君が前を向くと、わたしは後ろを向く。君が「はい」と答えれば、わたしは「いいえ」と答える。
それが現状だ。

「最低!」

廊下に響きわたる乾いた音が、反響する。清々しい程の快晴日和になんて似合う音なんだ。偶然通りかかった、わたしは普通に出ていく。

『色男は辛いね』
「覗き見は犯罪じゃきに」
『じぁ、こんな所でやらないでよ』
「あっちに言っとくれ」

叩かれた頬を気にする事もせず、彼はこの場に留まりわたしの相手をしてくれる。
その無駄に気遣い上手な人間にならなくてもいいのに。呆れの兆し。溜息を溢して彼の腕を掴む。簡単に引っ張られてくれる。

『保健室行こう』
「え、無理」

無理じゃねぇよ、そんな態度を執りながら彼の言葉を無視して、何もない廊下を進む。



※ ※ ※




保冷剤を無人の保健室から拝借し、それを仁王に手渡すと、素直に叩かれた頬に宛がう。黒張りのソファーに腰掛ける仁王を横目に、わたしは窓辺に背を預ける。少し窓を開けて爽やかな風を肌に浸透させる。静まり返る保健室。だけど、それ以上に、今は授業中だった。サボってしまった…。今までサボった事はなかったから少しだけ背徳感に見舞われる。
言い訳をするなら、彼の傍に居たかった。放っておけなかった。その二つが思い浮かんだが。本当は……好き、だからと言った方が潔い。そして本音だ。
暫く窓辺から外で体育をしているクラスの見学をしていると、仁王が呟く。

「…愛ってなんじゃろな」
『愛。愛かー。愛ねー』

「愛」を繰り返し口にすると、「真面目に考えろ」と言われてしまう。

『愛は…私にだってよくわからん。だいたい中学生なのにわかるわけないでしょ』
「…おまえさんは正直だな」
『中学生なんだからそれで充分だと思うけどね。ってもしかしてそれが原因なの?』

仁王を正面から見つめると、コクリと頷く。それを肯定と受け取ったわたしは、思わず開いた口が塞がらなかった。
今の子は早熟すんの早いなー。他人事のように自身と同じ年齢の女子たちを評価する。
愛は、何でも赦せてしまう。浮気をされても、裏切られてもそれでも…愛しているから。愛は深い。どこまでも広大な海原のように。わたしは、嫌。まだ中学生と言うお子様な枠組みに居るわたしたちは、愛のなんたるかは理解の反中を超えている。
だって、好きだったら相手も好きになってほしいと思うし、随分と欲張りだと思う。相思相愛になったらもっとと求めてしまう。個人の自由を奪っていながらもそれでも、好きな人は自分の所有物の様に縛り付ける。中には純粋な想いから成り立つものも確かに、存在しているけれど。大半の人間は、ドロドロとした独占欲で心は一杯だ。人間なんて所詮、そんな俗物な生き物に過ぎない。
そして、わたしは好きな人をいつまでも待っていられるほど愛情深い女でもない。そろそろやめようかと、そんな事を思っている。いつまでも待っていて、それで誰が得をするというのだ。いや、わたしは幸せになりたいとかそんな軽い感情はない。
ただ、これに名前をつけるなら…疲れたから。
仁王雅治を思い続ける事に、違和感を持ったから。彼がわたしに何をしたと言うのだ。人生の転機を変えてくれた人でも、命の恩人でも、苛められている所を助けてくれたわけでもない。何もしてくれていない。何かをしてもらった記憶もない。そんな彼に、どうしてわたしは、好きという感情を持ち合わせたのか…わかんない。
それがいつからなのかも、正直わからない。というか、覚えてもいない。記憶はいつの間にか塗り替えられていたし、今まで違和感を感じなかった。けれど、もうやめようと思う。わからないだらけの人を好きで居続ける事に、わたしのメリットはないからだ。
時計の針が11時を回る。背を預けていた窓から離れ、自力で立つ。そして、彼が座っているソファーへ視線を向ける。
それは、永遠の別れを口遊む恋人のように。

『教室に戻るね』
「今からか?」
『ゆっくり歩けば休み時間になるよ。次からは叩かれたらすぐに冷やしなさいよ。じゃないと心配かけちゃうじゃない、本当配慮が足りないんだから』
「…ピヨッ」

変な擬音語。それが聴こえると何だか胸の奥が痛くなる。けど、同時に笑みが零れる。

『じゃあね』

もう、二度と君と話す事はないだろう。少なくともわたしから君に声をかけることはない。さよならを意味するその言葉をわたしが口にする。何だか重たい唇。だけど言葉にすると軽くなった。保健室のドアへと歩き出すその寸前。
彼の指先がわたしの指先に触れた。それは一瞬の電波のように体中に駆けまわり、足を止めるには充分の刺激だった。
立ち止まり、彼へ視線を投げる。彼が伸ばした腕が見え、今度こそ彼はわたしの指先を軽く握る。
強弱で判断すれば、それはとても弱い。簡単に無視も出来れば、振り払うことだって可能な弱さ。なのに、振り払えない。

「もう少しだけ…ここに居てくれんか」
『…仁王……?』
「ここに居てくれ」

切なる願い。懇願。こんな彼を見たのは初めてだった。気がつけば、彼の隣に座り指先同士を軽く結んでいた。密接する指先だけの体温が、まだわたし達を繋げていた。