背中合わせの僕たちへ



大衆が囁く二文字の言葉が、理解できなくなったのはいつだったかな。
他人同士が重なり合う場面を見ても「いいな」と羨ましがる自分もいるけど、同時に「気色悪い」と嫌悪したくなる気持ちに阻まれる。どうしてだろうか。肯定と否定がせめぎ合う。どうしようもなく。こんな私を他人が受け入れる訳がない。両腕を抱きしめながら、眉を寄せ壁に寄りかかり孤独の寒さをどうやり過ごそうかと考えていたあの冬。
廊下を踏む音が止み頭上から降ってくる揶揄に、瞼を開けた。

「なぁにやってんの、邪魔なんだけど。構ってくださいってサイン?うぜぇな。他所でやれよ」

その言葉に顔を上げずとも誰が吐いたのか解ったから、立ち上がり彼の行く道の反対方向へ歩き出した。すれ違い様に『ごめんなさい』とだけ残して。

「名前ってさ気持ち悪いよな。いっつも何も言わないで肯定ばっか。偶には反論してみろよ。悔しくねえの?言われっぱなしで」

珍しいことに引き留められてしまう。掴まれた腕は振りほどけないほどに強く握られ、眉を顰めた。他人が自分を理解できると思っていないから、他人のことも自分は理解できない。だから何も言わないでいた。劣等感も羨望も、きっと使い捨てのカイロみたいに熱さえ要らなくなるんでしょ。捨てられる言葉を私は惜しむから、会話を放棄しているけれど、そんなことを説明したところで、だからなんだ、と言われるのだろう。互いに水と油の性質なんだから突っかからずに生きて行けばいいのに、面倒な人だな。それともサウンドバックにはちょうどいいということかな?無機物じゃないからイラつきもするし、傷つきもするんだけど。

『五条くんの尺度から見ての私がそれなら、そうなんじゃない?』
「はあ……面倒くせぇ女」
『そうだね。それは私も同感』
「……面倒だけど、俺のがよっぽど面倒なの、知らねえだろ?」
『え?性格のこと?知ってるけど』
「うるせぇ。ほっとけ」
『そうだね。わかった。放っておくから離してくれる?』
「やだ」
『小学生かよ』
「それ硝子にも言われたな。何処が小学生だっての。どこをどう見たって」
『そういうところだよ』

態とだったのか、私の返答に対して表情を緩めて笑っていた。まるで罠にでもかかった小鳥を痛めつけようとしている猫みたいなご尊顔ですね。

「俺のこと嫌いなのによく見てんじゃん」
『おめでたい思考回路で羨ましいよ』
「そう?世界は俺中心って、事実じゃね?案外簡単なもんだぜ」
『そう。いつか滅ぼすの?おめでとう』
「壊したってつまんねえじゃん。壊れる程度に半壊させてから懐柔した方が近道じゃねえ?そう思わない?裏切らない。逃げられない。否定したって最後には戻ってくるしかないんだ。最高だろ?」

何の話なのかわからないけど、ゾッとしたことだけはわかる。背中に嫌な液体が流れている。
人類にとっての救世主が、人類にとっての諸悪の根源になり果てている気がするのは私だけ?それともこの諸悪は私だけにしか向けられていないとでもいうの?なんて最低な世界に成り下がったものだ。益々の孤独街道に拍手しか出てこない。

『でも、きっとそれは消滅するまであなたのモノにはならないんじゃない』
「……なんで?」
『なんでって。そんな事も解らないの?英雄が聴いて呆れるね』
「いいから答えろよ」
『空っぽを傍に置いて五条くんが満足するとは思えない。あくまで物は物なんだよ。最後にはきっとあなたはその虚しさで枯れちゃうかもね』

それはそれで滑稽だね。見てみたいものだ。泣きじゃくる姿なんて。鼻で笑いながら想像をしていると、突然掴まれている腕を引っ張られ顎を鷲掴みにされると、唇を押し付けられた。

『んッ?!』

逃げ出そうともがくがビクともしない、この筋肉質が!酸素が回らず顎を掴む腕に爪を立てると唇が離れ口を開けた。酸素を取り込もうと息を吸うと、腕を掴んでいた手が腰に回り、再び顎に指が添えられ唇が重なる。口腔内に舌が入り、弄ばれる。重なる度に粘膜質な音が鳴るから、廊下の所為でよく反響する。溢れてしまう涎が口端からこぼれていくことさえ知らずに、酸素の回らない脳内が思考を貪られる。足に力が上手く入らない、立っているのもやっとな身体などお見通しだったのか、腰に回されたその腕に支えられ、必死になって両手で彼の服を掴むことしか出来なかった。
舌が名残惜しそうに口腔内から引いていくと、肩を上下に動かしながら息を整える私に向かって笑い声を浴びせながら、頭皮にくちづけられる。

「鼻で息すればいいだろ」
『はあ…はあ……ッ』

睨みつけると上機嫌に彼はわざと舌を覗かせた。手も足も出ない。力が入らないし、この態勢では蹴ることも殴ることも封じられている。そういう行動に出ると解っていて態とこの態勢に持ち込んだのか。
戦意喪失させたと解ってから五条くんは私を解放した。距離を取ってから口端から垂れる液体を袖で拭った。いつまでもつけていれば嫌でも思い出す。
壁に手をつき、一歩でも詰め寄ってくれば過敏に反応して更に距離を取った。

「からっぽでも手に入れなきゃお前は逃げるだろ。そうやって」

また一歩と踏み出される度に、下がる私を見ながら五条くんは獲物を前にした獰猛な獣のような目をする。

「独りが淋しいんだろ?俺が埋めてやるよ。お前の事を理解なんてンなものはどうでもいい。俺が欲しいんだ、お前が。だから――」

手を伸ばされ、その手に捕まれば今度こそ壊されると恐怖に搔き立てられて、私は逃げ出した。それは決して私が欲するものではなかった。絶対に手を出してはいけないものだ。あの手をとってはいけない。逃げ出す私を追いかける音は聞こえなかった。

「早く堕ちて来いよ……名前」