後悔すんなよ



誰かが嘘を謳うと、遠くから高い鈴の音が聞こえるんだ。

「《きみは素敵な人だ。聡明で愛らしく小鳥が囁くような声で、僕には身に余ってしまう。きみという人を独り占めなんて》」
高い鈴の音がこだまする度に気分が悪くなる。額から汗をうっすら浮かべながら引きつる口元。
『あ、りがとうございます……』
「《だが、申し訳ない。これから用があって》寄り道せずに帰ってください」

愛想笑いをしながら手を振って見送った後、鞄に入れた岩塩を振りかぶってぶん投げた。
他の女のところへしけこむのに私には寄らずに帰れってか。片腹痛いわ、スケベ糞ヤロウ!!中指を立てながら舌を出していると、気持ち悪さが戻ってきてよたる。近くにあった噴水の塀に手をつきしゃがみ込む。太陽の日差しが更に気分の悪さを加速させた。あの発情野郎が日傘を取り上げた所為で、貧弱な身体が息も絶え絶えに……。

「さっきの威勢はどうしたお嬢さん」

声と共に暗くなる。頬に冷たいものが触れそれが缶であることを知ると顔を上げた。

『おにいさん』
「早く持て」

缶を慌てて自分の手で持つと二の腕を掴まれ立たせられる。掴んだまま引っ張られ木陰が出来ているベンチに座らせられた。隣に容赦なく座り背もたれに腕を引っかけるお兄さん。両手で缶を持ちながら、あまり見ないようにしていたら「視線がうるさい」と言われてしまった。

「それあったかいのか?」
『違います』

揶揄うのは趣味のようだ。プルタブを開けたときプシュっと中身が飛び出した。顔面に炭酸水がかかり甘ったるい匂いが次にやってきた。むくれた顔でお兄さんの方を向くとニヒルな笑みを浮かべていた。笑うなら一層の事大口開けて笑え。

『お兄さんって器が小さいと思う』
「ああ、よく見てるな」
『……』

半分ほど減ったぬるくなったサイダーの缶を飲めずに眺めていると、お兄さんは缶を私の手から取り上げ替わりに別の缶を持たせた。レモネードだったのがなんとも言えずに、私が押し黙るとお兄さんはやっぱり意地悪く笑んでいた。

「アレ。お前の近くでよく見るな。お前のナニ?」
『あー……あの人は、親同士が勝手に決めた婚約者です。政略結婚、みたいな時代錯誤が通用する家柄に生まれちゃったから、そういうの従わないといけないみたいで。漫画みたいですよね』
「へぇー……そいつはなんとも。可哀想だネ」
『もっと嘘っぽく言って貰ってもいいですか?本気すぎて逆に辛いんですけど。新手のイジリ方法ですか』
「嘘言ったらお前に露見されるんだろ。言っても仕方ないことを言ってどうすんだよ。めんどくせぇ」
『ド正論すぎて吐きそう』
「吐くなら向こう行け」
『手を差し伸べたなら最後まで面倒みてください』

せらせら、と笑うお兄さんを横目にプルタブの開いているレモネードに口をつける。喉を通り抜けるレモンの酸っぱさと後から中和するはちみつの甘い味が口内を満たす。

「で?」
『はい?』
「続きがあるんだろ?」
『……他所に女が数人いて、私の個性を知ってて嘘を吐く度胸は買いますけど私から婚約破棄は出来ない力関係の所為で黙認状態。あれと結婚しないといけないなんてあり得ない。全身で拒絶ですよ。鳥肌が止まりません。全く好みの男でもないのに、寧ろ。節操もないブタ野郎なんて養豚場で嫁でも娶れと思いますね』
「っ、養豚場って……おまえ、センスあるな」

他所を向いてお兄さんは肩を震わせながら笑っている。笑っている顔を見られたくないのかな。身を乗り出したい気持ちを背もたれに預けて、レモネードを仰ぐ。悪口だけど溜まっていた鬱憤を吐き出せて少し気持ちが軽くなった気がした。顔の横に降りていた髪を避けて頬に指の腹が触れる。でもそれは突くとかじゃなくて、優しく気遣うような触れ方に心臓が大きく一度だけ脈打った。滑り落ちるように離れていく指を追うように顔を向けるとお兄さんの冷たそうな青い眸と重なる。

「お前って女のコだったな。忘れてたわ」

言葉の意図を理解してから顔を背けて、両手で隠した。顔が熱い。背中から笑い声が聞こえた。もっとはっきり笑えってば!と悪態つきながら、眉を寄せた。お兄さんの隣は楽しくて、時間なんて忘れてしまう。気分も悪くならないし、気が沈むこともない。あの音も聞こえない、だから………

『お兄さんが好きです』

お兄さんの眸と目が合うと私は自然とそんな言葉を口にしていた。初めてみたお兄さんの驚いたような顔を見て私はこどもみたいに笑い声をあげる。

『勘違いしないでくださいね。お兄さんの隣が“好き”ってだけなんですから』
「趣味悪いな」
『別に人としてじゃないので』
「それ俺が最低ってこと?あってるけど」
『私の理想は優しい人なので。あと顔はイケメンに限る』
「お前如きが贅沢なこと言ってんじゃねえよ」
『言葉強くないですか』
「普通だろ」

恋とかそういう類ではない。でもこういう時間がもっと増えたらいいなと思う。
夕日が傾くのを確認すると私は立ち上がる。少しだけ冷たくなった風が肌を撫でて空へ吹き出す。髪を抑えて絡まる毛先たちを指で撫でるとお兄さんが唇を動かした。

『なんて言いました?』
「なんでも。さっさと帰りなお嬢さん」

夕日を背に去っていくお兄さんの背中を見つめながら、私は微かに聞き取れた言葉を思い出す。
“後悔するなよ”って言われた気がするんだけど、気のせいだよね。だってそんな不吉な言葉に思い当たる会話はしていないんだから………
遠ざかるお兄さんの黒い背中が、私には不穏な気配を引き連れているみたいで。その日の別れを妙に惜しんだ。
その不吉は翌日、明らかになる。


婚姻関係にあった相手が行方不明になったと先方から連絡が入り、騒然とする家の中。私は自室に閉じ込められ脳裏にお兄さんの言葉がよぎり、頭を抑えた。いや、そんな…否定をしながらも確実な否定など出来ない。どうしてこんなに焦燥するのかもわからないまま私は薄暗い自室で足を抱えて蹲っていたら、頭に重みが加わり髪を撫でられる感覚に心臓が止まりかけた。

「少しは抵抗しろよ、まるで飼い猫だな」
『……お兄さんがやったの?』
「《なにが?》」

隣に腰かけてお兄さんの足が私の身体に触れる。今までそんな距離にいたことはないからなのか、それともあの甲高い鈴の音が聞こえた所為なのか、身体中から血の気が引いていく。

『……なんで』
「なんでって《お前が望んだことだろ?》」

拳に力が入り、咄嗟に腕を伸ばしてお兄さんの胸倉を掴むと床に押し倒し腹部を膝で抑えつけ怒声を上げた。

『人を陥れる嘘をつくな!!』
「はっ、精度たけぇ」
『どうした!あいつをどうしたか言えよ!』
「おいおいそんな直情的に流されていいのか?もっと明確に適切な聞き方があるだろ?あいつを殺したのか?って」
『!?』

胸倉を掴んでいた手から力が抜けていく。震える身体を引き連れて私は目の前の男から退き、距離を取ろうとしたが腕を掴まれ引っ張られる。握りつぶされそうな圧迫に顔を顰めると顎を掴まれ無理矢理上へ向かされる。眼前に迫る男の顔が妙に愉しそうに歪んでいた。

「名前。俺もお前のコトすきだよ」

顎を伝って冷たい涙が床へ落ちていった。
どうして……聞こえて欲しいときにあの甲高い鈴の音は聞こえてこないのだろう。
嘘と真実でこの世は構築されている訳でもないのに、今、この場ではそれだけが唯一の救いだったんだ。