好きだ。そう思えば思う程気持ちは加速して、留まる事を知らない。時にはそれでもいいかもしれないけれど、今は。それじゃ、いけない。
放課後のテニスコート。フェンスの向こう側で沢山のギャラリー達が、想い想いの人物を連想して、その想いのたけを視線で、声援で届ける。そんな姿をわたしは優位な位置から一番遠い場所で、バインダーを抱えながら眺める。
羨望。期待。わたしとギャラリーの子たちは互いに互いの事をそんな瞳で見つめる。呆然としていると、影が出来る。

「ぼうっとしてると危ないぞ?」
『あ、ぶないな』
「ほれ、言ったろ?」
『忠告遅いよ』
「記録とれた?」
『取れたよ』
「見して」

指をちょいちょいと仕草でわたしを煽る。喉に通らない唾がどこへ行っていいのやら混乱してしまう。
それでも、落ち着こうと持っていたバインダーを彼に手渡す。受け取る時の甘い香りが心地いい。心臓が破裂しそうになるけど、呼吸困難になりそうにもなるけど、この香りを嗅がないとわたしは。窒息死してしまいそうになるよ。
赤い髪がこの夕日の中を誰よりも彩る。鮮やかな色彩。誰もが眼を奪われるそんな君の存在。それをこんなに近くに見ているのに、手を伸ばせば届く距離にいるのに……わたしは一番遠い存在なんだ。
それが偶に……悔しくて、苦しくて。涙さえも出ないんだ。

「俺の妙技について書いてないじゃん」
『妙技は記録しません』
「ええー。ケチだな、お前」
『ケチと言われる覚えがありません』

ほれ、行った行った。と彼の背中を押しだす。すると、不貞腐れた声を出しながら、わたしに手を振る君の後姿に。
今、わたしはどんな顔をしているのだろうか。何故か、泣きだしそうになってしまうんだ。
心がざわつく。これ以上、君の傍に居ると溢れて止まらなくなりそうだよ……。
フェンス越しに君は笑顔を振りまく。ただ一点だけを。その笑顔を一身に受け止める彼女は、とても幸せそうな顔をしている。
羨ましいな。悔しいな。幸せそうだな。いいな。いいな……わたしも、笑いたいよ。
バインダーを抱きしめる。顔が上げられない。今、顔ぐちゃぐちゃ。心もめちゃくちゃ。
風がわたしを嘲笑う。中傷するより痛いくらいの風が、わたしを攫ってくれたらいいのに。
じゃりを踏む音が傍に聴こえて顔を上げる寸前に、頭にのしかかる軽量に誰だかわかった。この香りは。

「マネジャーがタオルを必要とするとは、おかしな光景だな」
『マネジャーだって汗くらいかくんだよ』
「そうか」と素っ気ない声が、今は心地が良い。無地のタオルを引き寄せて抱きしめる。
「タオルは拭くためにあるんだが、お前はそう使うのか」
『うるさい、柳くんのばか』

抱きしめる腕を強めて、優しい空気に肩を震わせた。好きだ、好きだ、君に届け。
君の名前がわたしを泣かせるんだから。泣いた分だけ届いてほしい。

「なまえ」

名前を呼ばれる。頭に乗っかる重みと香り。包まれる感覚が顔を上げさせる。
すると、わたしの視界に広がる情景は柳くん一色に変わる。いつもの涼しげな輪郭が、とても綺麗で。
そっとわたしの額に伸びる小さく握った拳がコツンと音を立ててぶつかる。

『いた』
「辛い時は俺に言え」

柳くんにかけられたジャージが風によってたなびく。肩に落ちて君の香りに包まれる。

「慰めてやらんでもないぞ」
『…偉そう』
「当然だ」

雫が乾いて、もう湿り気はどこかへ拭く風。眉をへの字に曲げてしまうけど。

『……ありがと』

そう伝えると、優しげな笑みがそこにあった。