけどあの夢の中では、名前を呼ばずにはいられなかった。下の名前を呼ばなくてはいけない気がした。何故かわからないけど、そうしないと、きっと彼は。

「名前」

引き戻されたように、思想から現実へと戻ってくる意識。眼前に五条先生の顔があって驚いて距離を取ろうとしたら、腕を掴まれ引き戻される。

「危ないよ。急に離れると」
『せ、んせい。近すぎます』
「ああ、ごめんね。何度も呼び掛けたのに返事がないからさ。どれくらいの距離で気がつくかなって悪戯心で試してたんだ」
『生徒で遊ばないでください』
「えぇ〜何度も呼んでているのに返事をしない方が悪くない?」
『それは、そうですね。ごめんなさい』
「うんうん。別に怒ってないよ。素直に謝ってくれるから名前はかわいいね」
『それで、何の用ですか』
「え、無視?何の用って夢の話を聴きに。君の夢は予知夢だからさ」

そう言えばそうだった。恥ずかしさに再び襲われ頬に熱が帯びる。顔を覆い隠しながらくぐもる声で告げた。

『危険なものじゃないです』
「うん、だろうね。恵の何の夢みたの?」
『わかってるならもう聴かないでください!完全にセクハラ案件ですよ』
「えぇ〜〜いいじゃん。若人の青春をチラっと覗いてもいいじゃん」
『駄目です!絶対にだめ!』
「エロいの?」
『そんなの視るワケないでしょ!』
「ん〜じゃあ、やっぱ恋の夢なんだ。そっかそっか、恵のことまだ好きだったんだ」
『……ちがいます』
「ええ?違うの?必死に名前呼んでたじゃん。ずっと恵のこと見てるでしょ」
『違います。伏黒くんのことは、恋ではないです』
「本当かな?」

覆っていた手が下がり、スカートの裾を握って、笑って見せた。

『私が恋なんて出来るワケないじゃないですか』

私の家系は短命。それは天与呪縛が関係している。短命と引き換えに様々な能力を授かっている。私は未来を見通す予知夢の能力がある。未来を予知するなんて、如何にも命と引き換えすぎる力だ。長くは生きられない。15歳で折り返し地点と言われている。もう私は折り返し地点にいるから、死期が近いこともわかる。婿を取るように言われたけど、取らなかった。取れなかった。取りたくなかった。

「まるで呪いだね」
『呪いならいいですね』
「呪ってもいいなら引き受けてもいいよ。僕は」

頬を滑り耳の裏へ手が触れる。顔を固定されて目が合ったような気がする。吐く息が唇に触れて、これから何が起こるのか気が付く前に、教室の扉がダンっと音を立てて室内へ入ってくる音が届く。

「あれ?恵じゃん。どうしたの?」

五条先生の声に私も視線を扉の方へ向けると、伏黒くんが険しい顔つきでそこにいた。

「五条先生。そいつに用があるんで離してもらえますか」
「そうなの?それは知らなかったな。名前は知ってた?知ってたなら僕に言えばいいのに」
『あ、えっと』

約束なんてしていないけど、何だろう。肯定しないといけないような空気に包まれ、そろりと伏黒くんの方を見ると圧が凄かった。ああ、これは話を合わせないといけない奴だ。

「忘れてただけだよな」
『ハイ。忘れてました、ごめんなさい』
「流れるような返答だね」
「行くぞ」

伏黒くんの声にならい、椅子から立ち上がり五条先生に頭を下げる。

『あの、今日は誤解させるような行動をとってすみませんでした。今度は予知が見れるように頑張ります』
「ああ、いいよいいよ。今日は別にそういうので呼んだワケじゃないから。ちょっとジレったくて、進展したらいいなって思っただけで」

先生の言ってることに首を傾げると「フハっ」と息を抜かすような笑い方をした先生が、手を伸ばして頬に触れたかと思うと、唇に柔らかな感触がして、思わず固まってしまった。え、いま、何があたって……瞬きを数回しながら触れた感触が残る唇に指で触れると僅かに湿っていて、それからドッと心臓が鳴った瞬間。腕を掴まれて教室を飛び出していた。

「あーらら。ちょっと焚きつけすぎたかな?」





骨が悲鳴を上げる程圧迫される腕に、眉を寄せて、声をかけるにしてもかけられない程。怒っているような伏黒くんの背中に戸惑っていると突然立ち止まり、くるりと振り返ると伏黒くんは袖口を私の唇に押し当てて左右に振って唇が擦れる程痛かった。

『んんッ!?んんん!!』
「あの腐れ変態教師が、いつか絶対にブン殴る」

一頻り擦り終わったのか袖口が離れる頃には唇が腫れていると思う。痛いな、と摩擦でヒリつく唇に指を押し当てる。

「悪かったな。コレでも付けとけよ」

投げよこされたのはリップクリームで、ちょっと戸惑ったのは使用済みのものだったから。

『あ、私、自分の持ってるからそれで』
「いいから使え」
『あ、はい』

圧が強すぎて伏黒くんの使用済みのリップクリームを塗るという、暴挙を強いられた。うぅ……私には刺激が強いよ。雑念を振りほどいてなんとか塗ってから丁重にお返しした。深々と頭を下げて渡したら「あ、ああ」とぎこちなさそうに受け取ってくれた。先ほどまでの圧は何処へいったんですか、と尋ねたくなったけど、そんな好奇心はいまのところは封印しておこう。心拍数が急増するから深呼吸を繰り返しながら胸の前で手を組み、伏黒くんの言葉を待った。渡り廊下で風が吹く。スカートがたなびく度に何処からか迷い込んだ花弁が舞う中、伏黒くんは手すりに寄りかかり「なあ」と声が届く。

「お前さ。五条先生のこと好きなのか?」
『違います』
「即答かよ」
『誤解されたくないです。あの人とは』
「じゃあ好きな奴は他にいるのか?」
『……いないよ』

心臓がヒヤっとする。まるで冷たい飲み物を飲んだ時みたいな感覚。上手く笑えているかな。そうじゃないと困るな。きみにはバレたくないな。

「じゃあ俺が好きだって言ったらどうする?」
『ッ……そういう冗談は好きじゃないかな』
「本気だったらいいのかよ」
『本気でも困るかな』
「名前……俺は困らねえよ。お前が呪ってくれるなら、困らねえよ」

伏黒くんの手が伸びて肩を掴むと引き寄せられるように、胸に飛び込む。背中に回る腕が温かくて、頬を寄せられる側頭部に伝わってくる熱に涙が止まらなかった。口をきつく結んで緩まないように必死に下唇を噛んだ。だってそうしないと言ってしまいそうだったから。言ってしまった最後だと思った。呪いたくない、呪いたくない。一生あなたの中に残りたくない。消えてしまいたい。一瞬の泡沫のように、まるで人魚姫の最期のように、私が望んでいるのはそんな結末なのに。なのに、そんなことバカみたいだって蹴ってしまいそうで、優しさに溺れてしまいそうで、見失わないように、それでも私の指は恵くんの服を掴んでいた。



「××歳も年下の子を揶揄って犯罪者になりたいのか」
「えぇ〜〜?別に反応が面白いからって遊んでなんかいないよ。本気で揶揄ってるだけだよ」
「通報した」
「はやくない?いいじゃん。僕もハッピーエンドが好きだからさ。ちゃんと気持ち汲んでるし。でもさ、幸せになれなかったら、拾ってもいいよね」
「……犯罪者にだけはなるなよ。気分悪いから」